◆世界のベストセラー聖書を読む◆
イエスに対するあの事件が起こるヨハネ伝第13章に入る前にだいぶ脱線をしている。今のイエスの言葉を自分のものにしようとする人達がおられる事に対してエキュメニカル運動(つまりカトリックでもプロテスタントでもイエス・キリストの事であれば何でもオーケーという簡単に言えばそういう流れで・・・という運動)については、どうしてもついて行けないななどということを書くと”つまずき”となるかしら? カトリックでは来年の宗教改革500年をどう迎えるのだろう。いろいろあったけど、いいとこだけ見ていこうよ! 光の部分だけみて歩いていこうよ。光の中を歩め!でしょ。・・・と僕はならないのだなどうしても。
◆生きておられる神は、時代時代に、現代においても人の言葉で預言者というものを立てられるのではないかな、歴史の中でかなり世俗化されてイエスの言葉そのものは解体されないにしても、特にプロテスタントでは、ここまで近づかれた神(イエス・キリストの神)の言葉(福音書)を解体してもいいのかと思わされる時がある。かといって、一線を越えないカトリックの聖書のあり方だと、どうも我々の側に、万人祭司としてイエスが神の言葉を一人一人に表してくださったのではないの?と疑問を持ってしまう不自由さを察してしまうのだ。そして、自由を与えてくれたのは、曲がりなりにも人の歴史の中でいろいろあるけど、それをここまで解放し、悪弊を解体し、しかし、それなりに気がつかないが神の言葉への責任が非常に重くなって来て、耐えきれなくなってきているのではないかというのが今の時代のように思わされる訳。無論、ノー天気の人もいるけれど悪いとは思わない。
◆「永遠の命の言葉をひとりひとりのひとりひとりのものに」。イエスの言葉が、我々の言葉に与えられたが故に、それが解体されつつあるが故に人間には非常に思い責務が課せられているように思われてならないのですね。だから、その人生の過程では自分の言葉で読むという努力をすることがやはり僕の課題となる。
◆第13章以降は最後の晩餐と弟子たちへの告別説教が始まる。聖書の場面からいうととてもクライマックスというところ。イエスの告別で福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中では一番、イエスの語りが長いのね。正直、僕の意見を言わせてもらえば、当初からヨハネ伝の中に「イエスの愛された弟子」と自分のことを書いているこの第13章、とても大切な場面なのだが地上に残された人間の限界というものを感じてしまうのだな。それを感じてしまうので足踏みが長くなってしまったのだ。・・・Ω
イエスに対するあの事件が起こるヨハネ伝第13章に入る前にだいぶ脱線をしている。今のイエスの言葉を自分のものにしようとする人達がおられる事に対してエキュメニカル運動(つまりカトリックでもプロテスタントでもイエス・キリストの事であれば何でもオーケーという簡単に言えばそういう流れで・・・という運動)については、どうしてもついて行けないななどということを書くと”つまずき”となるかしら? カトリックでは来年の宗教改革500年をどう迎えるのだろう。いろいろあったけど、いいとこだけ見ていこうよ! 光の部分だけみて歩いていこうよ。光の中を歩め!でしょ。・・・と僕はならないのだなどうしても。
◆生きておられる神は、時代時代に、現代においても人の言葉で預言者というものを立てられるのではないかな、歴史の中でかなり世俗化されてイエスの言葉そのものは解体されないにしても、特にプロテスタントでは、ここまで近づかれた神(イエス・キリストの神)の言葉(福音書)を解体してもいいのかと思わされる時がある。かといって、一線を越えないカトリックの聖書のあり方だと、どうも我々の側に、万人祭司としてイエスが神の言葉を一人一人に表してくださったのではないの?と疑問を持ってしまう不自由さを察してしまうのだ。そして、自由を与えてくれたのは、曲がりなりにも人の歴史の中でいろいろあるけど、それをここまで解放し、悪弊を解体し、しかし、それなりに気がつかないが神の言葉への責任が非常に重くなって来て、耐えきれなくなってきているのではないかというのが今の時代のように思わされる訳。無論、ノー天気の人もいるけれど悪いとは思わない。
◆「永遠の命の言葉をひとりひとりのひとりひとりのものに」。イエスの言葉が、我々の言葉に与えられたが故に、それが解体されつつあるが故に人間には非常に思い責務が課せられているように思われてならないのですね。だから、その人生の過程では自分の言葉で読むという努力をすることがやはり僕の課題となる。
◆第13章以降は最後の晩餐と弟子たちへの告別説教が始まる。聖書の場面からいうととてもクライマックスというところ。イエスの告別で福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中では一番、イエスの語りが長いのね。正直、僕の意見を言わせてもらえば、当初からヨハネ伝の中に「イエスの愛された弟子」と自分のことを書いているこの第13章、とても大切な場面なのだが地上に残された人間の限界というものを感じてしまうのだな。それを感じてしまうので足踏みが長くなってしまったのだ。・・・Ω