marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(93回目)

2016-08-14 19:14:48 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ ここ最近、口語訳です。ヨハネ伝第13章 
イエスが人々の心をお見通しだというのは理解できる、神の子だから。しかし、どうしてヨハネ伝のヨハネさんはイエスの心を理解できたように書くのか、書けるのか? (13:1)「~自分の時がきたことを知り~」、(13:3)「~神にかえろうとしていることを思い、~」。まして、(13:2)「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、」とあるところなど・・・どうして悪魔の心も読めてしまっていたのかななどと不謹慎に僕は思ってしまうのだ。いくらイエスに愛された弟子とご自分で書いていたとしても、これは難しいでしょうしできないでしょう。ちょっと怖いですよね。
◆で、ここが文章で人に伝えることの限界である訳だ。全くの作り事には出来ないし、事実を書かねばいけない。ただ、即物的に書けば箇条書きになり心情面が薄れてかすかすのイエスのメモ書きになる。ヨハネがこのように表したのは時間経過の中で、そのように書いても何ら今の現状にマイナス面とはならない程度の推察を思う充分入れ込んで書いたということだ。それに、当時の宗教的な周知されてきた伝統としての教えから言えば、何ら当然のような先理解の知識があった訳だ。聖書には、創世記から(途中も)そして最後まで、悪魔の片鱗が見えるところがある)、まさに、イエスが言われたこの時において、悪魔は、神との最終決戦の導火線に火をつけた事になる。勝てないのは知っているから自暴自棄に近い。
◆イエスは、御自身の言(ことば)を霊であり、命であると言われた。とすれば、本来、僕らは、神が人に鼻から息(霊)を吹き込まれた人を生かしめている霊とは何か、逆にイエスが「悪魔は人殺しである」と言われた、その悪霊については、僕らはどう防御すべきかなどは、まともに勉強のジャンルに入れてもそろそろいいのではないかと思ってさえいるのだ。特にあのような障害者施設での殺人が理屈を作って障害者はいらないと19名の方の命を奪うことが起きるのは、どうも悪霊が憑依したのではないかとしか思われないのである。(悔しくてしかたがないという思いだな・・・
◆どうして、ヨハネは書けたか?それはやはり、初めに書いたがヨハネさんは一番長生きをして、その群れ(共同体)がイエスの”わざ”で満たされていて動かしがたい事実の証し(あかし)が伴っていたからなのだな。だから、時間経過の中でゆっくり、理由付け(創作)が出来ていたのだとしか考えにくい。つまり、そのような決定づけをしても何ら体制には、プラスになってもマイナスにはならないからこそ、当の本人は実況中継記者ではなかったにもかかわらず、伝え聞くまた自分が立ち会ったそのときを思い出しつつ書きまとめたのがこの最後のドラマなのであるということになる。その編集の跡かな?と見えるところがある・・・(次回)Ω 

世界のベストセラーを読む(92回目)

2016-08-14 14:55:05 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
お盆の13日、どうして13日なのかは良く分からない。キリスト教では、13日の金曜日とか言われたり(これはイエスが十字架に掛かられた日とのことらしい)、仏教では49日(これは死<4>と苦<9>?)と言われ、これはキリスト教のペンテコステ(50日の一日前)などどすぐ思って、なんか関係あんのかななどと思ってしまう。末端の雑学では本当かどうか、情報は学術的でなければ信用できないなどということはなくて、実際は三面記事に載せられたガセネタのようなことが本当は事実であったなどということがあるのね。カトリックのロザリオなんていうのは仏教の数珠がそちらの方に移植されてなったものらしいですよ・・・とか。これなどはまだ人命が関与しないからから些細な事だが、多くの人命がかかわるような事件や事故が実は意図的に分かった人間がけしかけていたなんていうのは、キリスト教に関係する末端の雑学を調べると、その国が行っていることだから、あり得るかも と思ったりするのは決めつけは良くないが、仕事の上でも作家 佐藤優さん曰く思考の訓練になるというてますね。こんなことを書き始めると大いに脱線して話が「聖書を読む」でなくなってしまうから、そのうち、ちょい乗りで脱線時に書いていきたい。さて、
◆ヨハネ伝第13章に入った。イエスを裏切ったと言われるユダが出てくる。これは淡々と読むしか僕にはひっかかりが起こらないが、どうして、どうして先に書いたことのように雑学に入り込んで行くと、正当なその道の方々から、「いい加減しなさい」とお叱りを受けそうなことが、至る所にころがっているんだな。某、組織の○○会で実際に「ユダの福音」というのが書店で販売されてましたと言ったとき、その道の方からすごいお叱りを受けた時がありました。「あれはキリスト教ではありません」とはっきり言われた。別に口論する訳でもなく事実を語っただけでしたが・・・。以降、僕は静かにしている。その著者は、調査論文のものでしたが、あの荒井献さんという学者さんの出されたものでした。この方は、牧師の息子さんでもありますし、ご高齢となりましたが著名な学者ですから信仰と学問ときちんと別にしないといけない、疑い深いと言われたトマスさんの福音書というのも出版。まして、信仰は知識ではないから学問が入り込むのは御法度であるというのはおかしいと述べておられ、僕もそう思う。30回目あたりに紹介したが八木誠一さんや神学者大木英夫もそのようなことを述べておられ続けている。他の神学者や学者さんもそうだと思う。それで無ければ、日本の国にキリスト教は(「イエスの言」は)芯から定着しないと思うのだ。・・・