marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(450回目)バルフォア宣言から100年、世界は”わたしが主であること”を知るようになったのか(『過越の祭』米谷みよ子を読む)

2017-11-05 08:48:45 | 日記
 2017年11月2日は、バルフォア宣言からちょうど100年目に当たる(記事は地方紙にも掲載された)。この宣言は今も起こっているあの領域での紛争混乱の基でもあったように思われる。1917年、イギリスの外相バルフォアがユダヤ系の英国上院議員ロスチャイルドに宛てユダヤ人国家建設運動「シオニズム」を指示した書簡を出した。いわば、英国の二枚舌、三枚舌外交である。英国はそのとき、片やオスマン帝国内のアラブ人に国家独立を約束し、フランスなどとは帝国分割で秘密裏に合意していたのだから。ユダヤ人は、旧約聖書にあるように彼らの神は再びかの地に呼び集めると何度も預言していたのだからそれは悲願であったのだが。・・・実際、1948年あの地にイスラエル国家が成立した。預言は成就された? と考える人がとても多くいる。
◆知る人ぞ知るピーター・オトゥール主演の「アラビアのロレンス」これは、アラブ人に独立国家を創設を促す役目を負わされた英国情報部将校(・・・推定するに何してたのか分かるでしょ。でも、本人は純粋にその使命を考えていたところがキモのよう・・・)の話であった(この映画音楽もよかったなぁ)。これは第一次世界大戦のこと。それから「砂漠のライオン」という映画、僕の好きな役者アンソニー・クイーンが主演したリビア独立の父と言われた実在した人物、オマール・ムフタールという人の映画だった。(アンニー・クイーンはイタリア映画「道」が忘れられないし、「その男ゾルバ」、「セント・ビットりアの秘密」とか「ナザレのイエス」では大祭司カヤパを演じてたなぁ)。
◆ニュースに戻ると、パレスチナ紛争の引き金を引いたとも言えるバルフォア宣言を祝う動きを当然ながらパレスチナ自治政府は批判し、アッバス議長が英国に謝罪とパレスチナ国家の承認を要求しているが、英国側はこれを拒否しているとか。どうして、彼らは世界をいらだたせるのだろう。この苛立ちは、平和ボケして無知になるより、わたしが主であることを世界に知らしめるためのものなのだろうか。彼らすべてを十把一絡げにしてはいけないが、世界の動きに何らかの苛立ちをもたらし、それが全世界に”わたしが主であることを知れ”と覚醒を促しているものなのだろうか。英国メイ首相は、イスラエル国家の樹立に英国が名誉ある役割を果たしたと言うと同時にイスラエルはパレスチナへの入植問題にイスラエル側は紛争を回避する努力が必要だと言ったとか。
◆イスラム国しかり、基をたどれば、彼らの信じている神も同じ(旧約)聖書の神なのである。さらには、モーセが書いたのはわたしのことであると言ったイエスの父なる神と同じものなのであるとすれば・・・・。ここには人の良心、常識判断を甚だしく拒むものがありそうだ。いずれ、それらのすべての「何故」に対して、神が自分の似姿に創造せし「人」が、自らの言葉によって神と対話をしその謎を解明しようと努めてきた文化が世界に伝搬していった善い意味でのみのその歴史はそのように見える。
◆しかし・・・・時代は進み神の命のことばは、世界に伝搬し、そして終わりがくると預言されているように、そのような兆しも見え始めてるのが昨今の世界の動きのように思えてしまう。今や、神の言葉は世界に流布された、「地球の上の人類よ、汝自身を知れ!、そして”わたしが主であると知れ”!」 と語っているように思われてならない。・・・ Ω 
 

世界のベストセラーを読む(449回目)真理はわれらを本当に自由にするのか?僕ら異邦人が奇異に感じるイエスの言葉(『過越の祭』米谷みよ子を読む)

2017-11-04 01:37:15 | 日記
 昨日は文化の日。71年前 日本国憲法の産みの親と言われる金森徳次郎が初代館長を努めた国立国会図書館には「真理はわれらを自由にする」と刻まれた石碑があるそうだ。これは昨日の朝のNHKニュース。447回の表題に「真理はあなた方を自由にする」(引用は下記)と書いたが、僕らは人の言葉での真理が如何に言葉だけでは真実としてならしめるに実に不確定なものであるかを特にこの国を考えればその困難を実感させられるように思わされるのである。今の政治を見ても・・・。寄らば大樹の陰、勝てば官軍というような言葉もある・・・。死んで花実が咲くものかという言葉もあれば、過去には死んで靖国で会おうと散華した多くの若人達がいたのでした。僕の住んでいる近くにも神社の石塔に並び軍国の母という方を称える大きな石碑がある。この国でこのような歴史から何を学ぶか。真の歴史を教えられていないところもかなりあるけれど・・・。
◆何を言いたいのか、この国は情緒面が強くて言葉にする以前に心情的に目的を解消させてしまうところがあるのではないだろうか。曰く、勝算が無くてもとにかく手段を人的に精一杯根詰めて尽くしたのだから、あとは天命を待つと言う具合に・・・。第二次大戦開始に天皇に東条英機が涙を流して開戦の決断を申し述べたそうだ。結局、心情的な決断は、今では間違いであるということだ。勝たない闘いはするべきではない、というのが原則である。人の世界は人が結局、処置し結果を出す処まで算段しないと、つまり責任とらないといけないのだというのがキリスト教という宗教からの考えなのである。手っ取り早く言えば、勝算があるように考え算段し、実行せよ、が大前提なのである。さて、長々と書いたのは・・・
