宗教法人の税制面での決まり事の説明が国主催で各全国エリアで行われた集会(北海道、東北地域とある)が、当地であったので出かけると田舎の実家の寺(真言宗智山派)の若い住職も見えられていて、おやおや、という挨拶をする。 どうして僕がこの会に出席されているのかと2日間にわたって問われる。僕はキリスト者なのだと答えざるを得なくなった。それで、空海さんも中国でキリスト教(景教)に触れているし僕は嬉しく思っているのですよ、と答えると、そうですねなんでも包括されていますからね と笑顔で返答された。2日間にわたり、いずれも途中で退席されたので市内に来ることは普段ないのだろうから、駅前の大型書店でもいかれたのかな、と・・・。40~50名の出席っだった。
◆真言宗の空海さんが中国の唐、長安に行かれた時にその地にはすでにキリスト教(景教)、ユダヤ教、道教、儒教、マニ教なんていうのもあって、彼もキリスト教も理解したかはそうかはともかく、それには多大な影響を受けたものと思われます。ですから、当時、中国に建てられていた「大秦景教流行碑」(ローマから来たキリスト教がとても流行したので記念に建てられた石碑)のレプリカがこの日本の高野山にも建てられているのですね。高野山大学では洋学で政治や聖書、翻訳まで勉強するらしい。あぁ、それは開かれた「大学」ですからねと僕は思う。そもそも、空海が唐に留学したきっかけは、いろんなありがたいと思われる教えが大陸から、仏教として流れ込んできて(漢文で書かれたものがなんでも仏の教えとなって混在していた)、何が本当のものなのかを追求しなければいけないと発心したからなのであった。ちなみに最澄は渡来人。ですが、空海は言葉の通訳に障害がなかったようだから相当の秀才だったのだろう。こう言う人材は、この国に流れてくるあふれるようなありがたき教えに筋道をつけないといけないと選ばれて唐に渡って、最高位の勧請を授かって2年あまりで帰朝したのであった。
◆空海は、平安初期804年に入唐して2年あまりで帰朝してきていたのだが、当時の歴史たるやまったく東北の奥地は蚊帳の外の状態であったわけなのですが、そこに歴史がなかったわけではなく、まして、人が住んでいなかったという訳でもなく、どうも僕が子どもの頃から気になってしかたがなかった神社というものが山の田舎の奥まで至るところにある、これは確かに明治期の国威掲揚のために整備されたものもあるけれど、つまりものすごく古い、言葉や文字で残さなくてもあって当たり前のようなその存在がもともとそこにあったものだったのだ。むしろその長い時代に東北の地は実に豊かな時代にみたされていたのだということが分かるのである。文字という記録がなければ歴史はなかったということは、当たり前だが言えない。(僕の生まれた田舎の山の麓に建てられた板碑3mもある。これは江戸時代のもの)
◆こうして僕がこだわるのは、人には宗教的人間がいるようなので、それに感応するというか、人は「万物の霊長」と言われるくらいに(そもそも「霊長類」という分類は何なんだろう)「霊」に関して思考できる人のことなのである。更に調べると、この国のその神社(ここでは創世時代の古代の神道と言えばいいか)以前のもっと古い時代のものがある時期に、そのシステムが整備されてきているということが分かってきたのであった。
◆世界のベストセラーはキリスト教の聖書である。天地を創造し、人をも創造した唯一の神である。実は紀元前に、すでにあからさまに文字にはなっていないがその精神性は形を変え、かのイスラエルから大陸を受け継いでこの日本にわたって来ていたのであった。僕が、ずうと思ってきたことが今や、学問的にも明らかになってきたことを僕はとても嬉しく思っているのです。まさに、かの人の到来の時が近い時代に入ってきているのである。 ・・・