実家に帰り、むかし読んだ本を見ると脳に関する本が21冊あった。それから、体調からくる喜び如何などの本、つまりは、鬱気質の者に対しては、ある種の薬で直るし、それは完全とは言わずとも脳内の分子言語を操るペプチドなどがあり、はっきり言えば、脳内のホルモンの働きにより、幸せを感ずることもできるというような世界がすでに生理医学界では開かれていたという訳なのである。それは、つまり人類が存在する限り、人に関する本当のことは言ってはならないという分類に入る事柄なのだろう。万物の霊長と言われる人間に対して、それは動物の一種類ではあるれども、そしてまた、確かに事実な事柄なのだと解ったとしても、それは決して公に流布させてはならないことなのだ。しかし、人は競馬で駿馬が代々、優秀な種をのこすことを人為的に操作しても、人にはどうしてそのことが当てはめてはならないのだろうか。◆優秀な遺伝子を残した方がいいのではないかということは、人間には当てはまらない。慶応大学病院での対外受精をしたその精子が、当時の内密な試験的な医学生のものであり、子供が欲しかった家庭にできた子供は、やはり慶応の医学部に入ったのは良かったが、それは遺伝子が優劣あり医学部入ったのだろうけれど、自分の出生に疑問を抱いたその子供が、自分で自分の精子の提供者の父親を探し始めたのは、どういうことなのだろう。彼は、苦しんで真実を知りたいと願っていた。加藤●●というサイエンスライターと確か同姓同名の医学生だったと記憶する。◆とすれば、目に見える地上においては、少なくとも人類が、この地上に生存し続けるとするならば、それでは、なぜ彼(イエス)は、人々をしかも世間から見捨てられた、まったくもって遺伝学的には劣等に属するであろう人間たちを救いに来たのであろうか。しかも、本人の意思にも促しを与え続け、我を信ぜよ とその身を呈して十字架に自らを贖いの生贄として、十字架にかかったのであったのか。ここに、一方的な選別ではなく、救済という考えがあるのである。人が生まれて生き続けDNAは罪にまみれてしまっているということになろう。それは、おそらく創世記の人類の創造にまでさかのぼるものである。最高傑作である自らの似姿に創造した人類種のに吹き込まれた霊への創世の基の住処である天国への帰還が当然あるべきこととして一人一人に声を掛けているのであると。優劣の言葉の劣等の方はしたがって、基から離れてしまったが故の罪の累積として、外形としての劣等が出来上がるが、神の元への帰還では、かの地においてはその肉体がないが故に、それに関与するあらゆることは関係のないこととなるのだ。しかし、土台となる地球自体が危うい。時は縮まっている。 (2016/01/18)
冬、シベリアからの風が遠くの荒涼とした原野の音を引きずってくるいつもの時と違い今晩は嘘のように静かな夜だ。夜八時だというのにすべては眠ってしまったように物音一つしない。オレンジ色の光の中で昔、ちんちんとストーブの上のやかんの音を聞きながら、僕は息を止めて自分のとりとめもない収拾のつかない神経系の嵐と闘っていたのだ。まず、ひとつ、目に映るものの焦点が結ばない、神経が昂り、自分を確認する言葉が出てえ来ないのだ。おまけにしようとすることが自分ではできない、時間がとても無駄に流れていくようで、何か非常に空しい時間が過ぎていくようで、それでも満足はできず、自分は何なのか・・・と毎日、もがいていたのだ。自分というものが解らなかった。いわば長い長い時間、自分探しをしてきたのである。◆エリク・H・エリクソンのアイデンテイティーという言葉にひかれて、そういう時期がまさにあるのだということを知った。フロイトも読んだが、僕も若かったから、それはある経験をつまないとわからないものものなのだろうと自己納得することにした。幼児期からの成長期にあたり自己の形成がどのようになされていくかの解明は、救いの本とも思われた。◆喫茶店に行き、一人でぼんやりすることもあったが、コーヒーの香りを感じながら、僕が何をしていたかといえば、一つの光をじっと見つめて、その光がだんだん大きくなって、一瞬のうちに目の前の全体に広がり、すべてを包み込んでしまう、そんな時を僕はいつも待っていたのだ。僕が訪れた、駅前の喫茶店や小路横丁の喫茶店などはとうの昔になくなった。あの頃はまだ、喫茶店があってひとも多く出入りしていたように思うが、今は大きなビルが建ち、整然とした街並みになったが、かなり情緒がなくなったように思う。◆自分をとらえる手段は何かと思い詰め、それは、まず言葉であると考え付いた。しかし、土台となるそれを駆使する脳みそはどうかと疑う。結論は、そこに行ってしまうのであるが、親を選べぬいずれの誰それでも、まずは現象結果の今という時を生きる自分からしか考え始める術はない。・・・続く