◆イバンカさんが来日。どうして、キリスト教国で、夫がユダヤ教とは言え、彼女はユダヤ教に改宗したのかなのだが、彼らの旧約聖書の古くさいと思われても今も行われているその儀式は地上が滅び去るまで(彼らの神が再び現れるまで)続けられるだろうと言うことだ。彼らが体験したきた歴史から、僕らがとても言葉でもって総括するような考えは出てこないその筆舌に尽くしがたい彼らの民族としての体験が(肉体に傷を負ったその体験が)儀式を守り通してきたキモであると言えるのだ。キリストが誕生しそれは今や全世界の異邦人にも及ぶことになったということです。キリストが十字架に掛かるのはまさに過越の祭のときであったのだから・・・。
◆人という生き物は、頭でこうだと決めたところで、決してそれを守り切れるものではないし(だからといって何もしないという訳ではないが)心情として生ききれるものではないと思うわけだ。だが、彼らは違う。旧約のその内容と言えば、彼らは殆ど神の戒めを守れず叱責を神から受けている、そういう歴史がてんこ盛りに書かれているのが聖書であり、身近な対戦に於いても多くの理不尽な残酷な殺され方をしてきたのであった。
◆昨年からのブログでヨハネによる福音書を読んできた。それは、今年がマルチン・ルターの宗教改革から500年の年で(先月2017年10月31日はルターが今から500年前に95ヶ条の質問状を掲げ宗教改革の火ぶたが切って落とされた)、彼は聖書を読むのであればヨハネ伝を読みなさいと勧めているのであった。何度、書いてもいいのですが、これは毎日でも読まれるといい、大きな慰めとなるし奇跡と言われることも何ら不思議なことではなくすべて事実であったということが理解されてくるだろうと思う。
◆ヨハネによる福音書第8章31節~32節に次のようなイエスの言葉があり、キリスト者の間でも好まれる言葉なのですね。
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(8:31) イエスは自分を信じたユダヤ人達に言われた、『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当にわたしの弟子(でし)なのである。(8:32)また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」。
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◆彼らが、モーセの教えを今も守り、そして、イエスは「モーセはわたし(イエス)について書いたのである」(ヨハネ伝5:46)と語ったその言葉に、僕ら異邦人が聞くと奇異に聞こえる「救いはユダヤ人から来るからである」(ヨハネ伝4:22)という言葉がしっかりあることを僕らは忘れてはいけないのだと思うのである。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(448回目)そのとき彼らはわたしが主であることを知るようになる(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-11-03 08:22:25 | 日記
 掲題の言葉は、旧約聖書エゼキエル書によく出くる神の言葉である。紛争が起こり困難な状況に陥り、その現状を体験させ、神は生きており歴史を動かしていることをその中からイスラエルに知らしめるとの預言の神託である。446回目に、世界に苛立ちを起こすのも彼らは選民(神の)だからなのか、と表題に書いた。紀元前の話の「過越の祭」が今も彼らは世界で行われているように、彼らの神は生きて働いて世界の人々にその存在を知らしめているように思える。・・・で、今朝(2017年11月2日)のNHKのニュース  
◆イスラム原理主義ハマスが「ガザ」地区の境界管理権限の返還を行ったと世界の出来事。ところでどうして地球の裏側のニュースが流れて来るのだろう。僕は「ガザ」という地名を聞くと、旧約聖書 士師記のサムソンとデリラの話を思い出してしまう。そして、先に述べた神は生きて働かれているのであろうと思ってしまうのである。このニュースは、主(神)のご計画の中に有りと言えるのだろうか。(以下 後半で)
◆掲題の小説は第94回芥川賞受賞作でもある。人は憤懣やるかたない出来事に対して、それが物事を考える起爆剤のようにもなるものであるが、対象が悪かったのか、神の戒め事項に肉の思いが引きずられて、結婚してしまったが故の試練なのか、あるいは又、このような形であっても大衆に周知されて、神の民と言われるユダヤ人の地球が終わるまで続けられるであろう儀式に関心を注がせようとされたのかは判らないが小説の中で語られたごとくには決して古くさくはなく、すべて(書くときりが無くなるが)その儀式から始まっていると言っても過言ではないように僕には思われるのである。ひいては、肉体からの離脱、永遠の命への・・・。
◆キリスト「教」などという宗教の範疇に入る枠をすでの越えてしまって、我々は神から離れてしまっているので、その罪と言われる「的はずれ」(これは今風に言えば、神の霊(聖霊)にリンクし生きるためのその厳粛な霊的システムからの逸脱)からの拡散と消滅、エントロピーの拡散消滅を防ぐ錨ともなっているのがその儀式であると僕は思うのである。(新約になり、それはキリストの十字架であり信徒の聖餐である。)
