marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(114回目)

2016-08-28 20:29:57 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ”その時”が近づいてきたぞ・・・ちょと偉そうに書いてみた。
既に、何度か話してきて、そろそろ弟子達も理解し、先回のペテロにも回答していたのだからイエスは「わたしがどこへ行くか、その道はあなた方には分かっている」(14:4) と言ったにもかかわらず、例のトマスさんが「わかりません」(14:5)と答えたのは、先に書いてきた通りだ。(後で、復活したイエスにも会えず、イエスが十字架の傷跡にこの指をつっこまなと信じられんといって、八日目にイエスが再び現れ、トマスに傷口に指を入れて見よと言われ「わが主よ、わが神よ」と真から告白し、その事実を体験しインドまで伝道しその地でトマスは殉教したと言われる・・・ことは先の回に書いた。今の中国まで伝道したという話もある。)
◆その後のピリポもイエスを見て共に活動したにもかかわらず満足しないでイエスに「父を示して下さい」(14:8)と願う。ヨハネさんの書き方の苦労は、ここにもあるな。曰く、イエスが十字架に掛かられる前は理解できないの。天に帰られて「助け主、すなわち、父なる神がイエスの名によって使わされる聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。(15:26)とあるからね。書いているヨハネさん自身は時間経過の後の事であるから聖霊に満たされ福音書を書けていることになるのだな。多少、理解したような言動もあるけど(16:30)、結局は、十字架の時は蜘蛛の子散らすようになったからな・・・。
◆さて、僕が前にも書いたことを繰り返しているようなのは、結局、言わんとするところイエスの生存中は弟子の殆どがイエスと活動を共にしたにもかかわらず理解できなかったことなのだ。弟子達にとってみては、それはそうだろうなと思う。旧約聖書(当時の聖書)の長さを考えて見ればね。天地創造来のことから、延々と長い時間が経っている訳だがその聖書が、わたしの事が書かれているのだとイエスが言われても、おおよそ33年間、しかも実働3年ほどのイエスの言動を、しかもわたしを見たのは天の父を見たのだと言われてもな、理解できると言う方がおかしいよな。だからこそイエスは”わざ(神で無ければできない)”で信じなさいと繰り返したのだ。
◇”この時”に至ってイエスが少し落胆の言葉 「あなた方は今信じているのか」(17:31)との言葉もあるが、今の僕に取ってみては、だからこそなのだ! このイエスの”わざ”が作り話などで信じられないものであるならば、とうの昔に胡散霧散になっていただろうと。常識では信じられない(今でも)ことに弟子達は当たり前のように反応したのだ・・・だからこそなのだ!これは、一宗教のことではないということが・・・。
◆イエスが我々と同じ人の形をとられた。そして彼を信ずる者は、共に彼(イエス)が永遠の父の家の住まいに入ることが出来ると言われ、その場所を用意しに天に帰ると言われた。だれでも地上の生涯を終える。イエスはわたしの言葉は、霊であり命であると言われた。”さばき”とは道徳的な事では無くして、このイエスを信ずるか、そうでないかに掛かっているのであると。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(113回目)