Kの父親は東北大学医学部の博士号をとるために仙台に家族で来て、3年のところが2年で取得されて、陸前高田に帰られたが、仙台の方が環境もよかろうということで中学時代をKは一人下宿をしながら仙台で学びをすることになったわけだ。ジュディーオングに似た八百屋の娘さんにこれはたまたま受験期に隣のクラスにいた女性にほれ込んでしまって、勉強が手につかなくなったのだと、あとで一高の受験に失敗した理由を、母親が話していたと聞いたことがある。彼のことは話が尽きないので後で書くことにしよう。5年前の東日本大震災で岩手の陸前高田も壊滅的な被害を受けて、その父親と母親、姉を亡くした。父親は熱心なカトリック信者であったと思う。母親は結局、その後も見つかっていない。◆そのころ読んでいたのは、五木寛之という作家の一連のは読みやすく、ほとんど朝まで読んで、人生の悲哀のようなことを感じたものだった。その後、一連の作家では大江健三郎になる。何やら遺伝なのか、僕の本性は悲哀を感じやすいようで、自分の生まれて生きて、生活をエンジョイするなんてことは、なぜかできなくて、いつも自己とその考えの齟齬に苦しんでいる自分がいるだけなのであった。そして、その原因を探りたいととうとう60という歳を越してしまったという訳なのであった。◆例年になく雪の降るのがずれ込み、ようやく新年になって外が全面、真っ白になった。旅人に対する太陽と風のグリム童話?があったが、この冬になり、空もどんより暗い灰色で寒くなると、気持ちも落ち込む、寒さに身も縮む。この天候の中で、血圧により体がブレークアウトするのに極力注意を払い、修行の身と思って、日々の生活に精進しているという訳である。◆永平寺、雪国の中で、毎日、修行に励む僧のことを思う。千日回峰を二度もやり遂げた酒井僧正のことをKは何度か口にしたことがあった。昼夜、あの山の中を1000日間も歩き回るあの修行である。太宰治の「人間失格」も好んでいたようで、退廃的な人のありように心引かれるものがあったのだろう。◆1954年には、世界中で聖母マリヤが顕現した話が、とびぬけてあった年で、僕らの時代は、地上の人間的な生活では、全然見栄えはしないけど、宇宙大での何らかの使命をこの地球上に果たすべく、命を与えられたのではないかと思ってしまうのである。( 2015/01/17 )
物語が物語を生むには、会話が必要となる。必ず会話がでてくる、ストーリーは人から作られる。他人が出てこないとしても、対象物が取り巻く、そして反応はやはり他人なのである。それは、自分の感覚が人ではどうかと試したくなるようなものだ。自分の感覚の位置が一人で孤立しているとわからなくなるからだ。そこで積極的にイメージを現実に同着させようとする。するとなぜか、自分のイメージがすべての世界になるのである。さてここで、そのイメージを光の元でのイメージか、暗闇のイメージかによって、人は大きく選択が行われる。良し悪しの判断、うまいまずい、選択の判断基準とは何なのかというような第三者的な根本から問うようなこともなく、現存する肉の思いを実行する。しかし、外から見るならば、衣服、食事、住まいがほどほどに満たされてるとすれば、悟りを開いて、それからそのままでよいというわけでもあるまい。まあ、満たされれば、生涯、そのままで一生を終わることが、それで良しとされるかということはどうなのだろうかと思う。◆しかし、Kはそもそも僕のそんなところが嫌いで、現実、今、思ったところを言い、実行するでいいのではないのか、それは、その瞬間、おのれを生きているのであって、それが肉とか、霊とかというようなことを考えてもどうしようもあるまいと言う。第一、お前がそのように考えているなど、言葉にしなくちゃわからないだろうし、解ったところで、理解するのは、カルバンだっけか、予定説とやらの神に選ばれている者がわかるのであろうが、それは、先験的にお前の考えを聞く準備ができている奴だけだろうなとうことになるだろうなという。おれはなあ、肉的にとやらに素直なんでという。◆当の彼をキリスト教会の礼拝につれていった夏、たいそう朝から暑い日だったが、聖餐には席をはずし、礼拝後、階段をおりながらすれ違った牧師夫人に、こう言ったというのだ「今日は暑いですね、ビール置いてないすか、ビール!」と尋ねたそうである。それから礼拝が終わるなり、前から二番目の若いのがいたろう。いい女だったなと僕に向かってこれ見よがしに念を押す。ああ、あれは教会付属の幼稚園の先生だよと返事をする。僕は、性的なことは頭から完全にOFFしているが、言われてみれば、肉的とやらからはうなづけないではない。かろうじて、Kの話は、そこまでで止まったが、エスカレートすると、だんだん艶めかしいどころを超えてエログロになっていくまで本当に話そうというところまでいくのだったが聞いたことがなかった。・・・続く
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-201028X840
賛成も反対もないのですが、学者さんの反論はともかく、どうして政治的に、あくまで政治的にですが、政府がそのような見解を出した理由を自らの学問で理解されないのか、そういう公にできない言葉にできない深層の意味があることは到底理解できないのでしょうね。いや、学問にはそもそもなりえないか。言葉で公に陽ノ下に明らかにするのみが学問なのでしょうかね。他国というものがあり心理学や地政学や歴史やひいては防衛、国家の危機にまで及ぶ内容があることは、学問の対象にはならないのでしょうね。これまた、公にできない政治的なことは多々あると思うのですがね、どうでしょう?