marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(91回目)

2016-08-11 18:49:38 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ さて、今回でヨハネ伝第12章を終わりたい。
(12:20)過ぎ越しの祭に来たギリシャ人がイエスを尋ねてきたことに、イエスは「時が来た」(その時とは十字架に掛かられる時が来たと推察される)の言葉を語られた。当時は、旧約の歴史からも、また、時間錯誤するが現実に離散したユダヤ人が遠く今のトルコやギリシャ地方にもいたので、イエスのことは知られていたのだと思うが過ぎ越の祭りに異邦人(ユダヤの聖書の神の伝統を持たない、むしろギリシャの神々を信奉するところから来た)ギリシャ人がイエスのことを尋ねてきたのだから、いよいよ、ユダヤ人ばかりでなく他の国の人々、信じる人すべての人の為にイエスの父からの使命を行うこと(十字架に掛かること)の時が来たのを察して宣言されたのだった。(12:27)「今、わたしは心が騒いでいる。・・・しかし、わたしはこの為に、この時に至ったのだ」と。
◆僕はその途中にある(12:25)の不思議な言葉が気になってしかたがなかった。前の24節の「一粒の麦」についてはイエスの事と推察が付く、また、弟子としての生き方もそのようなものだと教えられたようにも思う。しかし、25節「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至であろう」は淡々と読めないのだ。これはイエス御自身のことを言っているのか、弟子達への奨励のようにもむしろ読めてしまう言葉であるし、さらに今、読んでいる我々にはそのまま読めば大変な挑戦と取られる言葉のようにも思う訳だ。
◆そもそも自分の命とは何だ? それを愛するとはどうする事なんだ? 日本では「ご自愛ください」という言葉もある位なのにね。これは健康に留意されてくださいという気遣いの言葉でもあろうに、自分の命を憎むとは何だ? ここでイエスが言われている自分の命とは何なのだろうかと、僕はずっと考えていた。
◆僕が思ったこの言葉の今ふうの解釈とは次のようなものだった。例えば生まれつき盲目の青年。自分の生まれ、血と肉を選択出来ないで(極論を言えば親を選べないで)生まれて来ざるを得なかった人間(神の創造の最高傑作であるが完全ではない人間)、イエスは病人を救いに来たと言われ、自分は少なくとも外観的にはまともでも何らかの欠陥を持っていると気づいた人間、それらは、遺伝的にも何らかの欠点を持つと気づかないまでもイエスが与える霊に満たされるには不十分と気づかされた人間は、それにふさわしく内なる戦いを自らに課して、残りの人生の陶冶に努めるのではないだろうか。無論、自助努力では不可なのでイエスからの助け主を要す。その気づきをした者は「新たに生まれる者は神の国を見ることができる」と解釈できるのではないだろうか。それが、自分の命を憎むであり、永遠の命に至ることになるのではないだろうか と。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(90回目)

2016-08-11 15:18:16 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 88回目から(・・・まだ、13章に入らずうろうろしている)。
ヨハネ伝は福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中では最も遅く書かれたことを書いてきた。そして、前の三つはあらましがほぼ同じようなのに対して(三つは共観福音書とよばれる)、ヨハネ伝はイエスが復活し天に帰られて以降時間的な経過もあり、生前のイエスの奇跡のわざの証人も沢山いるし、また、昔から聖書が語ってきた救い主の記載事項の検証も出来たということもあってヨハネさん自身(あるいはヨハネ共同体といっていいか)の編集も加味されてまとめられていったようなことを書いてきました。
◆それは、本来、イエとの対話が個人の「わたし」と書かねばならないところであるにもかかわらず、「わたしたち・・・」と書かれているようなところは、ヨハネさんの共同体ができ上がっている現在での視点を昔の会話に入れてしまっていると考えられる訳です。それに、さらりと書いてもいいのではと僕が思ってしまうような箇所は実は、当時の共同体としては、詳しく書くことは大切なことだったのだろうなと思わされる訳です。あるいはヨハネさん(共同体の)思い入れがあったとも推察されるのですね。例えば、
◆ヨハネ伝第12章22節「ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた」、これと似たような箇所、言い伝えによってイエスのもとにつれてくる詳しさは、イエスに出会う第1章からすでに出てきてます。(1:40~42a、1:45)また(サマリアの女の4:28-29、39-40)など。ヨハネ伝を冒頭から読んで、ストレートに福音の話を進めずどうしてこのような箇所が具体的に書かれているのだろうと少し疑問に思っていた理由とその答えは、上のようなヨハネ共同体の具体的な検証がされてきたからと言えるし、共同体の一人ひとりがイエスのことを伝え行くに、いわゆる伝道とはそういうことがなされて来た(今で言えば、そうして伝道とはされて行かねばなりませんよ)という教えになっていると読み取れる訳です。ここから、第4章に遡るがイエスが語られたこと、そしてその結果が書かれている(4:37~39、41~42)内容がより理解されてくるのではないかと思ってしまう訳です。
◆似たように、イエスに対してきちんと「あなたは神のみこ、キリスト(救い主)です。」と表明して書かれてある箇所は、とても大切な言葉となっている訳です。(なぜなら、まさにイエスはそのことの為に父なる神から地上に使わされ人々が口で表し、信じることの目的が果たさた言葉となっているから)(洗礼者ヨハネ以外で2:49、9:38、11:27 など)です。今回は少し説教じみてますな・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(89回目)

