既報で西鉄ライオンズファンはご存知だと思うが、和田博実さんが22日早朝
亡くなられた。朝、奥様より連絡をいただき、放心状態で今日は過ごしている。
すでに先週から容態が悪いことは伺っていたし、19日・20日と見舞いに伺い、
最後まで必死に病と闘うお姿を目のあたりにしていたので、自分なりに覚悟は
していたが、いざとなるとショックが大きい。
訃報 和田博実さん72歳=稲尾氏と「黄金バッテリー」毎日新聞
他の執筆・編纂仕事が進みそうになく、悩んだ末に今の和田さんへの思いを
書いておこうと思う。お付き合いさせていただいた時間はたったの一年だった
が、和田さんの名を冠した唯一の本に携われたことは、私にとって何物にも変
えがたい貴重な財産である。「捕手は目立つべきではない」という考えからか、
執筆などの話は一切断り続けた方である。もっと色々な話をお聴きしたかった。
一報はライオンズOB会の坂上氏から共同通信経由で各社へ配信され、各紙の
夕刊に訃報記事も掲載された。ネット上の記事でひとつ訂正がある。いずれも
大分県臼杵市出身となっているが、正確には鹿児島県出身。臼杵はお父様の転
勤により高校までを過ごしておられる。ご本人に監修いただいた遺作となった
写真集「西鉄ライオンズとその時代」の和田さんのプロフィールが正しい。
新聞各社とも写真がそれぞれ違うが、毎日新聞は和田さん最後の取材受けと
なったカラー写真(西部版5月19日夕刊掲載写真=掲載時は白黒)を掲載。晩
年の写真の中では最も柔らかい、安らかな表情の写真だと思う。この日は体調
もよく、色々な話も聴かせていただいたことを思い出す。「益田さんのお願い
でなかったら、この取材は断ってるよ」と笑いながら記者の前で話されたが、
その写真が遺影となってしまった。
和田さんは、どうしても稲尾さんとセットで、というか稲尾さんあっての和
田さん(黄金バッテリー)という紹介をされてしまうが、もちろんそれだけの
選手ではない。これだけ多彩な記録を作っている選手は、案外いないのではな
いか。稲尾さんももちろん伝説の投手だが、中学以来の仲である和田さんとい
う相棒がいなければ、勝ち星や記録はもっと減っていたかもしれない。
捕手として完全試合2回、ノーヒットノーラン2回はもちろん他の追随を許
さない。しかも稲尾さんとは達成しておらず、西村さんや若生さんら、全て違
うピッチャーである。稲尾さんとは先頭打者にホームランを打たれて、あとの
27人を完全に抑えたことが悔いとして遺っていたようで、何度も話を聴いた。
ライオンズの投手陣がいかに強力だったかの証明でもあるし、逆に和田さんの
捕手としての強気のリードのなせる技だったとも思う。
打者としても多彩な記録保持者。日本シリーズ初のランニング・ホームラン
は昭和32年の第5戦。この日和田さんは、計2本塁打で巨人を4勝一分で撃破。
この年が西鉄ライオンズの全盛期だった。また、強肩俊足好打という捕手離れ
したイメージの最初の選手でもある。打率も3割を打ち、サイクルヒットも経
験、盗塁数も120を超える。捕手で100盗塁している選手は他にいるのだろう
か?
