marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ 教師は特別厳しい裁きを受けるのである(ヤコブの手紙3:1)<marcoの日記から>

2020-11-05 16:00:45 | 日記

 O・Tさんが亡くなられた。K・Kさんが亡くなられた。S・Mさんが亡くなられた。(2015.05.16) 後者2名の方は、2011.3.11の東日本大震災に直截関わらずなのに流れた来た福島原発の放射能のためかな、突然の死であった。冥福を祈りたい。ノートパソコンの日付のないドキュメントを開くと、その2行だけが残っていた。お二人はとても僕にはユニークな方であって残念でしかたがない。◆数日前、長野県軽井沢で深夜バス、スキーツアーに行かれた学生方が、バスの転落事故があで多数の方が亡くなられた。評論家でもある小木ママという法政の教授が、教え子の死にとても残念至極とインタビューを受けていた。特に若い方々の死を聞くと本当に残念でつらい気持ちになる。◆かといえば、女性が同居していた友人の女性をばらばらにしたという事件もあった。昨年はT・F大学の女性が人の苦しむを見たいがためと、過去に薬物を友人に飲ませていたり、殺人を犯したというニュースがあった。人の死ぬのが見たかったと。人とは何か、などというたいそうなことを考えている僕などは、ここまでくるとまったく絶望。無性に悲しい。とともに、そら悪霊が飲むべきものを求めて探し回っているという聖書の警告を思わずにはいられない。***「我らの闘いは、血肉にあらず、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものである」パウロのエフェソ信徒への手紙の言葉が始終、頭に鳴り響いていた1年であった。◆神の許しと罪人の自由 ということについても考えていた。メソジストのウエスレー、会衆派であった同じイギリス100年後ほど後のフォーサイスも同名の「キリスト者の完全」を著したが、内容が時代により異なっているのでその理由をもっと学びたいと思ったものである。併せて、神学者 熊野義孝全集を読んでいる。かつてY教会のK・K牧師が熊野先生は100年に一回出るかどうかの大学者であると書かれたのを読んだが、そのとおり、この全集は、亡くなられたS先生にいただいたものだが、語学を別にすれば、聖書を読み、この全集を読むことによって、あとは実践のみの訓練で十分、牧師訓練ができるものと思わされたものである。◆ネットで神学大学を検索していた数年前、かつての3K学者は尊敬できるが今の神学大学生は馬鹿ばかりであると流れていたことがある。今はどうか定かでないが、思うにメッセージによりその言葉のメッセージは、ものの本のオウム返しであって本当に、それはどのように一つ一つのテキストが研究され、いまの私たちにインプレッションを与えてくれるのか、どうも真摯になって日々み言葉の研究に励まれているとは受け取れないのである。(ちなみに3Kとは名前の明記はなかったが 桑田延行、熊野義孝、近藤勝彦ではないかと推察される)。今の世の中、多少、お金を出せば、先生方の著作は購入できる。youtubeでも。しかし、真の霊的み言葉が、干からびた干物のようになってしまっているように思われて仕方がない。当の若い牧師先生方は、その群れの浴槽に使ってしまい、本来の神からの霊的インプレッションで現実世界を闘おうとしていないように思えてしまう。霊的にみ言葉で戦うことをしない。この世で、善悪の識別ができて、自分は「善、かつ忠実なる僕よ」と言い切っているところがあるから、何をもってその基準としているか僕は尋ねてみたく思うのである。◆一般に言葉による自己肯定は、あらゆる人が行ったている思考回路なので(意識する、しないにかかわらず)、それを普段にあからさまに聞くことのない大衆に神の言葉を宣べ伝えるに、いきなり、自分のみが知識の紐づけて永遠の世界の知的悦楽を与えてくれるみ言葉の表層のみを語っても、それは巷で販売している信仰の良書を読まれて下さいで終わってしまうのではないかと思われるのだ。それだけなら高等乞食か。自分の肉体の糧を得るために家庭菜園でもして野菜でも作りなさいと言いたい。***「多くの者が教師になってはいけない。教師は特別厳しい裁きを受けるのである。」(ヤコブの手紙3:1) (2016.1.20)


☕ 再び、大江健三郎のこと marcoの日記より(その2)

