◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 口語訳、新改訳と新共同訳
(口語訳)素直に(13:31)を読むと文としてはおかしい。それはこうあるから。「さて、彼(イエスを裏切ったユダ)が出て行くとイエスは言われた『今や人の子(④)は栄光を受けた。神もまた彼(①)によって栄光をお受けになった。(13:32)彼(②)によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼(③)に栄光をお授けになるだろう。~」淡々と読むと①~③もユダと読めてしまう。ユダの裏切りの行為によって栄光を受けたと読めてしまうな、口語訳このままだと。けれども①から③は、その前の④の人の子(つまりイエスのこと)なのだな。今は口語訳使われているところは少なくなり、一番流布してるだろう新共同訳では、①~③の「彼」のところをきちんと「人の子」と書いている。いのちのことば社でもそうなっている。ただ、いのちのことば社には32節を欠く写本があると正直に引照欄に書いてましたから、僕は原典読んでないのでなんとも言えないですが、先のように「彼によって」が「ユダの行為によって」と読めちゃうことがあったかもですね。まあ、とりあえず真相はどうでも一件落着。
◆それから、ついで、口語訳(13:19)「わたしがそれであることをあなた方が信じる為である」、この”それ”という指示語はどこを指すんだ。”それ”は、その前の詩編の引用の『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』の、”わたし”であることが、苦しいけど理解される、口語訳では。いのちのことば社の新改訳では(13:19)「わたしがそのひとであることをあなたがたが信じるためです」と書かれていて、先の引用された詩編の”わたし”であることが先の口語訳よりは分かる。・・・ところが、一番現在流布されているであろう新共同訳では(13:19)「『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」とスゴイ飛躍というか、意訳になっているのね。んで、この『わたしはある』ということばは、旧約でモーセさんが出エジプト記で神の名を尋ねたときに答えたそのものなの。出エジプト記第3章14節「わたしは、『わたしはある』というものである。」つまり、「神であるわたしだ」といっている訳だ。新共同訳では、その前の18節の引用詩編の関連が吹っ飛んで訳されているのね。本来、あくまで18節に言われたることは”わたしのことなのだ”という解説が19節で言われていることが、いきなり、新共同訳では18節の説明でなくてイエスは、”神そのものだ”(とご自分で宣言されていること)ということを信じるようになるためだという訳になっています。
◇僕は、揚げ足をとる為にこのようなあら探しをしているのではなくて(なんと畏れ多い)多少なりとも訳者によって、また時代によって、更にいうなら長命だったヨハネさんがいた群れの時代状況や環境によってもニュアンスが変わるものだと言いたい訳。ですから、聖書にこう書いているからとかの規制が入って来て苦しくなったり、もしそれがあなたの心からの納得に不都合がある場合は、パウロの手紙にあるように”文字は人を殺し、霊は人を生かす”とあるようにまずは、普段の生活を送りイエスが送ると言われた真理の御霊(聖霊)に教えられる時があるからそれまでしっかり待ちなさいということになります。誰彼が言ったからではなく、主イエスはあなたに語っているのですよということを決して忘れてはいけません。説教じみた終わり方となってしまった。・・・Ω
(口語訳)素直に(13:31)を読むと文としてはおかしい。それはこうあるから。「さて、彼(イエスを裏切ったユダ)が出て行くとイエスは言われた『今や人の子(④)は栄光を受けた。神もまた彼(①)によって栄光をお受けになった。(13:32)彼(②)によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼(③)に栄光をお授けになるだろう。~」淡々と読むと①~③もユダと読めてしまう。ユダの裏切りの行為によって栄光を受けたと読めてしまうな、口語訳このままだと。けれども①から③は、その前の④の人の子(つまりイエスのこと)なのだな。今は口語訳使われているところは少なくなり、一番流布してるだろう新共同訳では、①~③の「彼」のところをきちんと「人の子」と書いている。いのちのことば社でもそうなっている。ただ、いのちのことば社には32節を欠く写本があると正直に引照欄に書いてましたから、僕は原典読んでないのでなんとも言えないですが、先のように「彼によって」が「ユダの行為によって」と読めちゃうことがあったかもですね。まあ、とりあえず真相はどうでも一件落着。
◆それから、ついで、口語訳(13:19)「わたしがそれであることをあなた方が信じる為である」、この”それ”という指示語はどこを指すんだ。”それ”は、その前の詩編の引用の『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』の、”わたし”であることが、苦しいけど理解される、口語訳では。いのちのことば社の新改訳では(13:19)「わたしがそのひとであることをあなたがたが信じるためです」と書かれていて、先の引用された詩編の”わたし”であることが先の口語訳よりは分かる。・・・ところが、一番現在流布されているであろう新共同訳では(13:19)「『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」とスゴイ飛躍というか、意訳になっているのね。んで、この『わたしはある』ということばは、旧約でモーセさんが出エジプト記で神の名を尋ねたときに答えたそのものなの。出エジプト記第3章14節「わたしは、『わたしはある』というものである。」つまり、「神であるわたしだ」といっている訳だ。新共同訳では、その前の18節の引用詩編の関連が吹っ飛んで訳されているのね。本来、あくまで18節に言われたることは”わたしのことなのだ”という解説が19節で言われていることが、いきなり、新共同訳では18節の説明でなくてイエスは、”神そのものだ”(とご自分で宣言されていること)ということを信じるようになるためだという訳になっています。
◇僕は、揚げ足をとる為にこのようなあら探しをしているのではなくて(なんと畏れ多い)多少なりとも訳者によって、また時代によって、更にいうなら長命だったヨハネさんがいた群れの時代状況や環境によってもニュアンスが変わるものだと言いたい訳。ですから、聖書にこう書いているからとかの規制が入って来て苦しくなったり、もしそれがあなたの心からの納得に不都合がある場合は、パウロの手紙にあるように”文字は人を殺し、霊は人を生かす”とあるようにまずは、普段の生活を送りイエスが送ると言われた真理の御霊(聖霊)に教えられる時があるからそれまでしっかり待ちなさいということになります。誰彼が言ったからではなく、主イエスはあなたに語っているのですよということを決して忘れてはいけません。説教じみた終わり方となってしまった。・・・Ω