marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その5)僕らが100%必ず行くところ。陰府(よみ)の国。

2024-02-13 22:20:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 僕の話は暗い話ばかり。といっても実はそうではない。僕らが知らないだけで、知らないこと、なおかつ、不思議なことは僕らが勝手に怖いことや暗いことだと思って、退けているだけなのだと思う。僕らが日常、明るく生きていているように明るい話でもあるのですがね。

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それで、寒い季節に結局、暗い話じゃん、と思われることから始める。冬なのに・・・。

皆さんが知っているけれども、お寺さんの住職も公には決して話さないこと。それは『輪廻転生』のことである。お寺さんは、どなたでも僧侶の勉強の時、学ぶことではある。みんなは、なんとなくそれを感じる。毎日、お仏壇にお水をあげ、お経を読まれ、時期が来れば法要を行い、お盆やお彼岸にはお墓参りなどをする。

それは亡くなった方が、生きて残された人が今生で功徳を積むことによって、次のより良い世界へいけるようにすること。そして亡くなくなったら自分も!。仏教には六道というのがあって、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄をぐるぐる生まれ変わる。それで、それを抜け出す涅槃の世界へ行くことが願いとされる。坊さんたちは、一応、このことを学ぶ。

僕は知りたかった。次の世界のこと。そして僕は誰になるんだろうか、ということ。

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『輪廻転生』のこと。まじめに考えて、本当にそうなんだろうか? 例え、そうだとしても、もっと本当のことを知りたいとは思わないのだろうか? 終活近くになって真摯に思ってみると僕らは夜も眠れないのではないか。僕らは必ず死ぬんだよ!次の世界はどこの何に生まれ変わるというのだろうな。死んでからうろうろするのは嫌だな。冷たい墓の中で!!

それで、いちおう、よみ(タイプを打つと『黄泉』と出てくるけど、キリスト教では『陰府』と漢字になる)の世界へ行って、そこでは肉体は亡くなってはいるが、霊として眠ったり、あるいは今生で目には見えないが、現存していて、誕生寸前の赤子にインカーネーションしたり、あるいは現生の肉体の人に作用して、次の世界を生きるらしいことは推論できそう。その世界では、できる限り前の生よりは精進して次元の高い霊に、あるいは不埒なひとに入り込みもっと悪さをして現生の人に復讐を果たすとか、する。

仏教では、前に述べたように、六道状態をぐるぐる生まれ変わって、その人(肉体)にあった霊の状態になるらしい。キリスト教では、キリストを知らない人を最悪、天地創造の時、唯一の創造主に手伝った天使の長が、創造された人を俺も支配したいと思い上がり、地上に落とされ堕天使(悪魔)となって、地上の人を自分の味方につけるべく、猛烈に活動しているとされる。地上の肉なる自己も、他者の人命を破壊させるべく猛烈に働く。

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『よみ』の世界では、どうも殆どの人は安らかに眠っているようだが、中でも動いていて生前に実現できなかったことを生まれ変わって、新生児にあるいは、時を見つけて霊がインカーネーションして、次の世界で自己事後実現しようと復帰して生まれ変わる霊が多くあるようだね。したがって、霊は今生の人がエッチな思いをもつと、見えないけれどその浮遊霊は、そのひとの周囲をうろうろして、生殖行為時に適度な、再生可能であろう肉体に入り込むらしい。

そのインカーネーションは、殆どは新生児にそのことが起こるが、肉体その弱さがあると、成長時や大人になってからも、ちょい借り入れという感じで、浮遊する霊がいたずら?し、つまりこれは不完全な霊が実に多いのだけれど、その人間を不幸のほうに引きずり込むことをするらしい。人は自己との戦いをして生きていく。

悪い霊の究極は、気分落ち込みという自己否定の自殺である。あるいは、生まれた来た自己実現したかった肉体に入った霊と、その自己否定する霊の格闘がおこり、つまりそのギャップに腹を立て、自分の肉体にけじめをつけてしまう(自殺する)ことも起こる。若い方々よ、決して自ら命を絶ってはいけない!

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『みだらな思いを持つな』とはどの宗教でもいわれること。それは、現生に帰りたいと願う浮遊する霊も、同じ思いで低級な霊を引き付けやすいからであると思われる。先にのべたあらゆる浮遊する霊がうろついているので、我先によくも悪しくも、むしろ悪しき霊が闘争し一般に勝つことが多い。したがって、その時にインカーネーションした霊は、次の世代に今生で肉体との様々な闘いを起こす。それが、僕らが目にする人間のドラマである。

先の霊が、障害を起こして何らかの霊の障害を生きている世界に知らずに残骸というべきもの残しているばあい。次の世代はその生涯を回復する努力を背負わされるか、その生活に戦い起こる。結婚生活で不幸が起こる原因ともなる。ここでいう不幸とは善悪の判断ではなく、様々な結婚生活に起こる苦労やその産まないという生殖活動や、まったく放棄が生ずる。否定的な意味ではなく、その人の考えによって意志的にとい場合もあるということ。異性を断ち切る。子供をつくらない傾向となるなど。

