◆ちょうどひと月前、あれから、雨や強い風が吹いたのですが、倒れませんでした。違った角度から撮影。結構、バランス悪そうなのにその重心が分散しないで、垂直に集中しているためなのか。高さは1メートルほど、平均の石の重さが16kgほどで結構、重い。その重心(G)のイメージは、僕の心の置き所として、この三次元に存在することの確認から始める、その基点となるイメージなのです。◆その人の思考の源泉がいずこにありや? 自分探しの中でまだ、うろうろしてきた中で自分の基点となるイメージを探し求めて、こういうシンボル化を見出したわけです。生活の中で追求し確認し、維持していこうとすることは、もともとしっかりした人はいいのでしょうが、僕は、外部からの言動に対して、この確認を早朝から、まず行うことを始めます。◆臨済宗の住職は朝4時前には起きて、座禅を組まれるし、それと同等の時間には起床されておられるのだろうが、僕の田舎のご住職は朝6時には、広い講堂でお経を読むお勤めをする。冬はそれは寒いそうで、頭が坊主だから髪が無いのでなおさら寒いだろうなと不謹慎なことを思ってしまった。◆その基点の自己確認を行うことができると、目に見えない、もう一人の崇高な(一応書いておく)自分と会話を始める・・・。いずれ、自己の中心を確かめつつ、やるべきことをメモに箇条書きにして、些細なことでもボケ防止のためにメモし、終わると線で消していくということをしていきます。◆最近、もっとふさわしいGのシンボル化を見つけました。しかし、人工物とみられるより(自分の中ではよりこちらのGである、と心の中では言っているが)、今のところ誰でもすぐできるであろう、自然石のシンボル化の方が今の自分にふさわしいように思っている。◆もっとふさわしいGとは、「テンセグリティー」です。ネットで検索してみてください。宙に浮かぶGがより分かります。しかし、こちらは次元が一つ上。今のところ、僕は地面の上にしっかりと立っていたいと思っています。Ω
◆朝の連続テレビ小説はあまり関心がなく、頭が一応働く時間帯としてはまったく受け身の時間を費やさないようにしているが、この『エール』は違いました。画面では教会の中の場面も出てきます。音楽家が主人公であるならば西洋音楽は、教会音楽に必ず結びついているからこういう場面が、当時の時代背景から出てくるのは必然かもしれません。◆主人公の連れ合いとなる、音(おと)さんの母親役の薬師丸ひろ子さんが被災したバラックで、「うるわしの白百合」という讃美歌を一節、最後まで歌ったのは驚きました。薬師丸さんは子供の頃、聖公会のキリスト教会に通っていたそうで、復興を思わせる(つまり復活を暗示)この讃美歌を歌うのは彼女の提案であったということを聞きました。◆「長崎の鐘」の場面で、皆が祈りの場面を映したのは医師でキリスト者であった永井 隆を思いだしたし、いずれ、人々が命に係わるどんづまりに行きつくところに何があるかと言えば、人のドラマを客観的にみられている、人とはなにか、というような深刻な問いに答えを出した、あのキリストと呼ばれる方の言葉にどんとぶつからざるを得ないと思います。そして、それはその根底の希望を与える喜びの根のようなもの、それも神が創造して最高傑作として愛された人と言う生き物が、光り輝く、栄光に満ちた、永遠の住まいに導かれるというその希望に結びついているものなのであると・・・