世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

太陽信仰の遥拝地

2024-12-04 09:15:06 | 古代日本

2年以上になった肩痛み、どうも神経痛のようだが、いろいろと治療してみたものの、楽にはなったが完治には至っていない・・・と云うことでフォロー頂いている各位のブログに訪問できなく、心苦しいかぎりである。

 

秦氏なる渡来氏族がなぜ尾張氏系・物部氏系氏族が祀る天照御魂神社を祀っているのかとの疑問である。

天照御魂神とは、天照大御神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられ、冬至線・夏至線に関係し、半島の日光感精形の信仰に基づく半島系の太陽神(日の御子)とする説が存在する。秦氏は、半島渡来の氏族であろう。

通称蚕の社とよぶ天照御魂神社の境内に、三柱鳥居が在る。その中心に小石を積み重ねた神座があり、この鳥居そのものが信仰の対象となっている。

鳥居の立つ位置からみると冬至の朝日が稲荷山(伏見稲荷神社)から昇り、冬至の夕日は松尾山(松尾大社)に沈むという。いずれもその麓には、秦氏が創祀した神社が建立され、三柱鳥居のある木島坐天照御魂神社も祀る神社である。この地は秦氏によって計算された特別の遥拝地と云うことになる。

更に北方向は双ヶ岡(ならびがおか)をさしている。そこは秦氏によって7世紀前後に築造された古墳群が並び、この北方位は嵯峨野一帯を支配する秦氏の祖霊のねむる聖地を指している。

また三柱鳥居の中心から東と西を再度見ると、稲荷山の反対方向が西の愛宕山で、松尾山の反対方向が東の比叡山の主峰四明岳となる。この四明岳は夏至の日の出位置にあり、夏至の日の入り位置に愛宕山がそびえている。

このように三柱鳥居が在る場所は、計算しつくされ、それは太陽の運行と密接につながっていた。このことは太陽信仰そのものであり、稲作民の太陽信仰の現れであったと考えられる。

 

木島坐天照御魂神社について記したが、天照御魂神社は各地に建立されているようだ。その天照御魂神社には天火明命(あめのほあかりのみこと)を祀るところが多い。鏡坐天照御魂神社(奈良・田原本町)の主祭神は火明命である。当社では『御田植祭』が行われている。立春と立冬には三輪山山頂から昇る朝日と二上山に沈む夕日を拝する地にある。

当社の一帯は4-5世紀に鏡を鋳造していた鏡作部が居住していた地であり、鏡坐天照御魂神社は鏡作部が建立したものと考えられ、祭神は太陽信仰にかかわる神であり、農耕の神である。鏡は太陽の形代であることがその証左である。しいて云えば、鏡作部の祖は渡来人であったであろう。

<了>

 


熊襲の銀象嵌龍文大刀

2024-11-24 08:28:32 | 日向・薩摩

えびの市島内114号墓出土の銀象嵌龍文大刀は、日本書紀が記載する伝承の考古学的な裏付けかと思われる。日本書紀によれば景行天皇と日本武尊の九州遠征記事を抜粋すると以下のようになっている。

景行天皇遠征記事

 景行天皇十二年秋七月 熊襲が背いた

 景行天皇十二年十二月 熊襲梟帥(くまそたける)誅殺

 景行天皇十三年夏五月 襲の国平定

 景行天皇十八年夏四月 熊県の熊津彦兄弟誅殺

日本武尊遠征記事

 景行天皇二十七年十二月 熊襲の川上梟帥を刺殺

以上である。過去、景行天皇の九州遠征記事をUpdateしているが、その遠征ルート上に熊襲が位置している。

(熊襲の領域とは肥後球磨郡から大隅曽於郡)

銀象嵌龍文大刀に話を戻す。古来中国での龍文様は、皇帝を示す権力の象徴であった。日本での初出は、弥生土器の線刻龍文様であるが、それは畿内のみならず各地から出土している。弥生時代に列島を統一する大勢力が存在しなかったことが、その一因と考えている。

古墳時代では、龍文様をもつ器財は各地から出土しており、銀象嵌大刀もその一つである。

このようにみると、龍文様の独占は大和王権の専用ではなく、地方の有力首長が、各々の地域の権力を示す象徴として用いられたであろうと考えられる。

同じ島内古墳群から、下写真のヨロイカブトが出土している。それなりの出来栄えで、これをもってしても相当な豪族であったことが伺われる。

そのようにみると、えびの市である旧・大隅国曽於郡には、大きな地方権力の存在が認められ、それは熊襲の末裔であろうこと、更には景行天皇、日本武尊の九州遠征記事の考古学的な裏付けになろうと思われる出土品である。

<了>

 


零戦を見た

2024-11-14 08:19:37 | 日向・薩摩

過日、航空自衛隊鹿屋基地にて零戦を見た。過去、海軍航空隊鹿屋基地より特攻隊が出撃した。

鹿児島県沖2か所から、零戦の残骸が引き上げられ、それを1機に復元されている機体が展示されていた。

張りぼてと思いきや、それなりに頑丈に作られていると思われた。制作当時は世界の最先端をいっているものと思うが、如何せん後が続かなかった。昭和の始めとは云え技術革新は日進月歩であった。零戦に続くのは隼だが、二番煎じの印象はぬぐえない。戦後日本企業は世界の冠たるものがあったが、失われた30年はゼロ戦に続く戦闘機が出現しなかった状況の再来である。この撃墜された状況はいつまで続くのか?

立派な機銃を搭載していた。これもその先の進歩がなかったのである。

<了>


鹿児島・城山ホテルにて

2024-11-05 08:02:14 | 日向・薩摩

過日、鹿児島紀行の際に城山ホテルに宿泊した。過去、城山観光ホテルとの名称にて営業していた記憶がある。どうも2022年3月に全面リニューアルが完成したようで、宿泊当日は新築のように蘇っていた。

城山ホテルHPより

ホテル内はエントランスやロビーに工芸品などが展示されていた。

島津義弘公着用の甲冑(模造)

15代 沈寿官作青磁瓶

15代 沈寿官作薩摩焼瓶

薩摩切子

桜島

鹿児島といえば桜島。朝日を背に雲に覆われ、噴煙を見ることはできなかった。

リニューアルを機会にホテル・オークラグループの一員となったようだ。ホテル・オークラのメンバーズカードが使える。価格はそれなりだが、鹿児島宿泊の際は一推しである。

<了>


栂尾山高山寺

2024-10-24 09:11:06 | 京都

10月半ば栂尾・高山寺へ行ってみた。予想はしていたが紅葉には早すぎ、色づきもしていない。高山寺と云えば鳥獣人物戯画絵巻と紅葉ではあるが・・・。

石水院を眺める 紅葉には早かった

過去、京都は西京区に10年住まいしていたが、高山寺は初めてである。周山街道別名鯖街道を北上する。ヘヤーピンカーブの連続である。

高山寺と云えば、後鳥羽上皇を想い出す。上皇は我が島根県の隠岐の島配流中に崩御された。その後鳥羽上皇の建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽院の院宣により華厳宗の復興道場として中興開山したと伝わる。

写真の「日出先照高山之寺(ひいいでまずてらすこうざんのてら)」なる勅額は後鳥羽上皇の宸翰で、石水院の欄間に掲げられている。

石水院エントランス

明恵上人樹上座禅像

余程遊び心がなければ、描かれないであろう。いつの世にも、世の中を明るくする人がいるようだ。

<了>