今朝から雨・・・
◆早朝、うすぼんやりの暗い明け方。肝心なことは、実は書き出すそれまでに至る意欲の源を捜すことだった。ひらめきが空から降ってくるわけでもない。つまり、僕ら凡人は、自分が主体的に言葉を捜す能力というか、つまりはきっかけが浮かんでこないのであるということに気が付いた。生まれて生きて死んでいく、ただそれだけといえば、身も蓋もないのだが、そういうことだけではいけないがために、人には災難があると、まさか、そんなことはあるまいが、そして必然的な死を考えることも、いや、と僕は思う。こちらの方が誰しも例外はないのだから有効だろうとそこに戻ってきてしまう。つまり、僕の不幸な肉体に戻って来てしまう。
◆だから、心がけることは淡々と生きていても内実だけは崇高にレベルアップしていかなくてはならないと。けれど、その評価はどうなるのか、だれが決めるのか。そこに他人が出てくるのであるが、僕は極力、人の評価とやらを耳にしないようにしてきた。僕はまったく、誰と誰が結びついたとか・・・つまり、噂話がすきな、三面記事であっても結局、話しているその本人の優位性を持った批判が生じている話題。ああ、人を褒めることをしても、けなすことは良くない、というのはその人を愛しているであろう神をけなしていることになるのだろうからと、僕は思ってしまう。それは、結局、そのけなす人間の人を作られた神をしらないことなのだろうから、それを知らせるために神はあなたに試練をお与えになるだろうからと。
◆僕らは何か大きな勘違いというか、その存在を知らないのである。つまり自分を知らないのである。神はおられるのだから、それなりにお教えくださるであろう。意識するとしないとに関わらず我らは、自分の与えられている生から抜け出すことはできないのだから。だから、まずは世界全体を知りなさい。それから、その中には目に見えないことも含んでいるということ。しかし、ああ何と神というコトバはまったく目に見える世界から見えない世界、過去、現在、未来、黄泉の国まで支配されて現存しているのに、小さくなってしまったことだろうと思う。それは、一般化できることではなく、物言う人の霊のありようの反映なのだ、と言われてしまえば、ああ、それは確かにそうなのかもしれないと思わされてしまった。つまり、自分にまたもや戻って来てしまうのだった。
◆だから、僕のような凡人は心機一転、新たな世界に飛び込むというようなことは許されなかった。気が付けば、この地上でのやらなければいけない多くの宿題が残された居たのだから。
*****************************
われわれは過ちを重ねることによってのみ真理に到達するものなのである。 「評論集」(20A,354:ドストエフスキー) ・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます