◆すごもりの中、アメリカの民主主義の混乱にあたって、内村鑑三がアメリカに渡った経験が書かれている『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』の第6章以降を再読していました。未信者の方も多く読むであろうその内容に、政治が宗教分離ではないその国の実際の民族の困難さは彼らが国を開いてから続いてきたものであったということを今更ながら教えられます。何故、「無教会」を唱えたのかも。◆途上国に裕福な持てる国が教えをたれ優位を誇るという人という生き物の恩恵の法則の上に、時代を経て世界が真の神を知りはじめ、途上国が神の恵みも受け入れ、その恩恵にあずかってきたと言えますが、人はその根底にあるものの基本が、裕福に生きたいと願いを持ち、食べ、排せつすることを基本とする生き物であるが故に、また、個性をもち、生命を維持し、自由という錯覚のために攻撃性をも持つ人という「個」とその集合の「国」と言うあり方に、その課題、自由と全体のありようという国の人類システムの相克が、世界の歴史だともいえるのです。◆しかし、実のところ信仰と言うのは文字や言葉では分からない個人の体験によるものです。世界の人の数ほどの信仰書なるものを読んでも、理解する信仰と言うのは当の本人が体験するものであるからです。ですからここに個人の救済の確信が生まれてくるのですが、これも言葉を越えているものですから表しようがない。その体験も一瞬のこともあれば、人によって人生を通して訪れてくるものであります。彼が本の「はじめに」と「序文」に書いてあることは、そういうことで、彼は回心が10年かかったというのです。あの、ジョン・ウエスレーも13年間も必要だったし、古代キリスト教最大の教父アウグスティヌスは16年間も同棲生活はやめられなった。しかし、そういう実際の求道の苦しみの中で我々は彼らの心から胸打つ現実的な言葉が生み出され、生き方に教えられるのです。◆この国は不思議な国と僕が書いたのは東まわりの真の神のDNAを伝えたものすごい数の集団が「津々浦々」にいて、この国と同化し人々の信仰心を形成していると感じたことなのです。彼はそれを受け継いでいた。そういうこの国の信仰の土台を持ちつつ、彼は真のキリストを受け容れたのです。それは、まさにこの国と彼個人の信仰のアイデンティティーに合致するものでした。・・・続く