世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

タイのピーターコーン祭りで考えた

2024-06-19 08:29:58 | タイ王国

ピーターコーン祭りが何時から始まったのかを知らないが、今年も7月7日から9日の予定で、ルーイ県ダンサーイ郡で催行されると云う。ピーターコーンとは、ピー:精霊、ター:目、コーン:仮面であり、精霊の仮面祭りということになる。その仮面は””を強調したものである。

タイ政府観光庁HPより転載

タイ政府観光庁のHPによれば、釈迦の前世であるヴェッサンタラ王子が、山から都へ戻る際に、別れを惜しんだ森の獣や精霊たちが、後について行ったというジャータカ(本生譚)に基づき、収穫前の雨乞いや厄払いの目的があるという。つまりは豊穣祈願祭である。

東南アジアや日本を含む東アジアでは、古来仮面を被ることは、被る本人の人間性が消えて、別のシンボリックな存在になるという。ピーターコーン祭りで、仮面を被ることにより精霊や神になることを意味する。

この種の仮面は、日本の弥生時代にも存在していたようだ。奈良・纏向遺跡から木製仮面が出土している。岡山・新庄尾上遺跡からは鳥装の巫者を線刻した絵画土器片が出土している。古来、仮面を被って登場するのは来訪神で、民族のトーテム信仰を思わせるものがあり、鳥が始祖神として来訪する民族もある。

纏向遺跡出土仮面(レプリカ)

新庄尾上遺跡出土土器片

弥生人も仮面を被り、異形の神(精霊)に扮して悪霊や穢れを払い豊穣を願ったのである。

このような風習は現在でも継承されている。中国貴州省のミャオ(苗)族は、マンガオと呼ぶ来訪神の祭りを行っていると云う。それは写真のような仮面を被っている。

ミャオ族の来訪神・マンガオ 荻原秀三郎著「神樹」より

同様に我が日本でも南海の悪石島のボゼ祭りに、ボゼとして盆の最後に登場する来訪神がいる。やはり悪霊や穢れを払い、祭りが終わるとボゼの仮面は邪気とともに土に還るとのことである。

ボゼ 鹿児島県観光サイトより

ピーターコーンもやはり来訪神で精霊であったものが、仏教国ルーイ県でジャータカと習合したものと考えている。

<了>


二度目の宮崎紀行

2024-06-08 08:33:40 | 旅行

今年二度目の宮崎、その足跡を記しておく。やはり宮崎は南国で、その証のようなものを見た、それは後程紹介するとして、行程順に記すことにする。

関門橋 門司側より写す

向かいは下関 海峡ゆめタワーを望む

霧島 宮崎道霧島SAより

ジャカランダ・南米原産 橘通り

やや見辛いが、南米原産のジャカランダと呼ぶ、紫色の花を咲かせる花木が並んでいる。

ブーゲンビリアに覆われる空港ビル 宮崎空港にて

ホリデーインリゾート青島

青島

鵜戸神宮

祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。宮崎は神武天皇が東征出発の地で天孫族をまつる神社が多い。

皇宮神社

皇宮神社は宮崎神宮の本宮で、社殿は神明造りである。棟持ち柱構造で、弥生時代の棟持ち柱を持つ高床式建物の特徴を引き継いでいる。

以下、生目の杜遊古館展示物2点を紹介する。一つは宮崎特有の埴輪で、円筒埴輪の変形ないしは小型版である。

騎馬民族と思われる馬具や武具、装身具が出土している、その中の金製垂飾付耳飾である。

日南の飫肥城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えた。1572年、伊東義祐と島津義弘が戦った木崎原合戦で、島津義弘の「釣り野伏せ」にて伊東義祐は大敗するが、秀吉の九州平定により島津氏は、日向国の伊東氏旧領を明け渡し、伊東氏は10年越しに復帰することになった。

飫肥城大手門

伊東義祐を引き継いだ祐兵(すけたけ)の鎧兜

帰路は東九州自動車道を北上。途中宇佐から豊後高田へ。昨年訪れた時に週一の休みであった”そば処響”へ。石丸健二郎し兄君経営のソバ店である。

美味であった。ソバは我が出雲と信州、越前がよいが、響きも負けず劣らずであった。

<了>

 

 


前方後円墳は天下布武の象徴?

