世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

零戦を見た

2024-11-14 08:19:37 | 日向・薩摩

過日、航空自衛隊鹿屋基地にて零戦を見た。過去、海軍航空隊鹿屋基地より特攻隊が出撃した。

鹿児島県沖2か所から、零戦の残骸が引き上げられ、それを1機に復元されている機体が展示されていた。

張りぼてと思いきや、それなりに頑丈に作られていると思われた。制作当時は世界の最先端をいっているものと思うが、如何せん後が続かなかった。昭和の始めとは云え技術革新は日進月歩であった。零戦に続くのは隼だが、二番煎じの印象はぬぐえない。戦後日本企業は世界の冠たるものがあったが、失われた30年はゼロ戦に続く戦闘機が出現しなかった状況の再来である。この撃墜された状況はいつまで続くのか?

立派な機銃を搭載していた。これもその先の進歩がなかったのである。

<了>


鹿児島・城山ホテルにて

2024-11-05 08:02:14 | 日向・薩摩

過日、鹿児島紀行の際に城山ホテルに宿泊した。過去、城山観光ホテルとの名称にて営業していた記憶がある。どうも2022年3月に全面リニューアルが完成したようで、宿泊当日は新築のように蘇っていた。

城山ホテルHPより

ホテル内はエントランスやロビーに工芸品などが展示されていた。

島津義弘公着用の甲冑(模造)

15代 沈寿官作青磁瓶

15代 沈寿官作薩摩焼瓶

薩摩切子

桜島

鹿児島といえば桜島。朝日を背に雲に覆われ、噴煙を見ることはできなかった。

リニューアルを機会にホテル・オークラグループの一員となったようだ。ホテル・オークラのメンバーズカードが使える。価格はそれなりだが、鹿児島宿泊の際は一推しである。

<了>


栂尾山高山寺

2024-10-24 09:11:06 | 京都

10月半ば栂尾・高山寺へ行ってみた。予想はしていたが紅葉には早すぎ、色づきもしていない。高山寺と云えば鳥獣人物戯画絵巻と紅葉ではあるが・・・。

石水院を眺める 紅葉には早かった

過去、京都は西京区に10年住まいしていたが、高山寺は初めてである。周山街道別名鯖街道を北上する。ヘヤーピンカーブの連続である。

高山寺と云えば、後鳥羽上皇を想い出す。上皇は我が島根県の隠岐の島配流中に崩御された。その後鳥羽上皇の建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽院の院宣により華厳宗の復興道場として中興開山したと伝わる。

写真の「日出先照高山之寺(ひいいでまずてらすこうざんのてら)」なる勅額は後鳥羽上皇の宸翰で、石水院の欄間に掲げられている。

石水院エントランス

明恵上人樹上座禅像

余程遊び心がなければ、描かれないであろう。いつの世にも、世の中を明るくする人がいるようだ。

<了>


『田の神(たのかん)』さあ

2024-10-13 08:34:19 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

『田の神』について、故・柳田国男氏は以下のように述べておられる。”里人である稲作民の山の神には、春は田に降って田の神になり、冬は山に帰って山の神になる”と云う。”この神の去来信仰の背景に、祖霊信仰がそんざいしている”と云う。稲作民にとっての山の神、田の神は祖霊の分身ということになる。

古来、田の神とは稲魂であり、稲魂が宿る種籾を祀る穂倉(祠)が神社の先行形態の一つとも云われている。福島県棚倉町に『お枡小屋』と称して高床・平入りの穂倉がある。米をはかる枡を棚倉町の四地区で、四年毎の旧暦10月17日に遷座する行事である。

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お枡小屋

話は田の神さあである。この田の神さあは、春と冬に去来する神ではなく、常在する神である。えびの市歴史民俗資料館HPが、田の神について要領よく纏められているで、そのHPより説明文を拝借する。

