◆世界のベストセラー聖書を読む◆ さて、今回でヨハネ伝第12章を終わりたい。
(12:20)過ぎ越しの祭に来たギリシャ人がイエスを尋ねてきたことに、イエスは「時が来た」(その時とは十字架に掛かられる時が来たと推察される)の言葉を語られた。当時は、旧約の歴史からも、また、時間錯誤するが現実に離散したユダヤ人が遠く今のトルコやギリシャ地方にもいたので、イエスのことは知られていたのだと思うが過ぎ越の祭りに異邦人(ユダヤの聖書の神の伝統を持たない、むしろギリシャの神々を信奉するところから来た)ギリシャ人がイエスのことを尋ねてきたのだから、いよいよ、ユダヤ人ばかりでなく他の国の人々、信じる人すべての人の為にイエスの父からの使命を行うこと(十字架に掛かること)の時が来たのを察して宣言されたのだった。(12:27)「今、わたしは心が騒いでいる。・・・しかし、わたしはこの為に、この時に至ったのだ」と。
◆僕はその途中にある(12:25)の不思議な言葉が気になってしかたがなかった。前の24節の「一粒の麦」についてはイエスの事と推察が付く、また、弟子としての生き方もそのようなものだと教えられたようにも思う。しかし、25節「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至であろう」は淡々と読めないのだ。これはイエス御自身のことを言っているのか、弟子達への奨励のようにもむしろ読めてしまう言葉であるし、さらに今、読んでいる我々にはそのまま読めば大変な挑戦と取られる言葉のようにも思う訳だ。
◆そもそも自分の命とは何だ? それを愛するとはどうする事なんだ? 日本では「ご自愛ください」という言葉もある位なのにね。これは健康に留意されてくださいという気遣いの言葉でもあろうに、自分の命を憎むとは何だ? ここでイエスが言われている自分の命とは何なのだろうかと、僕はずっと考えていた。
◆僕が思ったこの言葉の今ふうの解釈とは次のようなものだった。例えば生まれつき盲目の青年。自分の生まれ、血と肉を選択出来ないで(極論を言えば親を選べないで)生まれて来ざるを得なかった人間(神の創造の最高傑作であるが完全ではない人間)、イエスは病人を救いに来たと言われ、自分は少なくとも外観的にはまともでも何らかの欠陥を持っていると気づいた人間、それらは、遺伝的にも何らかの欠点を持つと気づかないまでもイエスが与える霊に満たされるには不十分と気づかされた人間は、それにふさわしく内なる戦いを自らに課して、残りの人生の陶冶に努めるのではないだろうか。無論、自助努力では不可なのでイエスからの助け主を要す。その気づきをした者は「新たに生まれる者は神の国を見ることができる」と解釈できるのではないだろうか。それが、自分の命を憎むであり、永遠の命に至ることになるのではないだろうか と。・・・Ω
(12:20)過ぎ越しの祭に来たギリシャ人がイエスを尋ねてきたことに、イエスは「時が来た」(その時とは十字架に掛かられる時が来たと推察される)の言葉を語られた。当時は、旧約の歴史からも、また、時間錯誤するが現実に離散したユダヤ人が遠く今のトルコやギリシャ地方にもいたので、イエスのことは知られていたのだと思うが過ぎ越の祭りに異邦人(ユダヤの聖書の神の伝統を持たない、むしろギリシャの神々を信奉するところから来た)ギリシャ人がイエスのことを尋ねてきたのだから、いよいよ、ユダヤ人ばかりでなく他の国の人々、信じる人すべての人の為にイエスの父からの使命を行うこと(十字架に掛かること)の時が来たのを察して宣言されたのだった。(12:27)「今、わたしは心が騒いでいる。・・・しかし、わたしはこの為に、この時に至ったのだ」と。
◆僕はその途中にある(12:25)の不思議な言葉が気になってしかたがなかった。前の24節の「一粒の麦」についてはイエスの事と推察が付く、また、弟子としての生き方もそのようなものだと教えられたようにも思う。しかし、25節「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至であろう」は淡々と読めないのだ。これはイエス御自身のことを言っているのか、弟子達への奨励のようにもむしろ読めてしまう言葉であるし、さらに今、読んでいる我々にはそのまま読めば大変な挑戦と取られる言葉のようにも思う訳だ。
◆そもそも自分の命とは何だ? それを愛するとはどうする事なんだ? 日本では「ご自愛ください」という言葉もある位なのにね。これは健康に留意されてくださいという気遣いの言葉でもあろうに、自分の命を憎むとは何だ? ここでイエスが言われている自分の命とは何なのだろうかと、僕はずっと考えていた。
◆僕が思ったこの言葉の今ふうの解釈とは次のようなものだった。例えば生まれつき盲目の青年。自分の生まれ、血と肉を選択出来ないで(極論を言えば親を選べないで)生まれて来ざるを得なかった人間(神の創造の最高傑作であるが完全ではない人間)、イエスは病人を救いに来たと言われ、自分は少なくとも外観的にはまともでも何らかの欠陥を持っていると気づいた人間、それらは、遺伝的にも何らかの欠点を持つと気づかないまでもイエスが与える霊に満たされるには不十分と気づかされた人間は、それにふさわしく内なる戦いを自らに課して、残りの人生の陶冶に努めるのではないだろうか。無論、自助努力では不可なのでイエスからの助け主を要す。その気づきをした者は「新たに生まれる者は神の国を見ることができる」と解釈できるのではないだろうか。それが、自分の命を憎むであり、永遠の命に至ることになるのではないだろうか と。・・・Ω