◆先のブログの後半に書かれたこと、古代アメリカや東に離散した多くの離散した一団がいたことは間違えてもキリスト教会(モルモン径を除き)では公には語られない。バビロン捕囚までは、きちんと語られることがあるだろうが、それは高校の世界史でも習ったことだ。第一、聖書にはそれらのその後の人々の詳細は書かれていなから。しかし、また、聖書に書かれている残った人々、エルサレムに帰還した人々がいたことなのである。聖書で大切なことは教会で語られるこちらの方だ。取り上げたアモスの最後、そして、他の預言書でも後半は希望が語られていることである。◆神は「あなた方を必ず連れ戻すと」煎じ詰めるとそう希望を語っていることだ。預言者は、歴史を動かしている神の摂理に背く人々に滅びの預言をする。わたしは、エジプトからあなた達を導いたではないか、と。それでも、人々は振り向かない。そして、結局、滅びを招き離散したのである。しかし、最後に将来の事を希望を持って預言していることである。これも、また事実、歴史はそうなった。あまりに、預言のことばが的中するので、近代から今までの神学者の中には、事後預言というものではないか、と言う人もいるくらいである。事後預言というのは、後出しじゃんけんのように、歴史の結果が分かってあとから前もって分かっていたように後で記録されてものだろうということだ。しかし、預言書を調べようが時代検証しても事実としか言えなかったのである。◆事実その希望は、バビロンの国の後に起こったペルシャによって、(遠くに離散した以外の)人々はBC538年エルサレムへ帰還するのであった。この導きの摂理は、繰り返し続いて世界の人々に今も語られているということである。キリストが地上に来られたことによって、それがあからさまに地上の神が命を与えられたといわれる全世界、全人類に知られることになったということである。永遠の命への帰還がすべての人に語られるようになったということである。天のエルサレム(「エル(神の)シャローム(平和)」)に招かれているというのである。イスラエルの過去の歴史など知らないギリシャ人が、イエスを尋ね求めに来て以来、十字架に掛かることをあからさまにご自身で語り始めたのは、そういうことなのである。◆神は、今日も使わした独り子に聞き、無条件にわたしの元に返ってきなさいと語り続けられている。あぁ、畏るべし神の摂理!