◆人生もだいぶ後半の入り口になって来て、暗い学生時代に求めていたことが、例えば、'60年代、E・H・エリクソンなどの「アイデンティテー(自己同一化)」などが、読まれた時代や、あるいは、心理学が台頭し教会の教えにとって変わるのではないかと叫ばれた時代もあったけれど、今一度、問うているのは、何ら僕らが生きて来て、人として当たり前のこと自体が、誰でもが当然のこととして、その前提自体を問うて見ることもなかった「人というのは、そもそも何なんだ」ということだったのではないだろうか。そして、それは、今でも学校で教えられることとはなっていないというのは、なんとも不思議なことではないだろうか。◆例えば、こうだ。前に書いた東証のシャットダウン。あたまえに動いているそのインフラがダウンすることで、すべてが何おか言わんやとなってしまう。すべての舞台がなりたたない。これはまさに、イエスが、例えでこう述べたことを思い出す。天国のことも考えないある金持ちがたんまり金を蓄えて、これから何をすべきかと思案すると、神がその男の命をとってしまうというおろかな男の話。あるいはトルストイの寓話でもいい。一日歩き回れるだけの土地をお前にやろうと言われ、欲をかいてまだまだと歩き回っている内に死んでしまい、その男に必要な土地は自分の入る墓穴だけだったという話。◆さて、イエスが言われた「自分の命を愛するものはそれを失い、自分の命を憎むものはそれを得、永遠の命に入るであろう」と言われた「自分」とは何なのか・・・。今、世界で実に多くの方がコロナ・ウィルス感染で亡くなっているではないか。毎日のニュースでその数字をいわれても、マンネリ化しそうになってくる。関係の無い高齢者の方がたの数字が含まれている場合もあるだろうが、世界的にその数値はシェアーされて、実になんとも驚きの考えられない人間の時代になったのではないだろうか。まだ、永遠の道に残されている人々がいる。イエスは、このときも語るのである。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。(ヨハネ伝3章)