2020-11-05 14:57:53 | 手紙

 「レビ記」からは、第16章なかばを引用する。《こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の知に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。》(20節から22節) 「その山羊を野に」から。(文春文庫 p244)◆さて、評論家でなくても、読んですぐにこれは、作者の湧いてきた来た言葉の貼り付けを感じさせるところはいたるところに見られる。例えば、「先験的な子供たちの頭の中でのみ準備されていたのだ。」とか、「器具としての「滑り車」は・・・」など その他 多数。◆ずいぶん難しい哲学用語とか、機械的な言葉を用いなくていいだろうにと、江藤 淳などは、だからダメなのだこの作家は言うのではなかろうか。物語の内容にのめいる以前に作者の言葉への定義、その意識化をその言葉から感じてしまうのは、僕だけではないだろう。それがいいかどうかは、別にして、僕の場合は自己の言葉への意識化の自己認識を改めて、彼の言葉から感じさせられ、意識化させられると言ったらいいだろうか。どうも言葉の堂々巡りの文章だが、そういう意味においては、大江の文学は、僕にとっては、物語内容はどうでもいいような、それが一つの今の自分という存在の自己認識の手段として働いてしまうように感ずるので、それなりの効用を果たしていると言えるだろう。だから、自分の今の例えば体調如何にかかわらず、今の自分のありようを、その感情を、ぼんやりではなく、改めて意識化してみるという操作が、強要されるという働きをするのである。◆さて、この物語は、旧約聖書のレビ記から暗示を受けて、少年のころを思い出し、スケープゴートの物語を当てはめて、物語にしたものである。しかし、聖書の語る一貫したモチーフは、イエス・キリストである。ここでのスケープ・ゴートは、殺されてはならぬとされる贖罪山羊なのである。キリストは我々の罪のために、十字架に掛かられたのである。パーフェクトになれない我々は、キリストのみを見上げて生きなければならないのである。彼は、この地上においては、その肉体が最終、甦り、天に帰還された。不完全な我々を、最後の審判において、信ずる我らの弁護人になるべく・・・。  (2016.01.19)


☕ 再び、大江健三郎のこと marcoの日記から(その1)

2020-11-05 14:35:42 | 日記

 3ヶ月ほど前、市立図書館に行くと大江健三郎のハードカバーの全集が並べられ紹介されていた。ノーベル賞の時期もあったためか文学賞をもらった彼の全集を出版したものだろうけれど、ハードカバーの本作りも珍しいというかどうだろう、売れるのは難しいだろうなと正直の感想である。数年目のmarcoの日記から再度、ブログに残しておきたいと思う。以下・・・◆大江健三郎の「いかに木を殺すか」の中には、公にできないような言葉がしっかり描かれている物語がある。メヒコの大抜け穴 という物語には女性性器の言葉が出てくるし、男性の性器もしっかり、海外での学生便所の落書きまで出てくる。彼が何を書こうとしているのか全体を読まなければ解らないが、そもそもわかるような物語ではないのだろう。読後に何かを感じて欲しいというような物語なのだろう。こればかりではなく、他の物語の一つ一つに。彼の小説は、思いつく言葉を思いのまま貼り付けて、何らかの読者の持っている深層のイメージと結びついてくれればよく、また、自分の物語から読者なりの世界に結びついてくれることを願っているようなのである。確かに、一つ一つの言葉の結びつきからなる物語そのものから何かを得ようとすれば、面白い、そもそも面白いとは個々人により違うからこれも話題にはならない話ではあるが・・・。◆いずれ評論家、亡くなったが江藤 淳は、大江のの小説をよくは言わなかったらしいし、評論家のあの小林秀雄からは2~3ページで読むのをやめたよと彼自身言われたらしいから、それは解らないでもない。しかし、その一般共通項としての了解に対してどうであろうと、読むと何らかのイメージがわいてくるのは、それなりの僕にとっては効果があると言えるのだろう。さて、彼の小説には、ウイリアム・ブレークが出てくるし、「新しき人目覚めよ」などという言葉も見当たる。どちらもキリスト教に関する言葉である。この時代、小説家は宗教など行ってしまえば、本業も絶たれたも同然になるのだが、彼はひと時、世界のベストセラーである聖書に耽溺していたことは容易に想像できる。「洪水は魂に及び」などは、そのまま聖書の言葉ではある。その道の人はすぐ了解する。この文庫本の他の物語には、そのまま聖書の箇所が引用されている。本文は文語体をそのまま引用しているが新共同訳で聖書のことばを置き換えてみた。・・・続く