◆それを具現化して現れたのが、イエス・キリストであると僕は思うのである。言葉では収まりきれないもの。それは、人が言葉で捉えてしまったときは、すでに朽ちゆく人の言葉に還元されている訳だから、その時点で霊的真理は消えていっているものである。人の言葉など本当に細やかなものなのだ。 ****** (ルカによる福音書第24章30~32節参照 エマオの途上の落胆する二人の弟子に甦ったイエスが出会う話で僕はこの場面が好きである )
◆さて、今も行われている儀式、小説のその内容、そしてユダヤ人の夫の親族が結婚に反対だったという理由がここにも書かれている
(旧約聖書 士師記第14章1節~ ) 
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1:サムソンはティムナに下って行ったが、そのティムナの一人の女、ペリシテ人の娘に目を引かれた。2:彼は父母のところに行って、「ティムナで、一人の女、ペリシテ人の娘に目を引かれました。どうか彼女をわたしの妻に迎えてください」と言った。3:父母は言った。「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人(異邦人:コメントは僕)の中から妻を迎えようとは。」だがサムソンは父に、「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです」と願った。4:父母はこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士師記第14章1節~4節)
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◆イスラエルの士師怪力サムソンは、女に弱かったが、その試練と共に彼らしい最後を華々しく遂げる(映画にもなった)。イスラエルとペリシテが歴史上に「ガザ」という土地で世界史上、繰り広げられるのはこのときの主の御計画から続いているのである(士師記13章5節)。ちなみに「パレスチナ」という言葉は「ペリシテ」が語源となっているのです。 ・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(447回目)真理はあなた方を自由にする(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-11-02 07:49:09 | 日記
  永遠の命への脱出と前進 これがこのブログのサブ・テーマ。そして、世界のベストセラーは『聖書』でした。実のところ、その永遠の命への脱出は、この「過越の祭」に大いに関係するものなのです。エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの、そしてそれに賛同する多くの人々が自由を求めてモーセに先導されそこから脱出をするのですから・・・・。これが、その永遠の命への脱出に繋がっています。
《旧約聖書、出エジプト記から》
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21:モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。22:そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。23:主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
24:あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。25:また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ってとき、この儀式を守らねばならない。26:また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27:こう答えなさい。「これが主の犠牲の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。 (旧約聖書、出エジプト記12章21~27節 を読みます。新共同訳 〔p112~〕)
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◆ここでの過越の犠牲が、新約になり神が備えられた独り子イエスになり、地上の信ずるすべての人の永遠の命への犠牲となって十字架に掛けられ血を流された・・・そのように考えられ、それを信じるのがキリスト者ということなのです。「死」が通り過ぎたように、そのイエスを信じた人は、地上での肉体の死は経験するが、霊の体として再び、甦り永遠に生きるのであるということになるのです。
◆「真理はあなたがたを自由にする」このイエスの言葉は、地上の自分自身の自らの力ではいかんともしがたい負の部分のしがらみからも解放され、キリスト・イエスを着ることによって真の本来の自分自身、新しい人間となって、心からの自由になり永遠に生きることを意味しているのです。・・・ Ω