田の神とは何か?
田の神信仰は全国的な民俗行事として農村に浸透してい ます。伝承でんしょうよるとこの田の神は冬は山の神となり、春は 里におりて田の神となって田んぼを守
り、農作物の 豊作をもたらしてくれると信じられています。ただし、 この山の神は、田の神となりたまう神で、きこりや猟師りょうし のための山の神(山を守る
神=女性)ではないというこ とです。
一説によりますと、田の神の実体、とりわけその本来の姿は種籾たねもみであり、秋に収穫された稲が翌年春に生産の 為の稲籾いなもみになることから、稲の神(稲魂いなたま)が田の神の本 質的性格であるとされています。また、もみ・米・餅など は永遠の生命として継承けいしょうされたものであり、それ自身が 田の神であり、それが何らかの影響を受け、稲の外にあ って稲の生育を守る田の神へ展開していったと考えられ ています。
 
田の神信仰の起源

自然石や石像を田の神として田んぼに立てているのは、一つの石神信仰です。 それらの石の多くが、性器をかたどっているのは、古代からの性器信仰の表れ と見られています。えびの市西川北の自然石は、男性のシンボルそのものをかたどっているといわれています。
大同2年(807年)に書かれた 『古語拾遺こごしゅうい』 の『御歳神みとしがみ』の中に、 「田んぼに発生したイナゴを駆除するために、男茎おわせ型の田の神を造って田んぼの水口に立て た」という記事があります。

田の神の中でも、とりわけ多くの「農民型」田の神像の後ろ姿は、男根(陽物)をかたどったものが多いです。田の神は増殖の神であ り、手に持つメシゲとスリコギは男性のシンボル、わんは女性のシンボルを表すといわれてます。
本来、田の神は男性ですが、石像の中には少数だが女性像もあり、夫婦像もあります。

田の神信仰の形態

一般には田の神と呼ぶが、東北地方では農神のうがみ 、山梨・長野では作神さくがみ、近畿では作り神、兵庫から山陰の一部にかけては亥の神、 瀬戸内海地方では地神ちじんと呼びます。

南九州地方(薩摩・大隅・日向の南部)では集落ごとにメシゲやスリコギを持つ田の神の石像を作って田のそばにまつっています。 地方によっては、恵比須・大黒・カカシなどを田の神としている所もあります。さらに中国 ・四国地方などでは、木の枝(サンバイ様)を田の水口やあぜに立てて、田の神としています。

田の神の性格

田の神は聖的な神仏ではなく、庶民的しょみんてきな神仏という性格です。神無月になるとすべての神が出雲に集まるが、 田の神だけは土地に残り、人々を見守る神様であるという、言い伝えがあります。
また、田の神は汚しても転がしても決してたたらない優しい神であり、盗まれて他所へ連れて行かれても不平も言わず、 行った先々で田んぼを守ってくれています。

「デフッジョ(大黒さま)は人にかくれてん働け、タノカンは、ヨクエ(憩え)と言やったげな」という話が残っています。

以上である。

この『田の神さあ』が、えびの市歴史民俗資料館に展示されているとのことで、過日宮崎に行った際に出かけてみた。

以下、えびの市内に散在する田の神さあである。

また、『回り田の神』なる田の神さあが存在るという。それが展示されていた(下の写真)。

回り田の神とは、農家を回って豊作を祈願する風習である。当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作り大事に床の間にまつる。田の神は、春・秋交代で次の座もとに回っていくという。

この常在する田の神は、薩摩、大隅、日向の島津領に存在する。何故か。

それは島津の酷政によるものであろう。全国的には年貢高は五公五民といわれている。薩摩は公式的には七公三民である。それを正租と呼ぶそうだが、その正租以外の年貢が課せられており、それを含めると八公二民となる。原因は圧倒的な武士の多さで、全国的な武士の比率は7%程度と云われているが、島津は30%ほどであったことによる。

