東京書籍の『精選現代文B』の冒頭に小林康夫氏の「世界をつくり替えるために」という教材がある。この教材を「クリティカル」に読む。2回目
この教材の一番のポイントは「第二段落」の形式段落④の部分だ。
引用する。
鳥は、本当に自由なのだろうか。私はそうではないと思う。鳥はいわば空の中に閉じ込められている。魚も同様で、水の中に閉じ込められている。鳥は空を「空」とは呼ばず、魚も水を「水」と名付けることはない。人間がするようには自分の住む世界を対象として捉えることがないからだ。人間は言葉を用い、空を「空」と呼び、海を「海」と名付けた。いわば世界と自分をはっきりと分けて認識している。その意味で人間は、世界に閉じ込められてはいない。言い換えれば人間は、鳥や魚と同じような意味では「自然(=世界)」の中に生きていない。恐らくこのことが、人間、とりわけ若い皆さんが世界と自分との間にズレを感じる理由だ。
人間は若い時に、孤独感や違和感、あるいは世界との「宿命的なズレ」を感じる。筆者はその原因は「人間が自分の住む世界を対象としてとらえるから」だと言う。この「世界を対象としてとらえる」とはどういうことか。
鳥にとっては「自分が空を飛んでいる」という認識はない。何の認識がないまま生きているだけである。それを人間が「鳥が空を飛んでいる」と認識しているだけである。人間は「鳥」や「空」を対象化し、認識しているのだ。
人間は自分自身の住む世界も対象化し、そして自分自身をも対象化する。自分を対象化した人間にとって、「自分」は特別な存在である。人間は「自分」を大切にして、自分にとってよりよい世界を望むようになる。必然的に現在の世界が理想とは程遠いものとなる。そのために「孤独感」、「違和感」、「宿命的なズレ」を感じるようになるのである。
さて、人間が物事を対象化するために必要なものは何か。それは言葉である。言葉を物事に与えたことによって、それが対象化されるのだ。つまり人間は言葉の発明によって、物事を対象化することになり、それによって「孤独感」、「違和感」、「宿命的なズレ」を感じるようになるのである。つまり、言葉を使う人間が世界とのズレによって苦しむのは必然なのだ。
つづく