marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(82回目)

2016-08-07 23:28:27 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
イエスに対するあの事件が起こるヨハネ伝第13章に入る前にだいぶ脱線をしている。今のイエスの言葉を自分のものにしようとする人達がおられる事に対してエキュメニカル運動(つまりカトリックでもプロテスタントでもイエス・キリストの事であれば何でもオーケーという簡単に言えばそういう流れで・・・という運動)については、どうしてもついて行けないななどということを書くと”つまずき”となるかしら? カトリックでは来年の宗教改革500年をどう迎えるのだろう。いろいろあったけど、いいとこだけ見ていこうよ! 光の部分だけみて歩いていこうよ。光の中を歩め!でしょ。・・・と僕はならないのだなどうしても。
◆生きておられる神は、時代時代に、現代においても人の言葉で預言者というものを立てられるのではないかな、歴史の中でかなり世俗化されてイエスの言葉そのものは解体されないにしても、特にプロテスタントでは、ここまで近づかれた神(イエス・キリストの神)の言葉(福音書)を解体してもいいのかと思わされる時がある。かといって、一線を越えないカトリックの聖書のあり方だと、どうも我々の側に、万人祭司としてイエスが神の言葉を一人一人に表してくださったのではないの?と疑問を持ってしまう不自由さを察してしまうのだ。そして、自由を与えてくれたのは、曲がりなりにも人の歴史の中でいろいろあるけど、それをここまで解放し、悪弊を解体し、しかし、それなりに気がつかないが神の言葉への責任が非常に重くなって来て、耐えきれなくなってきているのではないかというのが今の時代のように思わされる訳。無論、ノー天気の人もいるけれど悪いとは思わない。
◆「永遠の命の言葉をひとりひとりのひとりひとりのものに」。イエスの言葉が、我々の言葉に与えられたが故に、それが解体されつつあるが故に人間には非常に思い責務が課せられているように思われてならないのですね。だから、その人生の過程では自分の言葉で読むという努力をすることがやはり僕の課題となる。
◆第13章以降は最後の晩餐と弟子たちへの告別説教が始まる。聖書の場面からいうととてもクライマックスというところ。イエスの告別で福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中では一番、イエスの語りが長いのね。正直、僕の意見を言わせてもらえば、当初からヨハネ伝の中に「イエスの愛された弟子」と自分のことを書いているこの第13章、とても大切な場面なのだが地上に残された人間の限界というものを感じてしまうのだな。それを感じてしまうので足踏みが長くなってしまったのだ。・・・Ω

世界のベストセラーを読む(81回目)

2016-08-07 18:20:31 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
今日もとても暑い。来年はM.Luterさんが宗教改革を起こして500年。人というのは、当時の苦労したその時の考えの原点まで推し進めて考えてみようなどとは、殆ど思わず、その最終意見がその人の得たるところと思い出た結論を上澄みのようにその人の考えと思うものである。何を言いたいか、ルターさんは良く、信仰第一、行いは伴わずとも不要ということを言ったと総括する人がいるけれど、決してそういう訳ではなく、信仰を第一にその基にして出てくる行いで無ければいけないよということは、著書「キリスト者の自由」で書いているところです。最後の方を良くよむべし。当時、あまりに馬鹿げたというか、どう考えても聖書はそんなことは言っていないと疑問を呈し、おまけに個人の血を流すような難行苦行もさっぱり救いに導かれたという気持ちにはならず、という訳で当時の教えと体制に反旗を翻したとういうことになる。ここで僕は思うのだが、イエスが死への道行きにも従順であったから、我等も自分の良心と組織体に従順であって・・・と聞こえる時があってこれを僕は分からなくなる時があるし、多くの人はそうだと思う。宗教の行き着くところの怖さというのは其処なのだと思う。オウム真理教や統一原理などという宗教は「我に従え」のまさにその教祖が現実にいる訳だ、しかし、イエスは今は見えない。イエスとの自分の言葉を求めていなければ、ルターさんも当時の体制に従順で宗教改革などは起きなかっただろうな。
◆自分の求めていることに対してイエスの言葉に立つとすれば、いつの時代も自己批判としてあることを感謝に思わねば戦うキリスト者とは言えないかもしれない。ルターも猛烈にイエスの言葉を一人ひとりのものにするため当時の宗教体制と戦った。カルヴァンもそう、以降、殆どの著名な伝道者は当時の人間の言葉に切り替えるイエスの言葉の真のありように常に霊を吹き込まれるべく戦ったのである。いまの牧師さんたちはどうなのか。
◆キリスト教を文化にもつ、神学は無論、哲学の多くは、その覚醒の言葉を常に持とうとしていた歴史がある訳でそれは当然、今も行われているわけです。エキュメニカル運動などがおこり、イエスを語るはなんでもオーケーというのは、結局、自分の腹を神として自己満足していると言えるかも知れないのだ。だから、結論、そちら(伝えるその道の人達の組織)に属するのみに終始し、それで良しとすることで終わるとすれば、少しおかしくはないかと疑問を呈したくなるのだ。イエスの十字架の意味から、その言葉の不可解からそれを解明しようと実に多くの言葉(考え)が人に委ねられてきたのだと僕は思う。だから、例えば、ニーチェがなぜあのような反キリストの著作を著したか、キィルケゴールがなぜ、当時のキリスト教会に反論したか、スピノザがすべての宗派から破門されたか・・・などなど 考えなければそれは井の中の蛙であって、それは楽であろうが世にイエスを証ししているとは僕にはどうしても思えないのだ。・・・Ω