2016-08-28 19:12:04 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
今回は少し難しく。”その時”になったので前後行き来します。口語訳。
◆イエスが天に帰る(”天”とはイエスの父なる神が居られるところ、パラダイス。そこではイエスは最高の栄光の座についていた。全知全能の神、天地創造の神が居られる処)ということは、2016年の今だから、そのようの想像できるだろうけれど当時の人々は先祖伝来の天地創造の神、イスラエル民族を選ばれて神の存在をその歴史の中に表して来られ、その頑なさを又、試練の中で示しそのすべてを他の民族、全世界の民族の他山の石とすべく導いて来られたこちら側(三次元の人間の劇場)に実際的な結果をもたらしてきた肉体で体感できる現実的な方であった訳だ。
◆しかし、その神そのものをイエスは、この三次元世界(人間界)に表された(誕生された)方となる。さて、イエスはこれから天に帰るところにあなた方は来ることは出来ないと弟子達に言う。この肉体から、死とう肉体を離れることを通さなければ天の国には帰れないと暗示的にいう(弟子達は分からない)。ここでイエスは、十字架にかかるとははっきり言わない。この見えている触れることができる三次元にある肉体が移動するということは、足で歩くとかの移動手段で動くということは理解されてもイエスが天に帰ることは栄光を更に表すことであって、あなた達には益になることであり、喜びともなろうという、そのわたし(イエス)が行くところがどこか分からない。そのことを少し分かり始めた弟子達がイエスに問う会話が出てくる。
◆(13:36)シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでなるのですか」。(脱線:有名なシェンキビッチという人だったかが書いた「クオヴァデス」(クオヴァデス、ドミネ「主よいずこへ行かれるか」はきっとこの聖句からとられたのだと思われるな。ペテロがローマに到達した時はクリスチャンらが大変な迫害に会うことのまただ中。弟子のすすめもありペテロは逃げ出すのだ。ひたすら夜のアッピア街道を南に走っているとイエスがこちら(ローマの方)にあるいて来るではないか。ここでペテロはイエスに問うのがこの言葉。「主よ、いずこへ行かれるか」。イエスは答える。「わたしはもう一度、ローマで十字架に掛かろう」と。ペテロは恥じ入り、踵を返してローマに戻り殉教の死を遂げる。イエスと同じ十字架刑ではもったいないと、逆さ十字架にかけられてその栄光を表したと言われる。・・・というお話) レスピーギという作曲家でしたかな、「ローマの松」という曲はそれ以降、忘れられなくなった曲だ。皆さんも一度、聴かれて見てくださいな。・・・次回、”その時”は続きます。

世界のベストセラーを読む(112回目)

2016-08-28 00:04:45 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 口語訳。前回からの続き少し・・・。
先回はとても大切なことを偉そうに書いた気がするな。このブログの目的は、いのちのことばであるイエスの言葉を本当に多くの人に自分の言葉で読んで欲しいと願っているのだ。でも、たいていのノウ・ハウ本は、何故かひっかかるな。それをこと細かに書くと、その道の人から怒られそう・・・。でも、いつか書こうっと。
◆デリケートな問題でもあるが、でも良く考えて欲しいけど、来年は宗教改革から500年、万人祭司を言ったM.ルターさん(111回目R.ルターと書いてしまいましたので訂正ください。Martinus Luther です)は、聖書の言葉を万人のものにと言われて、母国語に翻訳したということは、みんなが自分の言葉で読んで自分のものにしてねということでした。しかし、聖書はいきなり読んでも、新約聖書を読むには、旧約聖書の内容のすごい先理解(前提として分かっていなければいけないこと)があまりにも多すぎるようで、そのことの解説は説教として教会に行かれてお話を聴いてくださいということになりますが、お話聴いてもどうもやはり上澄みだけのようでよう分からん、結局、直截、イエスの言葉を聴くことだとなるわけです。こういう訳で、もし、教会に行かれるとすれば、きちんと聖書研究なりを、日曜(あるいは土曜日礼拝厳守のところもありますが)礼拝以外に行っているところを選んでくださいと言えます。こういう話は本筋から離れますのでここで止めます。
◆さて、前回の宿題とうか、ヨハネさんのフライングというか、前回111回目の日記を読まれて、その当時のヨハネさんの心境を加味しながら、丁寧に読むと、そういえばこう書いてあるのは良い意味でヨハネさんの訴えたいことなのだなと理解できるのではないかと思います。その一例として、これは過去の回にも少し書きましたが、僕の一番好きな話の第9章の生まれつき盲人であった人が、いままで罪の中に生まれたと言われ続けひとりぼっちだったにもかかわらず、イエスが目を開けたという奇跡のわざにあずかった途端、ユダヤ人に逆に説教する場面(9:31)で、「わたしたちはこのことを知っています。~」と(ヨハネの)群れの一員か、少なくとも正統派のユダヤ人たちの伝統的な神との理解とは異なっているという集団の一員として語っている箇所などですね。当時の生まれつき盲人が奇跡を起こされた時点では、まずこのように自分の立場がその一員となるユダヤ人達に対立する集団という形はできあがってはいませんでしたから。このへんにもヨハネさんが現在の”わざ”の目の前の証人(その目の開いた人=若者)を前にして、過去の物語(説教する時点)において、さらに自分たちの神の証しをなす者(神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは聞き入れてくださいます)という先理解も話させていることになっている訳です。時間経過の中で群れが出来た今の時点から過去を書いたというふうに読めますね。次回からどんどん先へ進みます。・・・Ω