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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『セプテンバー5』を見ました。

2025-04-13 16:09:04 | 映画
映画『セプテンバー5』を見ました。歴史的事件を題材に人間の在り方を問う、すばらしい映画でした。

1972年のミュンヘンオリンピック開催中の9月5日に発生した、パレスチナ武装組織によるイスラエル選手団の選手村襲撃事件を、それを取材したテレビ局の視点から描いた作品です。この時私は小学生でした。かすかに記憶しているのですが、実は今迄、これがそれほどの大事件だったのだという認識もないままでいたのです。恥ずかしいことです。

パレスチナとイスラエルの対立はイスラエル建国以来ずっと続いており、今日のガザの問題にまで発展しています。お互いの引けない事情の一つになっている大事件だったのです。さらに忘れてはいけないことは、当時はまだドイツは東西に分かれていたということです。ドイツは統一して一時的に平和は訪れましたが、近年ロシアのウクライナ侵攻によって、ロシアとEUの対立は明確に表面化しています。そして背景として、、要だと思われるのはことはドイツはヒトラーの国であり、ユダヤ人を虐殺した国であるということです。ひとつひとつの歴史的な出来事が、今に向って複雑に進行してきたことが改めて認識させられます。

この映画の一番の見所は、テレビ番組制作者の倫理です。この映画では、事実の確定ができないまま、一部の情報をもとに報道がなされてしまいます。そこでの葛藤がよく伝わってきます。例えば、選挙報道番組などで、当確をいち早くだそうとテレビ局は必死になります。私は、すでに投票が終わってしまっているので、そんなに焦らなくていいのにといつも思うのですが、なぜかテレビ局は急いで当確をだそうとします。そしていくつかのミスが生じています。どうしてもそこに功名心が生じてしまうのです。その人間の弱さが見事に描かれています。そしてその弱さを戒めつつも、その弱さに現れる人間らしさに寄り添う気持ちもうまれてしまうのです。そこにこの映画の魅力があります。

弱いからこそ人間である。しかしその弱さを克服できる人間であらねばならない。とても強いメッセージを持つ映画のように感じました。
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万博は時代遅れ

2025-04-12 07:46:18 | 社会
 大阪万博が始まる。足引っ張りと感じられる報道もあるので、関係者に同情する部分もある。しかし、そもそも今の時代に万博は時代遅れのように感じられる。

 1970年の万博の時を憶えている。私は山形県に住む小学生で、行かなかったのだが、友達が何人かが行って話をしていた。それがどうもとてもうらやましかった。あの時は「万博」という言葉自体が、すでに輝いてゐた。中身はともかく、「万博」に行ったという事実だけでみんながうれしかったのである。

 今はどうであろうか。生きたところはたくさんある。若い世代はTDRやUSJに行きたいと思うだろうし、年配の世代は、まだ行っていない観光地や、自分の興味に即した土地に行ってみたいはずだ。言ってみたいところだらけであり、「万博」は上位には入ってこない人がほとんどであろう。ドジャースとカブスが来日して試合を行ったが、そっちのほうが日本人にとっては大きなイベントだった。それ以上に万博はなることはできない。もう時代が違うのである。

 大阪万博は博覧会であり、中身がよければ人は集まる。中身がよくなければ人は来ない。もっと中身を紹介してほしい。それだけのことであり、主催者側も報道する側のはったり合戦になってしまってはいけない。
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映画『教皇選挙』見ました。

2025-04-10 16:47:04 | 映画
アカデミー賞で脚色賞を獲得した『教皇選挙』見ました。ローマ教皇を決める選挙という難しい話なのかと思っていたら、エンターテイメント映画といっていい、最後まで飽きさせない映画でした。

カトリック教会のトップのローマ教皇が、心臓発作のため突如として急死してしまいます。しかし何かが怪しい。ローマ教皇庁首席枢機卿を務めるトマス・ローレンス枢機卿は枢機卿団を招集し、次の教皇選挙を執行します。

口ではいろいろいいながら、だれもが教皇になりたいようです。口にすることと心の中の違いが描き出され、それが醜い人間の姿として現れて行きます。そしてその過程でかつての不正が表面化していきます。その過程がよく描かれており、宗教の胡散臭さも描かれます。

結末は、いわゆる意外な結末なのですが、ただしその結末が私にはどうもひっかかります。この映画は多様性の大切さを訴えるのですが、この映画の結末は最近の映画やドラマの定番におちついているような気がするのです。多様性という名のステレオタイプに陥っているように感じてしまうのです。