さらに指導者としても一流で、秋山や真弓などライオンズ出身の現役監督は
みな入団当初に和田さんの指導を受けている。アメリカに指導者として最初に
派遣されたのも和田さんであり、今の大リーグとの関係も先駆者としての和田
さんの努力があったからではないか。事実、闘病中の和田さんのもとには、国
内外からひっきりなしに見舞客が訪れ、野球界における人脈の広さを見せても
らった。
三原監督の本にある、和田さんの気の強さを示すエピソードを読んだ時、地
味なイメージの和田さんだが「ひょっとして猛者の多かったライオンズで一番
の気が強い野武士は、和田さん?」と思わされた。これは奥様や息子さんから
伺う幼少時代からの数々のエピソードでも証明されている。三原監督は、酒の
飲めない和田さんを稲尾さんのお目付役にした。稲尾さんの手綱をひいていた
のは常に冷静な和田さんだった。
写真集の監修者を誰にお願いすべきかを、久保田運動具店の江頭さんに相談
した際、和田さんが一番だろうと紹介してもらった。それは編纂を進める中で
原稿に目を通していただく中で「正解だった」と認識させられた。マイナーな
選手の名前まで正確なのである。また、記憶力の良さ、日付の正確さにも驚い
た。今泉京子さんにお会いできて新聞スクラップを参照させてもらうまで、ど
んなに助かったことか。
できれば和田さんの伝記を書きたいと思い、ここ数ヶ月も幾度となくご自宅
へ顔を出させてもらったが、私に対してはいつもニコニコと笑顔で接してくれ
た。容態の悪い状態が続く中、写真集に「いつでもいいので、サインをもらえ
ますか?」とお願いしていた処、「本当は筆で書きたいんだけど、筆が持てな
いからごめんね」と言って、次に伺った時には律儀にサインペンでのサインを
用意していてくれた。実際には相当キツかったはずで、サインどころではなか
ったろう。
和田さんの晩年のかなりの時間を共有させていただき、思い出は尽きない。
和田さんは助からないという膵臓ガンと闘いながら、最後まで諦めていなかっ
たように思う。「元気になって好物の吉塚うなぎを食べに行きましょう!」と
言うと、ニコっと最高の笑顔を見せてくれた。貴重な時間をいただき感謝しか
思い浮かばない。ありがとうございます和田さん。
今日は、一緒に映った最高の笑顔の写真。取材してくれた朴さんから送付いた
だき、和田さんもお気に入りだったもの。背後は西鉄ライオンズ3連覇記念の
複製ペナント。(2009年5月3日、毎日新聞@朴鐘珠撮影)
写真集「西鉄ライオンズとその時代」
美しき九州「大正広重」吉田初三郎の世界 九州・初三郎研究会
ポストカードブックシリーズ解説・通販
アンティーク絵葉書に観る懐かしの風景・町並み
ギンギラ太陽's
冷泉のあゆみ1945~2007まちづくり戦後史
鳥瞰図絵師・前田虹映
オールド地図鳥瞰図コレクション・吉田初三郎ほか
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亡くなられた。朝、奥様より連絡をいただき、放心状態で今日は過ごしている。
すでに先週から容態が悪いことは伺っていたし、19日・20日と見舞いに伺い、
最後まで必死に病と闘うお姿を目のあたりにしていたので、自分なりに覚悟は
していたが、いざとなるとショックが大きい。
訃報 和田博実さん72歳=稲尾氏と「黄金バッテリー」毎日新聞
他の執筆・編纂仕事が進みそうになく、悩んだ末に今の和田さんへの思いを
書いておこうと思う。お付き合いさせていただいた時間はたったの一年だった
が、和田さんの名を冠した唯一の本に携われたことは、私にとって何物にも変
えがたい貴重な財産である。「捕手は目立つべきではない」という考えからか、
執筆などの話は一切断り続けた方である。もっと色々な話をお聴きしたかった。
一報はライオンズOB会の坂上氏から共同通信経由で各社へ配信され、各紙の
夕刊に訃報記事も掲載された。ネット上の記事でひとつ訂正がある。いずれも
大分県臼杵市出身となっているが、正確には鹿児島県出身。臼杵はお父様の転
勤により高校までを過ごしておられる。ご本人に監修いただいた遺作となった
写真集「西鉄ライオンズとその時代」の和田さんのプロフィールが正しい。
新聞各社とも写真がそれぞれ違うが、毎日新聞は和田さん最後の取材受けと
なったカラー写真(西部版5月19日夕刊掲載写真=掲載時は白黒)を掲載。晩
