marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(98回目)

2016-08-16 18:16:13 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 口語訳、新改訳と新共同訳
(口語訳)素直に(13:31)を読むと文としてはおかしい。それはこうあるから。「さて、彼(イエスを裏切ったユダ)が出て行くとイエスは言われた『今や人の子(④)は栄光を受けた。神もまた彼(①)によって栄光をお受けになった。(13:32)彼(②)によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼(③)に栄光をお授けになるだろう。~」淡々と読むと①~③もユダと読めてしまう。ユダの裏切りの行為によって栄光を受けたと読めてしまうな、口語訳このままだと。けれども①から③は、その前の④の人の子(つまりイエスのこと)なのだな。今は口語訳使われているところは少なくなり、一番流布してるだろう新共同訳では、①~③の「彼」のところをきちんと「人の子」と書いている。いのちのことば社でもそうなっている。ただ、いのちのことば社には32節を欠く写本があると正直に引照欄に書いてましたから、僕は原典読んでないのでなんとも言えないですが、先のように「彼によって」が「ユダの行為によって」と読めちゃうことがあったかもですね。まあ、とりあえず真相はどうでも一件落着。
◆それから、ついで、口語訳(13:19)「わたしがそれであることをあなた方が信じる為である」、この”それ”という指示語はどこを指すんだ。”それ”は、その前の詩編の引用の『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』の、”わたし”であることが、苦しいけど理解される、口語訳では。いのちのことば社の新改訳では(13:19)「わたしがそのひとであることをあなたがたが信じるためです」と書かれていて、先の引用された詩編の”わたし”であることが先の口語訳よりは分かる。・・・ところが、一番現在流布されているであろう新共同訳では(13:19)「『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」とスゴイ飛躍というか、意訳になっているのね。んで、この『わたしはある』ということばは、旧約でモーセさんが出エジプト記で神の名を尋ねたときに答えたそのものなの。出エジプト記第3章14節「わたしは、『わたしはある』というものである。」つまり、「神であるわたしだ」といっている訳だ。新共同訳では、その前の18節の引用詩編の関連が吹っ飛んで訳されているのね。本来、あくまで18節に言われたることは”わたしのことなのだ”という解説が19節で言われていることが、いきなり、新共同訳では18節の説明でなくてイエスは、”神そのものだ”(とご自分で宣言されていること)ということを信じるようになるためだという訳になっています。
◇僕は、揚げ足をとる為にこのようなあら探しをしているのではなくて(なんと畏れ多い)多少なりとも訳者によって、また時代によって、更にいうなら長命だったヨハネさんがいた群れの時代状況や環境によってもニュアンスが変わるものだと言いたい訳。ですから、聖書にこう書いているからとかの規制が入って来て苦しくなったり、もしそれがあなたの心からの納得に不都合がある場合は、パウロの手紙にあるように”文字は人を殺し、霊は人を生かす”とあるようにまずは、普段の生活を送りイエスが送ると言われた真理の御霊(聖霊)に教えられる時があるからそれまでしっかり待ちなさいということになります。誰彼が言ったからではなく、主イエスはあなたに語っているのですよということを決して忘れてはいけません。説教じみた終わり方となってしまった。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(97回目)

2016-08-16 15:12:38 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 口語訳です。
第13章 ヨハネさんは、光、そして夜、闇のコントラストをうまく書いている。イエスは「光ある内、光の中を歩め、闇に追いつかれないようにせよ」と言われる。(13:30)「ユダ一切れの食物を受けとると、すぐに出ていった。時は夜であった。」。明るい光と夜の闇。うまい。ユダは闇の中に消えていった・・・。僕が今見ている国際ギデオン協会より贈呈のものは口語訳だが、小さいので手ぜまの机上ではこれすぐ見てしまうが、その中で場面が変わるところの節の前に「¶」のマークが小さく記載され、次の場面変わる31節の前にも記載。
◆問題は次ぎ、(13:31)¶さて、が出て行くとイエスは言われた。「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(13:32)彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにでもお授けになるであろう。・・・というところ。
◇脱線:レオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐で、イエスの左のペテロに耳打ちされている女性のような人がヨハネさんですがこれは丁度(13:24)の場面、ペテロにイエスに誰が裏切るのか訊いてくれと耳打ちの場面。一時、ダビンチコードという映画で解説された、そのヨハネをイエスの右にずらしていくと丁度、(13:25)ヨハネがイエスに尋ねるポーズに重なるという訳だった。そこまで、ダ・ビンチはよんで構図を捕らえていたと・・・。イエスの愛しておられた弟子と出てくるのは、この福音記者ヨハネさんその人である。
◇脱線2:(13:18)の『わたしのパンを食べている者がわたしにむかってそのかかとをあげた』という箇所は旧約聖書(当時では聖書)詩編41編9節「わたしが信頼し、わたしのパンを食べた親しい友までが、わたしに背いて、かかとを上げた」。(いのちのことば社)がそのとおりになったということ。細かい聖書の所まで事の成就であると書くのは、やはりそれだけ旧約来の言い伝えの神の言葉のイエスのことがらについての成就がどこにあるかとの聖書の調査を十分にしたからなのだろうなと思わされる。
◆サタンが入ったユダについては、他の共観福音書に較べ、それほど悪く決定づけていないのはどうしてなのだろう。一番長生きのヨハネさんは検証しようと思えばユダの事も詳しく(悪く決定づけられるように)書けたのにと思う。そう思いません? それに、先の問題のイエスの言葉、良く読むとどういう意味なのだろうと思いませんか?”彼”と書いているいるのは、イエスを裏切った”ユダ”のことでしょう・・・さて? 

