ねぇ! そんなに力まなくても子ども向けの聖書の本もありましょう。自分の言葉で読むのであればそれでも充分なんではありません? リビング・バイブルなどありましょうに。それで、いのちのことば社からの広告にはこうあります。「もともと子どもでもわかるようにとという目的でつくられたもので・・・」
◆確かに、しかし、成長期においてよほどしっかり、親御さんが読み方、生活の仕方、自分の見本など提示できないと幼少の頃の話で長続きはしないのではないでしょうか。それでもしっかり、内容についてこれたとすれば、それこそ選ばれし者という気がしますね。成長期にあって一度は離れるでしょう、しかし、世の中や自分に疑問を持ち始めたときに又、再び今度は本当に自主的にイエスの声に耳を傾けるようになるでしょう。兎に角、広い視野に導かれます。子供たちから、そして若者から、ビジネスマンから、高齢者まで多くの永遠の命であるという、イエスの言(ことば)の解明の為に、我々の人間の言葉への格闘の歴史に、僕らは多くその基の深い根が彼のその十字架にあったのではないかということを感じない訳にはいかなくなる(これは他人から言われるのではなく)。いま動きつつある世の中、特に世界の動きが分かるように思われます。生き、働き、動いている神の働きが、(無論この光の影にうごめくものも)見えてくるかも知れません。いずれにしても、彼(イエス)に結びつくことは「死も恐れない」ということになるようです。M.Luther作った讃美歌「神はわがやぐら」1529年につくられたようですが、当時の彼の意気込みというか、聴く我々も勇気が湧いてくるように思われます。
◆そろそろヨハネ伝第10章、長い脱線から抜け出そうと思う。口語訳から
◇ヨハネ伝(第11章27節~30節)
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは、彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪いとることはできない。わたしと父は一つである。」
◇ヨハネ伝 (第11章36~38節)
「父が聖別して、世に使わされた者が『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』というのか。もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくても良い。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを悟るであろう」。・・・次章11章、ラザロの死からの甦りの奇跡のわざをイエスがなされたことに続く。ここには、イエスがいま表明した証明事実の記事が書かれているのである・・・Ω