前回の文章は生成AIを利用したものだった。そこに書かれていることは現在の教育において重要な問題をはらんでいる。
探究活動として生徒たちの協力によって問題を解決する授業がさかんに行われている。その理念はとてもすばらしい。そのことについて批判する人は間違っている。しかし問題は探究するための知識が備わっていない生徒がそのような答えのない問いに対していくら討論しても解決の道筋なんか見つかるはずがないということなのである。
知識偏重の教育に対する批判はもっともである。かつて受験戦争と呼ばれていた時代、社会の用語集をすべて覚えるような勉強を強いられた。そんな勉強が意味がないのは明らかであったのだが、多くの受験生がそれをしてしまっていた。そこから抜け出して、考える力を育てなくてはならないのは当然である。
しかし、考える力とは何なのか。現実には考える道具、つまりある程度の知識がなければ考えることなどできないはずである。知識偏重はいけないのはあきらかだが、かといって知識がない人間は考えることなどできやしない。
確かに超天才もいる。小学生のころから数学が高校生以上できるこどももいるようである。そういう子供は、知識はそれほどなく数学を理解しているのであろう。しかしそれは数学と言う特殊な世界の中だけで通用するのである。特殊な能力を持っている人は例外として、それ以外の人間は、やはり、現実への対応としてある程度の知識が必要であり、その知識を活用する能力を育てなくてはならないはずだ。
いま学校教育で行われている総合的な探究の時間はそうなっているだろうか。断言してもいい。決してなっていない。出世したい教師のパフォーマンスか、やる気のない教師のネット丸投げのいずれかになってしまっているのである。こういう結果に陥ってしまったのは、文部科学省の無能さのあらわれである。
『御上先生』も文部科学省を批判するならば、もっと現代の教育を掘り下げて批判してほしかった。いつも文科省は勘違いしかしないのだ。文科省も出世したい人たちのパフォーマンスだらけなのかもしれない。