◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ”その時”が近づいてきたぞ・・・ちょと偉そうに書いてみた。
既に、何度か話してきて、そろそろ弟子達も理解し、先回のペテロにも回答していたのだからイエスは「わたしがどこへ行くか、その道はあなた方には分かっている」(14:4) と言ったにもかかわらず、例のトマスさんが「わかりません」(14:5)と答えたのは、先に書いてきた通りだ。(後で、復活したイエスにも会えず、イエスが十字架の傷跡にこの指をつっこまなと信じられんといって、八日目にイエスが再び現れ、トマスに傷口に指を入れて見よと言われ「わが主よ、わが神よ」と真から告白し、その事実を体験しインドまで伝道しその地でトマスは殉教したと言われる・・・ことは先の回に書いた。今の中国まで伝道したという話もある。)
◆その後のピリポもイエスを見て共に活動したにもかかわらず満足しないでイエスに「父を示して下さい」(14:8)と願う。ヨハネさんの書き方の苦労は、ここにもあるな。曰く、イエスが十字架に掛かられる前は理解できないの。天に帰られて「助け主、すなわち、父なる神がイエスの名によって使わされる聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。(15:26)とあるからね。書いているヨハネさん自身は時間経過の後の事であるから聖霊に満たされ福音書を書けていることになるのだな。多少、理解したような言動もあるけど(16:30)、結局は、十字架の時は蜘蛛の子散らすようになったからな・・・。
◆さて、僕が前にも書いたことを繰り返しているようなのは、結局、言わんとするところイエスの生存中は弟子の殆どがイエスと活動を共にしたにもかかわらず理解できなかったことなのだ。弟子達にとってみては、それはそうだろうなと思う。旧約聖書(当時の聖書)の長さを考えて見ればね。天地創造来のことから、延々と長い時間が経っている訳だがその聖書が、わたしの事が書かれているのだとイエスが言われても、おおよそ33年間、しかも実働3年ほどのイエスの言動を、しかもわたしを見たのは天の父を見たのだと言われてもな、理解できると言う方がおかしいよな。だからこそイエスは”わざ(神で無ければできない)”で信じなさいと繰り返したのだ。
◇”この時”に至ってイエスが少し落胆の言葉 「あなた方は今信じているのか」(17:31)との言葉もあるが、今の僕に取ってみては、だからこそなのだ! このイエスの”わざ”が作り話などで信じられないものであるならば、とうの昔に胡散霧散になっていただろうと。常識では信じられない(今でも)ことに弟子達は当たり前のように反応したのだ・・・だからこそなのだ!これは、一宗教のことではないということが・・・。
◆イエスが我々と同じ人の形をとられた。そして彼を信ずる者は、共に彼(イエス)が永遠の父の家の住まいに入ることが出来ると言われ、その場所を用意しに天に帰ると言われた。だれでも地上の生涯を終える。イエスはわたしの言葉は、霊であり命であると言われた。”さばき”とは道徳的な事では無くして、このイエスを信ずるか、そうでないかに掛かっているのであると。・・・Ω
既に、何度か話してきて、そろそろ弟子達も理解し、先回のペテロにも回答していたのだからイエスは「わたしがどこへ行くか、その道はあなた方には分かっている」(14:4) と言ったにもかかわらず、例のトマスさんが「わかりません」(14:5)と答えたのは、先に書いてきた通りだ。(後で、復活したイエスにも会えず、イエスが十字架の傷跡にこの指をつっこまなと信じられんといって、八日目にイエスが再び現れ、トマスに傷口に指を入れて見よと言われ「わが主よ、わが神よ」と真から告白し、その事実を体験しインドまで伝道しその地でトマスは殉教したと言われる・・・ことは先の回に書いた。今の中国まで伝道したという話もある。)
◆その後のピリポもイエスを見て共に活動したにもかかわらず満足しないでイエスに「父を示して下さい」(14:8)と願う。ヨハネさんの書き方の苦労は、ここにもあるな。曰く、イエスが十字架に掛かられる前は理解できないの。天に帰られて「助け主、すなわち、父なる神がイエスの名によって使わされる聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。(15:26)とあるからね。書いているヨハネさん自身は時間経過の後の事であるから聖霊に満たされ福音書を書けていることになるのだな。多少、理解したような言動もあるけど(16:30)、結局は、十字架の時は蜘蛛の子散らすようになったからな・・・。
◆さて、僕が前にも書いたことを繰り返しているようなのは、結局、言わんとするところイエスの生存中は弟子の殆どがイエスと活動を共にしたにもかかわらず理解できなかったことなのだ。弟子達にとってみては、それはそうだろうなと思う。旧約聖書(当時の聖書)の長さを考えて見ればね。天地創造来のことから、延々と長い時間が経っている訳だがその聖書が、わたしの事が書かれているのだとイエスが言われても、おおよそ33年間、しかも実働3年ほどのイエスの言動を、しかもわたしを見たのは天の父を見たのだと言われてもな、理解できると言う方がおかしいよな。だからこそイエスは”わざ(神で無ければできない)”で信じなさいと繰り返したのだ。
◇”この時”に至ってイエスが少し落胆の言葉 「あなた方は今信じているのか」(17:31)との言葉もあるが、今の僕に取ってみては、だからこそなのだ! このイエスの”わざ”が作り話などで信じられないものであるならば、とうの昔に胡散霧散になっていただろうと。常識では信じられない(今でも)ことに弟子達は当たり前のように反応したのだ・・・だからこそなのだ!これは、一宗教のことではないということが・・・。
◆イエスが我々と同じ人の形をとられた。そして彼を信ずる者は、共に彼(イエス)が永遠の父の家の住まいに入ることが出来ると言われ、その場所を用意しに天に帰ると言われた。だれでも地上の生涯を終える。イエスはわたしの言葉は、霊であり命であると言われた。”さばき”とは道徳的な事では無くして、このイエスを信ずるか、そうでないかに掛かっているのであると。・・・Ω