世界のベストセラーを読む(96回目)

2016-08-16 14:04:04 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 脱線つづき。
終戦記念日の季節になると、頭に描く日本国憲法の第97条の一節がある。「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」というところ・・・。自民党の憲法草案では、この一条がすっぽり無くなっていたと記憶しているが・・・いくら理念だけ書いても現実味のある憲法ではあるまいということなのだろうが、そもそも人間というのは理念の実現を目指して努力するものではないかと思ってしまう。人類の多年にわたる自由獲得の努力・・・多くの痛ましい命が戦争で亡くなったのはその自由獲得のために人類が血を流して来た成果だったのではないかと何故かこの時期にいつも思わされてしまうのだ。(基本的人権はキリスト教から来ているのです。だから自民党は消したいと思っている訳ではないでしょうけど) 
◆さて、前回書かせていただいた「セレニティーの祈り」を紹介したい。また、絶版になっていたが昨年だったか再版になった大木英夫訳、ニーバーの「道徳的人間と非道徳的社会」の紹介(この本の末尾に訳者あとがきとしてこの祈りの紹介が掲載されている(小生のは1998年4月10日発行の初版白水社) 
 「平静を求める祈り」 
  O God, Give us
  Serenity to accept what cannot be changed,
  Courage to change what should be changed,
  And Wisdom to distinguish the one from the other.
  Amen
  神よ、
  変えることのできないものを受け入れる平静を、
  変えるべきものを変える勇気を、
  そして変えることのできないものと変えるべきものとを識別する知恵を、
  われらに与えたまえ。                          
  アーメン                           
                                     
                            
◆作家、石川達三の講評も書かれています。再販も白水社かどうかは不明だが是非、あとがきだけでも立ち読み?されたい。また、もと東京大学総長だった政治学者佐々木毅さんの解説も掲載されている。そもそも、こう本の題名だけでも我々人類ひとりひとりに課せられた大きな課題があるように思わされるのだ。次回から聖書に戻ります。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(95回目)アカウンタビリティー:Accountability

2016-08-16 11:02:18 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回は脱線、雑談入ります。
今、僕は公の仕事の休暇中、いわゆる盆休みにある。理系頭だがだいぶ文系頭になっている。海外(中国<具体的には上海、厦門、杭州、東莞>、韓国<馬山>、台湾、香港(これは経由)、フィリピン、ベトナム<ハノイ>)などに行かせていただき体験させていただいたのが仕事勤めの大きな収穫だった。国内の主要な大手電機メーカーにも何度か出張で行かせてもいただいた。品質関係を担当させていただき今の残りわずかな時間その残党を務めている。どうして、こんな話が聖書に関係するのか? 前に書いた作家の佐藤優さんではないが「神学(プロテスタントの方です)は身を助ける」ということを言われていろいろ聖書を学ぶことにおいて思考が訓練されたと思われる事が多く、仕事の上でも良かったと思っているからである。
◆不明な言葉はネットで調べて欲しいけれど、仕事で工場勤めだけでなく、ある目標を達成し成果を上げる為には、その為の一つの仕組みを採用する方法として、品質に関わる要求事項 ISO(International Organization for Standardization)国際標準化機構というものがある。要求事項は、2008年版から2015年版に変わり、その中の冒頭にリーダーシップの説明責任(アカウンタビリティー:Accountability)が明記されたことだ。これも特殊な言葉のようでこれだけで、今ネットで検索し論文のようなものを読むことが出来る。上に立つ者の”説明責任”である。
◆今、僕はこれに少しかかわっているのだが、昔、出張で飛行機の中で読んだ日本経済新聞の記事欄に(飛行機の中に新聞用意されてます)「交遊抄」という欄があって、その中に当時、日銀総裁の速水優さん(~2009年)の記事があった。「ニーバーの教え」という題で、ライン・ホールド・ニーバーの「セレニティー(平静さ)の祈り」が、速水さんの座右の言葉と書かれていておられた。これを日本で紹介されたのが1956年から4年間ニューヨークのユニオン神学校博士課程でニーバーから直截お教えを受けた神学者の大木英夫さんだった。その記事の最後に今回のその次の言葉で速水さんが日経新聞に次の記事を載せて終えられていたのだ。
◆「~頼まれて大学院の公開講義を特任教授として15回ほどやった時も、いつも大木さんは最前列できいてくれた。『アカウンタビリティーとは聖書の言葉だよ』といって教えてくれたのも彼だった。」(2002年1月4日付けの記事)
◆聖書の言葉が我々の隙無く物事を進める仕組みの上に採用されていると言うことになる。イエスは言われる。”さばき”とは、わたし(イエス)を信じるか、信じないかである。一人一人が最後の審判の時に自分の生き様についての説明責任があるのだと思ってしまうのはわたしだけだろうか。そんなことを思ってしまった。・・・Ω