2024-05-29 08:50:24 | 古代日本

天下布武と云えば信長が思い出されるが、ここでは前方後円墳の形状は、何を物語るか・・・と云うことを記したい。

前方後円墳の墳丘形状は、天円地方説や壷の形状を示しているので、それは壷中の天を表し、桃源郷だとする説まで多彩である(古墳時代の七不思議・其の壱:謎の前方後円墳形状 参照)。しかし墳丘は周濠に囲まれている。

仁徳天皇陵(大仙古墳)周濠を含めると盾に見える

今回は、この周濠を含めた形状を話題にする。その形は盾の姿にほかならない。後世の命名であろうが、盾が並んだ形という意味で盾列(たてなみ)の陵とか、古墳の墳丘上の神社を盾築神社と呼んだりする。周濠を含めた形状は、盾形で盾を伏せたように見える。盾を伏せるとは、戦いをやめるとか終結とかの不戦の意味を持つ。現在でも盾伏舞が奉納されている地区が存在するが、盾伏舞とは戦いをやめる舞で平和舞である。

この盾形状は弥生時代から見ることができそうである。その盾は鳥取・青谷上寺地遺跡や大阪、出雲の弥生遺跡からも出土している。朱色に塗られ上方の両隅が丸みをもち、前方後円墳の周濠の形と同一である。

青谷上寺地遺跡出土・弥生時代の盾

大阪府立弥生文化博物館展示の盾

出雲弥生の森博物館展示の盾

古代の大王や王が、前方後円墳の周囲を盾形にしたのは、その地の征服者として、戦いのない平和な治世を行った証としたと考えられる。いわゆる天下布武の象徴であったと考えるが、如何であろうか。

<了>


オリーブ開花

2024-05-19 08:39:38 | 日記

今年もオリーブが開花した。昨年は100個弱の実が収穫できた。それが初めての収穫であったが、今年はどうなるものかと、やや心配していたものの、蕾は鈴なりである。今年は昨年以上の収穫になるよう期待しているが、炭疽病で収穫に影響がでないようにしたいものである。

天気のよいのが続いているので、一気に開花がすすみそうである。

<了>

 


誕生 隠岐国展                       

2024-05-09 09:10:44 | 古代日本

過日、県立古代出雲歴史博物館にて『誕生 隠岐国展』を観た。隠岐諸島に地域のまとまりが形成されていく6世紀から、対外関係で重視されるようになった9世紀にかけての、隠岐の古代史をテーマに展示されていた。

個人的には有史以降の歴史については興味を持たないが、何故か対馬、壱岐の弥生時代から古墳時代にかけての遺物が、少数ながら展示されていたので、それらを中心に紹介する。

御存知のように『魏志倭人伝』には、対馬国と一大国(一支国・壱岐国)の様子が著述されている。

始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

対馬は方四百ばかりで山険しく深林が多く、道は獣道で約千戸の人家があるも良い田圃がなく、海物を食して自活している。壱岐は方三百ばかりで、竹木叢林が多く三千余戸で、僅かに田地あるも猶食するに足らずとある。つまり両国ともに南北に交易していると記されている。

その対馬国の存在を示す、弥生時代後期(2世紀)の遺物・粟粒文方柱十字型剣把頭飾と古墳時代の遺物が展示されていた。

弥生時代の一大国(壱岐)の存在を示す遺物の展示はなく残念であったが、そこには原の辻遺跡なる集落が存在していた。そこからは人面石や龍の線刻絵画土器等が出土している。一大国の古墳時代の出土品として、新羅土器が展示されていた。それは過去より、見たいモノのひとつであった。

大和王権は新羅とは友好関係になく、出兵さえおこなっている。そのような中で、新羅との交易を示す新羅土器の出土である。壱岐は新羅と大和王権との仲介をしたであろう。

隠岐は対馬や壱岐とは異なり、弥生時代から古墳時代にかけて、半島と直接的な交渉はなかったであろう。隠岐の古墳時代の出土品が展示されていたが、いずれも本土との交易により入手したもので、半島からの渡来を感じさせるモノはなかった。

隠岐の島町飯ノ山横穴墓(古墳時代終期)出土の壁画片は初見で、隠岐にも装飾古墳が存在していたことは驚きであった。

<了>