marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ 「女は女に生まれるのではない、女に作られるのだ」と「砂の女」

2020-11-28 17:36:52 | 日記

 ◆表題は、昔、フランスのボーボワールという女性哲学者の言葉であった。あのサルトルと友情関係を結んでいたとか。実存主義というものを現代風に哲学化したというか、僕にとっては人についてを、かなり無理をして技巧化して、小説に物語として暗示させ、人とはこういうもので、社会に取り込まれた人とは、こういうものなのだ・・・ということをシンボリックに象徴化したものが、彼らの小説となったと思われた。技巧的すぎると。大江健三郎もかなり影響を受けて、最後は宗教的な暗示に救いを求めた方向に向かったように思う。ウイリアム・ブレイクなど・・・ね。彼の小説には失踪者ではなく、死亡者として戸籍がなくなる男の話があったっけ。◆当時、安部公房などの作家、そう、「砂の女」とか(あぁ、これyoutubeで見れるね)、いまの人、そのまま、見ても何を言いたいのだろうと、きっと思うだろう。こういうことを小説は暗示しているのだ、というような解説を先に読むとなるほどと思うが、そういう高いレベル?での解説という先理解がないとさっぱりわからん、という物語である。「砂の女」の小説の初めを読むと当時から北朝鮮に拉致されて不明になった人がひょっとするとモデルになったのか、などと・・・、とすれば当時から失踪者がいて居住不明の人がいたのかな、などと全然、ちがう事を想像してしまうで出だしなのであった。岸田今日子がその女を演じているのだが、公務員の男は余暇を利用してハンミョウという虫を探しにきて、蟻地獄のような砂壺に落ち込み、そこにいた女が砂かきだしに日々、精を出しているという話。結局、砂から水を得る方法を見いだして、その砂壺から抜け出せるのにもかかわらず、失踪者としてその穴に居続けられることにしたというような話であった。それで、われらの現状も結局、その男のような生活をおくっているのではないか・・・と。◆ところで、ハンミョウ知ってる? NHKの「昆虫大好き」、カマキリ香川が探して見つける映像を見れたのは嬉しかったなぁ。


☕ 作家、瀬戸内寂聴さんについて

2020-11-28 16:58:25 | 日記

◆男女同権が叫ばれて、作家というのはそれで飯を食べているのだから、一般人よりも言葉が豊富だろうとと思われるが、自民党の某女性議員が「女は嘘をつく」と言ってひんしゅくを買ったが、女性が女性という生き物を客観的に言葉化して、男性と同等化するというのは、肉体的作りからして限界があろうかと思う。しかし、それも限界と制限しているのだから、公言はできないだろう。「言ったことはない、だから女は黙っていろ」と、いう羽目に落ちるかもしれないからだ。だから、暗黙の内に労働に関しても、制限を先に言葉化せず、配慮が労働条件の中に必要であろうということになる。差別ではなく区別をして、その役割に対して等価価値い見合った人件費を。。。と。◆しかし、情勢の特権として恋をして、不倫めいたことはどのような宗教でも、男には緩く、女性に厳しいのは、「命」に関わる(つまり、生命を生む)という特権を女性という生き物は、持っているからであろう。男という生き物は、一線を越えて生殖反応を増大するというもともと生き物だから、不安定な好いた惚れたの中途な感情は、持つべきではないといのが、ましてやそれを商売には論外で、ということなのだろう。宗教的には、対象を観念的な肉体に関わる(つまり、朽ちていく肉体特有の繁殖に関わる)欲求については、とくに厳しいのである。淫らな思いを持ってはいけないとは、いかなる宗教でも薦めている教えである。◆女性は、何処まで客観的にこの感情を、言葉にできるであろうかというのが、僕の疑問だ。不倫をして、子供まで作って、「ひとりでも生きられる」という本を書いて、僕は無理だなそんな肯定しても、と昔、強く思った記憶があるが、結局、尼さんになったのだ。やはりなぁ、と僕は思ったのだった。言葉に豊富な物書きは、心地よい話は、いくらでも話せるだろう。しかし、実は人が生命を持ち、この現世に生きて生涯を終えるということは、我々が考えているより大きな意味があるのだ。それは、実に単純だし、厳しいものだ。「自分で撒いた種は、刈り取らねばならない」といことである。僕らは生きているのは、いつぞやの前世からの宿題を解消する使命が与えられているのである・・・という考えもあるということを心しておこう。僕は、次のいつかの世代にその宿題は追わせたくないのだ。