記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

豊後高田「昭和の町」と宇佐航空隊+ゼンリン創業者の故郷よもやま話

2007年05月26日 22時25分58秒 | まちづくり
 24日、「昭和の町」で売り出し中の豊後高田へ出向いた。某館の夏の
企画展で「駄菓子屋の夢博物館」小宮氏に協力いただくための打合せであ
る。具体的な借り受け資料の内容の話や、企画展の記念講演の依頼もした。
妻はこの日休日で小宮氏に会うというと付いてきたかったようだが、時間
的に諦めた。妻と小宮氏は、氏が太宰府天満宮参道沿いに駄菓子の資料館
を私費で開設していた頃からの知り合いである。

 この日も「駄菓子屋の夢博物館」や新しく開設された「昭和の夢町三丁
目館」などは観光客で賑わっていた。平日は年輩の方中心の団体客が多い
ようだ。観光客の動きを見ていて、いくつか気になったこともある。

 観光客の多い休日や、事前に団体で申込みがある場合はボランティアガ
イドが準備して案内役を務めているが、個人でふらりと訪れた方や予約な
しの小団体には案内役がいないため、施設で迷ったり、文句を言いながら
動いている方も目に付いた。小さなことだが、観光客のニーズや不満を把
握して対応することも大切だと思う。

 昼食は南蔵の食事処で金谷氏と雑談しながらいただいた。氏は豊後高田
「昭和の町」仕掛け人で、今では全国各地で豊後高田と同様に中心市街地
活性化に悩む町からの依頼で忙しい日々を送られている。昭和日常博物館
の市橋氏から吉田初三郎を教えてもらったとのことで、初三郎と九州観光
さらに日本の観光創世記の話で盛り上がり、気が付くと夕刻となっていた。

 本来なら、豊前の実家や宇佐の叔父宅などへ立ち寄って帰ろうと考えて
いたが、時間が無くなり福岡博多への最短距離である、宇佐~耶馬渓~日
田~九州自動車道経由で博多へ帰った。途中、いくつか通りたい道があっ
た。そのひとつが、旧宇佐航空隊の滑走路跡、誘導路跡の道路である。

 すぐそばの集落が私の母の郷であり、航空隊の敷地の多くが母の一族の
所有であったという。宇佐航空隊は、特攻隊の前線基地のひとつで、昭和
14年に設置された。今も数基の格納庫や誘導路跡などが当時の面影を伝え
てくれる。滑走路跡には近年、地元保存会が記念碑などを建てた。

 私は小さい頃、母の実家で4年ほど過ごした。お寺さんの幼稚園に通い、
格納庫跡や誘導路などでも遊んだ記憶がある。今は川も整備されて殺風景
であるが、昔は松並木などが目立つ風情ある場所で、お盆や正月、彼岸な
どのたびに従兄弟達とともに虫採り、川遊び、凧揚げをして楽しんだ。

 集落はその頃から家屋などは建て替えたところも多いが、当時のままの
道筋が残り、戦時下で毎日のように空襲におびえたという叔父や母らの話
でしか特攻隊などの記憶はたどれない。先年亡くなった本家の親戚は特攻
隊の順番待ちで運良く一命をとりとめた方であった。

 豊後高田も宇佐航空隊の影響を受けた地域。「昭和の町」店舗にも、
「宇佐航空隊御用達」の看板の残るお店がある。余談だが、戦後私の祖父
は豊後高田の郵便局勤めを数年したそうだ。ちょうど昭和30年代初め、
豊後高田のまちが一番元気だった時代である。祖父は戦前、若松局時代は
火野葦平の弟さんと同僚だったと母から聞いている。

 火野の作品には日出生台演習場を舞台としたものがある。日出生台とい
えば、母の郷の最寄り駅である豊前善光寺駅から昭和28年まで豊州鉄道
(別名日出生鉄道)が走っていた。祖父は測量士の資格を持ち、また筆も
達筆だったため、近年まで豊前善光寺駅の題字は祖父の作品であった。

 そこから数キロ、山側の宇佐インターを過ぎて耶馬渓へ抜ける旧道は、
ゼンリンの創業者・故大迫正富氏の故郷である宇佐市麻生地区を通る。こ
の辺り一帯には、「マンガ日本昔話」に出てきそうな、ご飯を盛ったよう
なキレイなカタチをした山が多い。今も採石場などが点在するが、以前は
鉱山などがあって湯治湯温泉なども繁盛したようだ。

 この麻生地区は私の故郷でもある。3歳まで住んだ家がどこだったのか
今では探すのも困難であるし、父と離別(離婚)した母の連れ子で実家へ
戻った母を気遣い、今まで調べることもしなかった。唯一、結婚時などに
戸籍を調べ、旧姓が麻生であること、この地の名士の家柄であることなど
は知っている。今も麻生地区には昔ながらの大きなお屋敷が多い。

 私の麻生の記憶は、坂の上を上がったところにある大きな家に、大きな
3匹の犬がいたことくらいである。3歳の記憶であるから「大きな」はあ
まりアテにならないが(笑)。懐かしの?麻生を抜け、耶馬渓の見慣れた
景観を見ながら日田へ向かう。

 今年、自分のライフワークとして実行したいのが、明治から数多く残さ
れている耶馬渓の絵葉書や古写真と、今の同じ場所の景観がどれくらい違
うのかの調査である。一番の注目は、奇岩の岩肌の露出度。今は多くの景
勝地が雑木や伸び放題の草木で覆われ、景勝を損ねているのは明らかであ
る。開拓が早く、幾多の文士・名士が絶賛した頃の活気を確認したいので
ある。

今日の写真は、宇佐航空隊の誘導路跡。この延長に格納庫跡がそのまま残る。

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