とはいえ、全体としては非常に楽しめる作品です。宗教の重要性と、なぜ人々が宗教を大切にするのか、一方では現代における宗教の意義について考えさせられる映画です。
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文部科学省の理念は現実にはうまくいかない

2025-04-06 17:57:31 | 高校国語改革
前回の文章は生成AIを利用したものだった。そこに書かれていることは現在の教育において重要な問題をはらんでいる。

探究活動として生徒たちの協力によって問題を解決する授業がさかんに行われている。その理念はとてもすばらしい。そのことについて批判する人は間違っている。しかし問題は探究するための知識が備わっていない生徒がそのような答えのない問いに対していくら討論しても解決の道筋なんか見つかるはずがないということなのである。

知識偏重の教育に対する批判はもっともである。かつて受験戦争と呼ばれていた時代、社会の用語集をすべて覚えるような勉強を強いられた。そんな勉強が意味がないのは明らかであったのだが、多くの受験生がそれをしてしまっていた。そこから抜け出して、考える力を育てなくてはならないのは当然である。

しかし、考える力とは何なのか。現実には考える道具、つまりある程度の知識がなければ考えることなどできないはずである。知識偏重はいけないのはあきらかだが、かといって知識がない人間は考えることなどできやしない。

確かに超天才もいる。小学生のころから数学が高校生以上できるこどももいるようである。そういう子供は、知識はそれほどなく数学を理解しているのであろう。しかしそれは数学と言う特殊な世界の中だけで通用するのである。特殊な能力を持っている人は例外として、それ以外の人間は、やはり、現実への対応としてある程度の知識が必要であり、その知識を活用する能力を育てなくてはならないはずだ。

いま学校教育で行われている総合的な探究の時間はそうなっているだろうか。断言してもいい。決してなっていない。出世したい教師のパフォーマンスか、やる気のない教師のネット丸投げのいずれかになってしまっているのである。こういう結果に陥ってしまったのは、文部科学省の無能さのあらわれである。

『御上先生』も文部科学省を批判するならば、もっと現代の教育を掘り下げて批判してほしかった。いつも文科省は勘違いしかしないのだ。文科省も出世したい人たちのパフォーマンスだらけなのかもしれない。
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学校教育における「答えのない問い」の意義

2025-04-05 15:01:54 | 高校国語改革
近年の学校教育の現場では、「答えのない問い」を中心とした探究活動や討論が重要な役割を果たしています。これらの活動は、生徒が自ら問題を見つけ、解決策を模索する力を育むことを目的としています。具体的には、生徒は様々な視点から問題を考え、多角的なアプローチを試みることで、柔軟な思考力と深い理解を得ることができます。

探究活動は生徒が自主的に課題に取り組み、情報を収集し、分析する過程を重視します。この過程において、生徒は以下のような能力を養います:
  • 批判的思考力: 問題を多角的に考え、疑問を持つ力。
  • 創造力: 新しい解決策を考え出す力。
  • 問題解決能力: 効果的な方法で問題に取り組む力。
また、探究活動を通じて、生徒は自分自身の興味や関心を深めることができ、一人ひとりが主体的に学ぶ姿勢を築くことができます。

その探究活動において重要なのは討論です。討論は、生徒同士が意見を交換し、互いの考えを深める場です。討論によって得られる主な効果は以下の通りです:
  • コミュニケーション能力: 意見を明確に伝え、他者の意見を理解する力。
  • 協調性: 他者との協力を通じて、一緒に問題を解決する力。
  • 論理的思考力: 根拠をもとに意見を構築し、論理的に説明する力。
討論の場では、多様な視点から問題を考えることが求められ、意見の違いを尊重しながら解決策を導く力が育まれます。

しかし、現代の子供たちは答えをネットに求めてしまう傾向が強く、その結果、探究活動や討論がうまく機能していないことが多いのです。インターネット上には膨大な情報が存在し、簡単に答えを得ることができるため、自分で考える力が養われにくくなっています。
ネット検索による情報収集は、一見効率的に見えますが、以下のような問題点が存在します。

「答えのない問い」に対する探究活動や討論は、学校教育において非常に重要な役割を果たしています。これらの活動を通じて、生徒は自分で考え、問題を解決する力を養うことができます。しかし、インターネットの普及により答えを簡単に得ることができる状況では、自らの探究心を育むことが難しくなっています。教育現場では、これらの課題に対処し、子供たちが自ら考える力を養うための取り組みが求められています。

以上は生成AIを使って作った文章です。

この程度のことが1分で書けてしまう時代に教育は何ができるのでしょうか。そこの議論こそが重要なのではないかと考えます。

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