2016-08-11 13:35:19 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 少し、脱線。
僕は、リオ・オリンピック男子体操団体・個人で内村航平さんが金メダルをとれたことがとても嬉しかったですね。ブログの書く場所を間違えたのではなく、ちょっと飛躍的に言わせてもらえば、キリスト教をヨーロッパに伝えたパウロさんは、イエスを信ずる生き方についてオリンピックに例えて、「わたしは空を打つようなボクシングはしない、目標を目指して走るのだ」とか書いている手紙の箇所があるのですね。ちょうどオリンピックの発祥の地ギリシャ(当時マケドニア)に行ったから、そのことが念頭にあったのだろうと思います。ところで、「オリンピック憲章」は、第6条でスポーツとしてのオリンピック運動の目指すところとして、「より速く、より高く、より強く」を上げています。どこかで聞いたことあるでしょ。この言葉は1926年以来採用されているモットーなのだそうだが、これはカトリックの司祭ディドンがル・アーブルの高等学校(リセ)のラグビー部のための説教の中で述べたものだそうな。
◆生きている人間の業(わざ)として、優位性を持とうという意識は動物的な本能として、身体に結びつく精神の活性化としてとても大切なものだと思います。この人間本性について、最終はその精神の抑揚が人間の創造者(神)への讃歌として人々が持ち、向上心を失わないようにとのことだと思います。結局、これは、国は異なれど、地球上のすべての人間は神の創造のもとにあり、ひとりひとりが再び神のもとへ帰るようにとのメッセージに繋がる訳です。
◆各国のメディアではどの国のメダルの色は何個とったと報じていますが、オリンピックの創立者クーベルタンさんは言いました。「勝った負けたではなくオリンピックは参加することに意義があるのだ」と。この言葉も聞いたことがあるかもです。で、オリンピック組織委員会では、結果としてのどの色メダルの「どれ、いくつ」は全く価値ある事項の範疇に入れていないのだそうな。それでは、何で国旗を揚げるだということになるだろうが、それは人間という生き物として属している国家をもっと良くそれぞれが精神的英雄意識で立ち上げていこうという精神のあり方にお互いが認め合い共に向上して行こうという意味あいを持たせるためだろう(・・・と僕は考える)。
◆哲学者(神学)深井智明さんが「文化は宗教を必要とするか(教文館:2002年3月13日初版)」でこう述べています。
スポーツの祭典としてのオリンピックは(もしひとがこのスポーツそれ自体が人間の本性に属することを確認するなら)この人間の「世界開放性」(人間が神的ばものへと向かう本性)という人間理解の上に基礎付けられ得るのではないだろうか。しかしこの人間の「世界解放性」は、実際には世界内的な人間の自己実現や自己完成を考えていないのだから、超越の次元を必要としているのである。その点でなおオリンピックは神学的な課題でもあり続けているのである。・・・今回は少し難しかしくなりました。・・・ Ω