◆キリスト教においては、自分ということを考察する哲学、心理学でもいいのですが、自主独立自尊という考えから自分の考えを持つということ、それはある時は信念と呼ばれるかもしれない、と宗教的分野(少なくともキリストの教えは宗教ジャンルには入らないと思っていますが)の信仰を持つという体験は、あくまで次元の異なるものであるということです。◆前者はあくまで言葉を持ちます。しかし、後者は行きつくところ人の言葉のない次元なのです。日本仏教でいえば、座禅を組む、お経を読む(これは実は人がその意味を考えたときにすでに、不完全な人の言葉と雑念により解釈が入るので本来意味を問うてはいけない、ただ、唱えるのであるというお勤めにその行為の中に到達する何か<それはある時は悟りと呼ばれるでしょう>を個人の中に自存していくというのです。形から入る。)というそれらの行為であり、イスラム教では、書かれた文字にも意味を持ち、多言語に訳するという行為自体本来勧められることではないとされる。町の塔の上から大声で語られるコーランの教えに耳を傾け礼拝するその行為に意味があるというのです。ただ、聞くという行為。定期に礼拝することもその行為の中に、ただその行為の中に神の芯たる核、教えに同期することであるとされるのです。◆しかし、キリスト教はどうでしょう。人の数ほどの信仰書があり、信仰を持つことは、実際、哲学や信念というものとは異なるとは言え、かまびすしい議論がなされて来ているのは何故なのでしょうか。それは、結論から言えば、こういうことになるでしょう。天地創造の主なる神は地上に自分の似姿に人を創造されたこと。それは有機物ではあるが神は霊を吹き込んで人になったとされる、その全創造物のオペレーション・システムを開示されて、被創造物でそれを信じる者たちに地上の命ある人と言う生き物を永遠の命へ(天上の世界へ)の帰還させるべく「天上になるごとく地にもなさせ給え」と責任を持たせたのであるということ、そのように考えられるのです。哲学と融合した神学は実際、その人類の戦いの中で人類を高度な文明へと飛躍させて来たのです。◆創造主と同等の霊的権威を持っていた天使(地上に落とされ堕天使:悪魔)がそのOSを狂わせた戦いは、現在も続いているということです。独り子イエスの教えが世界に布教され、悪魔の居場所がなくなりつつある必死なるもがきが生じているのではないかというのが、今と言う世界なのです。***使徒パウロは手紙に書きます。「我らの戦いは、・・・支配と権威、闇の世界の支配者、天におけるもろもろの悪の諸霊に対するものである。神の言葉を武器にとれ 」と。・・・続く
◆アメリカキリスト教国の混乱は世界の混乱を象徴しているだろう。”だから言わないこちゃない”、中国共産党はそう思っているだろうか?詰まるところ、人が集まり大衆となり、どのようにまとめていくかである。上からの強権的なあくまで人の頭脳で考えられたと思い過ごしている政治システムか、そうではなくあくまで良心に訴える人の世界に神の世界を、民主主義、人道主義と訴える政治システムか。前者は個人の人権など無視されるだろうし、特に宗教と言う奴はとりとめなく手がつけられなくなるから排除されるだろうし、後者はこれまた、メディアの総動員の強化、低劣化の人の集合で平等など掲げようものなら、みんな平等に貧しくなりましょうというようなものなのであると。これは常識的に見たら算数ではないか。◆ドイツのメルケル首相も130万もの移民を受け入れそれが民衆の反感をかい、退任する。この方はプロテスタントの牧師の娘であり、物理学博士号をお持ちの方なのである。しかし、いかに人道的と言われても人は即座に”共におるは麗しい”(聖書の言葉)とは常識的にいかないのではないか、それは誰もが過去を背負っているし、多くの異なる民族の受け入れであるからである。”人とは・・・、自分とは・・・”を知るキリスト者の群れであれば話は別だが・・・。新たに生まれなければ神の国を見ることはできない、と。そう自負する人間でも難しいのに。新たに生まれてもいないと考える、命ある人々がいるのである。◆そこで、各個人が聖書の相矛盾するような次の言葉に再びぶつかるのである。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せ。」&「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、自分の命を捨てようとする者はそれを得る。」***「義人はいない。ひとりもいない。」とのパウロの言葉は、実に神の目線からみれば、その判断の境界はどこにあるのかという各個人の思考の頂点(自問)にぶつかるのです。結局、「あなたはわたしを誰と言うか」というイエスの言葉にいつも答えることになるというのです。誰が?、自分が? そう、読者であるあなた自身がです。彼は今も問い続けているのです。・・・続く