キリストは言う。私は見えなくなるが、聖霊をあなたがに遣わす。それに聞きなさい。いつも、繋がっていなさい、と。

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したがって、どの宗教でも結婚は、命を産むという生殖活動に神聖さを求める。それは、霊の媒体でもある次なる肉体を産む行為でもあるからである。であるから肉体としてDNAと、それを引き継ぐ霊の関係は、キリスト教では非常に重要な点でもある。『結婚は神の偉大な奥義である』と言われる。神の似姿に人が誕生し、初めて地上の人間界のドラマが起こるからである。そもそも、人が居なければ(役者がそろわなければ、シナリオがあってもドラマにならない)。

地上の悪魔は、ドラマの時間があまりないことを知り始めたので、人の殺害に多大な勢力を傾き始めた。とすれば、僕らはますます、次の世界でどうなるか知っておく必要があるのではないだろうか? 『罪』とは、人のドラマの為の壮大な神のシナリオの筋書きから、個々の人の仕組みシステムから、外れてくることを言うのである。普段、『的外れ』と言われる。

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第一にキリスト自体と会話することは、非常に難しいと思われている。キリスト教というと、すぐさま、その歴史や解説書や難しい本から思考の補強をしようと務める。何故なら、読んでも分からないからである。しかし、究極は、生きているキリスト、自分に語る生きているキリストと語り合うことが最終と到達点である。何もいらない。次元が異なるだけだ。

そのまま読んでもさっぱりわからない。それで我々はそこですでに障害が発生する。おまけに、我らは『罪びと』と呼ばれる。昔は、道徳的意味合いが解説書では多かったが、『罪びと』とは『的外れ』と言われる。先に述べた通り万物創造の神の摂理、シナリオから外れている、ことをいうとのことである。

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さて、ここまで書いてもおいおい、なんだよそれはで面白くない。宗教談義か? 実にキリストと語ることは、難しいようで簡単で、でも難しい。これを書くととりとめもない。教会にいってまず、説教をききつづけてくだい、と。これが語られるのは、難しいようで簡単で、でも難しいと思われるからだ。

何故なら、私は私であり、誰彼にはなれない、とうこと。それで、生きているキリストを一般化して具体的に語ることは、無理ということ。それぞれの人に語るからである。様々な解説書や、証集(信者になった人のイエスとの出会いの語り)などは、山ほどあるけれど、それらは参考になり励ましを受けるだろうが、それらは参考であって、中にはおいおいというのもあるだろうが、結局は聖書を自分の言葉でよみ、生きているキリストと今、同期するということらしくある

『信仰問答』というものもある。『ハイデルベルグ信仰問答』とか。けれど、信者への確認としてはいいでしょうが、普段の人は、へぇ~こんなの信じているのかとさっぱりPINとこないものだろう。

最低限、どういう神の独り子を信じているのか、という『使徒信条』(教会では礼拝のたびごとに唱える所もある)は、一般化されたもので共有化される言葉である。

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それで、キリストを信じるとは、実は、像があるような思考や物的対象や観念としての対象となる思考を信じることではないのである。今を生きているキリストとの会話である。つまるところ、普段の私の基点(本来に芯の自分)に戻ってくるのである。それでは、もとにもどってキリストなんて信じなくてもいいじゃん、とは、実はならない。

それは、独りの人格者、完全なる(神から遣わされた人)との会話が行われるからである。聖書を自分の言葉で読む、ということが必要となる。人格者と私という人格との会話となる。したがって、観念という哲学やイデオロギーではない。人(神)と私(人)の最終、会話である。ここから、人格や人権が生まれてくるというのである。論文も沢山ある。

ここで、自分の生まれつきのままのすべてが理解されてくるように思われて来る。人には別に語らんでもいい欠点。対話を重ねることにより、内なる自己の矯正が始まる。モチベーションが高まると言う具合である。そうすると、「人間だもの(あいだゆうじ)」のように、本来、他者も生まれて来た人間で完ぺきではない、ということが理解されて来る。相手の欠点が見えてくるということである。

よって、「人を裁いてはいけない。その裁きの思いで自らが裁かれるであろう」ということばも理解されてくる、とう訳である。ただ、何に基づいているかが問われる。自由と許容の中には、また、実に多くの悪魔の手下が入り込むのは、理解されてくるだろうなぁ。独裁は、これを上から抑え統一整理しようと目録が、民主主義といえども、そのように何に実はもとづいているかによって(自己抑制、向上、理解)、自由という言葉は、実に障害のある言葉ともなっているのである。

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全知全能と言われる神の独り子であるキリストは、陰府(よみ)に行かれたというのである。不思議なことに、聖書には陰府(よみ)のことが書かれているのである。理解できないから教会では決して語られないことなのだが??。僕らは、実はその世界からの語り掛けであることを知らなければいけない。(ここで次元のことと言っているのである。今、僕らをとりまく見えない次元のことだ)。

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『使徒信条』 

我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、かしこより来りて、生きる者と死ねる者とを審(さば)き給わん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。 アーメン

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