年の写真の中では最も柔らかい、安らかな表情の写真だと思う。この日は体調
もよく、色々な話も聴かせていただいたことを思い出す。「益田さんのお願い
でなかったら、この取材は断ってるよ」と笑いながら記者の前で話されたが、
その写真が遺影となってしまった。
和田さんは、どうしても稲尾さんとセットで、というか稲尾さんあっての和
田さん(黄金バッテリー)という紹介をされてしまうが、もちろんそれだけの
選手ではない。これだけ多彩な記録を作っている選手は、案外いないのではな
いか。稲尾さんももちろん伝説の投手だが、中学以来の仲である和田さんとい
う相棒がいなければ、勝ち星や記録はもっと減っていたかもしれない。
捕手として完全試合2回、ノーヒットノーラン2回はもちろん他の追随を許
さない。しかも稲尾さんとは達成しておらず、西村さんや若生さんら、全て違
うピッチャーである。稲尾さんとは先頭打者にホームランを打たれて、あとの
27人を完全に抑えたことが悔いとして遺っていたようで、何度も話を聴いた。
ライオンズの投手陣がいかに強力だったかの証明でもあるし、逆に和田さんの
捕手としての強気のリードのなせる技だったとも思う。
打者としても多彩な記録保持者。日本シリーズ初のランニング・ホームラン
は昭和32年の第5戦。この日和田さんは、計2本塁打で巨人を4勝一分で撃破。
この年が西鉄ライオンズの全盛期だった。また、強肩俊足好打という捕手離れ
したイメージの最初の選手でもある。打率も3割を打ち、サイクルヒットも経
験、盗塁数も120を超える。捕手で100盗塁している選手は他にいるのだろう
か?
さらに指導者としても一流で、秋山や真弓などライオンズ出身の現役監督は
みな入団当初に和田さんの指導を受けている。アメリカに指導者として最初に
派遣されたのも和田さんであり、今の大リーグとの関係も先駆者としての和田
さんの努力があったからではないか。事実、闘病中の和田さんのもとには、国
内外からひっきりなしに見舞客が訪れ、野球界における人脈の広さを見せても
らった。
三原監督の本にある、和田さんの気の強さを示すエピソードを読んだ時、地
味なイメージの和田さんだが「ひょっとして猛者の多かったライオンズで一番
の気が強い野武士は、和田さん?」と思わされた。これは奥様や息子さんから
伺う幼少時代からの数々のエピソードでも証明されている。三原監督は、酒の
飲めない和田さんを稲尾さんのお目付役にした。稲尾さんの手綱をひいていた
のは常に冷静な和田さんだった。
写真集の監修者を誰にお願いすべきかを、久保田運動具店の江頭さんに相談
した際、和田さんが一番だろうと紹介してもらった。それは編纂を進める中で
原稿に目を通していただく中で「正解だった」と認識させられた。マイナーな
選手の名前まで正確なのである。また、記憶力の良さ、日付の正確さにも驚い
た。今泉京子さんにお会いできて新聞スクラップを参照させてもらうまで、ど
んなに助かったことか。
できれば和田さんの伝記を書きたいと思い、ここ数ヶ月も幾度となくご自宅
へ顔を出させてもらったが、私に対してはいつもニコニコと笑顔で接してくれ
た。容態の悪い状態が続く中、写真集に「いつでもいいので、サインをもらえ
ますか?」とお願いしていた処、「本当は筆で書きたいんだけど、筆が持てな
いからごめんね」と言って、次に伺った時には律儀にサインペンでのサインを
用意していてくれた。実際には相当キツかったはずで、サインどころではなか
ったろう。
和田さんの晩年のかなりの時間を共有させていただき、思い出は尽きない。
和田さんは助からないという膵臓ガンと闘いながら、最後まで諦めていなかっ
たように思う。「元気になって好物の吉塚うなぎを食べに行きましょう!」と
言うと、ニコっと最高の笑顔を見せてくれた。貴重な時間をいただき感謝しか
思い浮かばない。ありがとうございます和田さん。
今日は、一緒に映った最高の笑顔の写真。取材してくれた朴さんから送付いた
だき、和田さんもお気に入りだったもの。背後は西鉄ライオンズ3連覇記念の
複製ペナント。(2009年5月3日、毎日新聞@朴鐘珠撮影)
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また改めて、ご挨拶させていただきます。
どうぞお力落としの無いようにしてください。