まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

会津若松のキリシタン。

2012年06月17日 | 歴史

最近は、会津藩に興味を持っています。
会津には、かつてたくさんの クリスチャンがいましたが、かなり迫害を受けました。
鶴ヶ城の石垣には、十字架を刻んだ石がいくつか使われています。 
数年前に、会津若松に行ったとき、野口英世が洗礼を受けた教会の牧師さんにお目にかかりました。
会津藩祖の保科正之は、家康の子で二代将軍・秀忠の庶子で、七歳の時保科家の養子になりました。
その後、三代将軍・家光から肥沃な土地会津23万石をもらい松平を名乗るようになったのです。
会津藩では、子供たちの教育に力を入れ、日新館では、漢学・和学・神道・天文・医術などを学び、弓道・馬術以外にもプールまでもあったそうです。
家族から、遊び仲間から、日新館から徹底的に藩訓をたたきこまれ、藩士の地区を9つに区分して子供たちもそれに沿って行動していました。
「生徒の什」「遊びの什」「お話の什」というグループがあり、年長者のリーダーのもとに行動を共にしました。
遊ぶ前には、年長者が
1、年長者に背いてはいけない。
2、嘘を言ってはならない。
3、卑怯なふるまいをしてはいけない。
4、弱いものをいじめてはいけない。
5、年長者には、お辞儀をしなけらばならない。
と言い聞かせ、子供たちは「はい」という返事を一つ一つしていました。
これだけ集団行動を徹底されると、キリシタンが信仰を持ち続けるのも難しいと思います。
キリシタンは子孫までも厳しく見張られていたそうです。
ちなみに、明治学院の日本人最初の院長・ 井深梶之助も会津出身です

 

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勝海舟と新島襄

2012年06月17日 | 旅行

勝海舟と新島襄は5回会っています。
最初は津田梅子のお父さんである津田仙の紹介です。
勝さんは、最初に来た人に、眼をむいて大声でカーツと気合いを入れる癖があるので、気の小さい人は逃げてしまったそうです。
新島襄は、最初に会った、次の日にも勝邸に行っているので、たぶんその気合いを体験したのではないかと言われています。
勝さんは、赤坂氷川の屋敷にいて、毎日お金を借りに来る人々に会っています。
日記に毎日誰が来て、いくら上げたとか、いくら貸したとかを細かく書き込んでいます。
ところで、勝邸には、たくさんのクリスチャンが出入りしていました。
弱い者にいつも手を差し伸べていた勝さんですが、それが日本のキリスト教界に、大きな足跡を残す結果となったのです。
台湾に行った時、ホテルの近くで、最初に目についたのが「勝家」という看板でした。
なんだか、嬉しい出会いであり、語りかけでもありました。

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大山捨松

2012年06月17日 | 歴史

今、大山捨松の伝記を読んでいます。
会津若松出身で、戊辰戦争を経験していますが、新島八重より少し年下です。
八重は、男装して銃を持って戦いましたが、捨松は、大砲の球を運んでいました。
八重と覚馬の山本家と、捨松の山川家は明治時代に大きく用いられました。
会津藩は、官軍との戦いに敗れた後、藩士たちは厳しい斗南に移住になり、食べるのにも事欠く状態になったのです。
そんな中で、家老となった捨松の兄・浩は藩の教えを引き継ぎ、学問を重要視しました。
後に、男爵・陸軍少将・貴族院議員になります。
弟の健次郎は、アメリカに留学し、東京帝国大学総長・貴族院議員になりました。
妹の捨松は、斗南の食べ物もない地獄のような生活はかわいそうだと言うので、函館の坂本龍馬の従弟でギリシャ正教の司祭・沢辺琢磨の所に預けられたと言われています。
この沢辺琢磨は、土佐出身でしたが、函館の宮司の養子になって宮司をしていましたが、ニコライと知り合いになり、新島襄とも親交を結び、日本人初のギリシャ正教の司祭となったのです。
そこにはたくさんの同居人がいたので、捨松は次にフランス人の家に預けられました。
やがて、捨松は、兄・健次郎のいるアメリカに女性初の留学生となって津田梅子らとともに遣わされて行きました。
捨松は、幼名咲子でしたが、アメリカに行く前に母親が、「捨てるたつもりでアメリカに行かせるが、帰りを待つ」と言う意味で捨松と言う名前に変えたのです。
ちなみに、津田梅子は父親がなかなか名前を付けてくれずに無名(むめ)からうめ→梅子になりました。
そこで、ベーコン牧師の家に住み学校を卒業します。
帰国後、津田梅子は、独身を通しましたが、捨松は、会津の敵であった官軍の中にいた陸軍大臣で伯爵となった大山巌と結婚します。
看護婦の勉強をしていた捨松は、慈善事業に力を入れ、鹿鳴館で日本初のバザーを行いました。
これは、市価より高いし、お釣りは渡さないというちゃっかりしたものでした。
この時、クララもバザーに出かけていますが、捨松とクララの従妹は親友でもあるのです。
面白いですね。

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