marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(788回) この国の信仰のアイデンティティー

2021-01-31 21:25:13 | 日記

◆内村鑑三が何故、無教会を唱えたのだろうか。アメリカで体験して思ったことは、聖書の原典にもどって考えるならば彼がそう思ったのは正しいことだったのではないだろうか。その歴史で形作られた形式を遵守することが正であると、かまびすしい議論で分派してしまったことよりも、と思う。僕がこれを書くのは、この国のキリスト者は1%にも満たないとされ、それはなぜかと思っているのは牧師は尊いお仕事ではあるが、ほとんどの方は欧米の神学のみであって、この国の土台を考えられたことがないからではないだろうか? ◆聖書に書かれたことをそのまま伝えるのは良いこととしてもそれを語るあなたと言う「自分」は何であるかということを考え切れていないからではないだろうか。これでは、神学は哲学に負けるのでのではないだろうか。キリストの十字架は、この地上の上に建てられたのであって、自分も住み生きているその大衆の居るその土台を考えずに神の言葉は、本当には理解しきれないのではないだろうか。流されてしまう危険を誰もが感じてしまっているからではないだろうか。◆内村は『第9章キリスト教国にてー 神学に触れる』の冒頭にこのように書いています。***「坊主になること自体は、すでに悪いことであり、ましてやキリスト教の坊主になるなんて、私の運の尽きた時であると思っていました。私の国のような異教国にありましては、キリスト教の牧師は、調節であれ間接であれ、外国人の援助を受け、なんらかの系統のビショップの支配下に置かれます。真のドイツ人であるなら、だれ一人としてイタリア人とかフランス人とかの坊主に、支配されることを甘んじないでありましょう。同じように、真の私の国の民ならば、だれ一人として、いかなる外国の勢力によっても、しばられるのを好まないのであります。自由放任主義、とか等価交換という経済原理の助けを借りて、この良心的な国家の名誉を尊重することを、放棄することは、卑劣なことであります。わたしたちの国家の独立にとって危険でさえあります。思想はコスモポリタンなものであります。あらゆる国のあらゆる人々から教えられることを、私たちは喜ぶし、実にありがたいとも思っています。しかし、パンはそうではありません。実は心の束縛は、最も危険な束縛ではありません。胃の束縛が最も危険であります。・・・物質の面でのコスモポリタニズムこそ悪しき原理であります。このように、私の場合、キリスト教の坊主になることは二重の意味の性質の束縛を意味しました。私自身の名誉と私の国の名誉のために私は、キリスト教の牧師につくという考えは毛頭ありませんでした。・・・」・・・続く