農民は豊作を願い、収量を増やすことに専念し、その結果が『田の神さあ』であったことによる。甘藷の導入は農民対策の一環であった。

この田の神について、中国山地ではサンバイと呼んでいる。ココを参照願いたい。

<了>


最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁・#48

2024-10-04 08:55:45 | 東南アジア陶磁

過日、Yahooオークションを見ていると、コピーや偽物が氾濫している中でコレはと思われる品が2点出品されていた。2点ともにミャンマー(ビルマ)陶磁であるが、これらを実見したのは、カムラテンコレクション(富山市佐藤記念美術館)、福岡市美術館、町田市立博物館やBKKのバンコク大学付属東南アジア陶磁館、ランプーン国立博物館などで合計120-130点ほどで、錫鉛釉緑彩陶にいたっては30点ほどである。したがって、記述している考察が的外れであるとも考えられる点、あらかじめお断りしておく。

〇錫鉛釉緑彩陶

上掲3点は出品物の写真である。一見、本歌のようにも見えるが、よく見ると違和感満載である。

ミャンマーはマルタバン近郊で念願の窯跡が発見された。本物の約束事(特徴)を以下箇条書きにしておく。

1)盤は轆轤をひき、器形を整えてから静止して、切り離しの糸切は、手前に水平にひいている。そして高台を付け、或る程度乾燥した段階で、轆轤を回し高台に沿って削り整形している。つまり高台内(底)の中央部は静止糸切痕を見、高台は付高台である

2)盤の多くは27cmから31cmの外径で、直径20cm程の大きな付高台である。その高台内とおいうか底は、丸い筒状の焼台に載せて焼成されており、その焼成痕を残しているのが一般的である

3)釉薬の垂流れ防止目的と思われる細工が、高台の外側面に施されている。それは筍の皮を剥いたような輪が削り込まれ、それが段状になっている(溝が削り込まれてはいない)

4)胎土はやや粗く、明るいオレンジ色、赤茶色、それに深い紅色のようにみえるが一定していない

5)生地は素焼きをしているのか、生掛けなのか、あるいは双方存在するのか、明らかになっていない

6)釉薬は失透性で純白ではなく、クリーム色がかっており、その釉薬は厚くかかっている

7)釉薬は高台の畳付きも覆っており、高台内(底)にも釉が刷毛塗されているのが散見される

8)絵付けは釉上彩で、錫鉛釉に銅の緑彩が溶けたものである。釉掛け後の銅絵具の筆彩は、絵具の釉薬への吸収が速く、絵具に伸びがないとされ、筒描きであったろうとの説が定説化している

9)銅絵具は還元焼成で緑色に発色する。従って窯の気密性を要する。また温度が上がりすぎると、銅は炎とともに消えてしまう。よって焼成温度は1000-1100度程と思われ、盤を指で弾いても磁器のような共鳴音はなくニブイ

以上である。

上掲の写真を見ると、釉薬層に厚みはなく、地肌を見る箇所も存在する。錫鉛釉は厚くかかっているのが特徴で、それゆえ緑彩絵の具が吸い取られ、ニジミ現象を引き起こす。したがって写真の緑彩線の細さはあり得ない。

錫鉛釉緑彩陶の口縁に鍔はなく、いわゆる直口縁であるが、出品物は稜花縁である。但しわずかながら鍔縁盤は存在するが、写真の稜花縁は実見していない。尚、器胎は本物かと思われ、いわゆる後絵の可能性がある。

尚、魚文の頭部の描き方はサンカンペーンの魚文形状ににており、このような魚文の本歌は見ていない。尚、代表的魚文の本歌盤を下に掲げておく。

ランプーン国立博物館

〇緑釉盤

高台の立ち上がり面がどうなっているか、写真がなかったのでよくわからない。外側面の鎬は存在するパターンであろう。

中心文様の花文は、ミャンマー陶磁では見られる文様である。気になるのは緑釉の表面にガラス質の光沢が見られないことである。ミャンマーのこの手の緑釉は光沢を見るのが一般的である。真贋については小生の限界を超えており、判断できない。

いずれにしても1万円以下であれば、買い物であろう。例え偽物としても授業料である。

<了>