世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

世界の街角#11:ペナン#3

2016-06-08 07:14:58 | 世界の街角
<続き>

プラナカンとは16世紀頃マラッカ王国に来た中国人移民が、マレーシア人女性と結婚して生まれた人々。男性はババ、女性はニョニャと呼び、その総称がプラナカン。そのプラナカンが建てた住居が観光地となっている。
先ずチョンファッツイ・マンション(別名:ブルー・マンション)で外壁の青い色は風水によると云う。

次はプラナカン・マンションで、富豪・鄭景貴(チュンケンキー)が19世紀末に建てられた住居。外壁はペパーミントグリーンに塗られ、内装は華洋折衷で英国様式と中華がまざりあっている。内部は鄭氏が収集した美術工芸品が展示されており、隣の公立博物館より優れている。




                                <続く>












世界の街角#10:ペナン#2

2016-06-07 07:22:48 | 世界の街角
<続き> 

多民族国家マレーシアの縮図・ペナンの宗教施設は未だ続く。中世16世紀以降中国人の移民が相次ぐ。それらの中で財をなしたものが、宗祠廟を建てる。Khoo Kongsi(邸公司)は、其の中の一つで1835年福建から来た、邸氏一族が建立したものである。
建物は金ぴかである。江蘇や福建など南部の建物は白黒のモノトーンが多いが、如何にも鮮やかである。


腰壁には麒麟や虎の彫刻が刻まれている。虎は子を千尋の谷に突き落とすという。まさにその場面が刻まれている。中国南部の道教寺院である道観は媽祖廟か天后宮であるが、天后宮を見ることができた。多分媽祖廟もあるかと思うが、未だ見ていない。


                             <続く>

世界の街角#9:ペナン#1

2016-06-06 08:38:29 | 世界の街角
ペナンには縁があったのだろう、20年前に訪れてから都合3度行ったことになる。何でもありの土地柄が気に入ったせいであろうか。
ペナンは、まさに多民族国家マレーシアの縮図であり、彼らが奉ずる宗教も多様である。
先ずモスクである。写真はKapitan Keling Mosqueでペナンでは最も格式高い。イスラムはマレーシアの国教である。
次は、中国式仏教寺院の観音寺(Kuan Yin Temple)。中国では南部で特に観音信仰が厚い。タイでも中国式寺院といえば、観音を奉ってある。
観音寺の境内に何かヒンズー神が描かれた幕が下がっている。まさに人類みな兄弟。下は観音寺の本堂で渦巻き式の線香は見当たらず。
下は観音寺から1-200m先であろうか、1818年に建設された東南アジア最古のイギリス教会St.George's Churchである。
下写真はマハ・マリアマン寺院でヒンズー教徒がお参りする。
ミャンマーからの移民も多そうだ。ダーミカラマビルマ寺院である。本堂内の仏立像はいかにもビルマ式である。


下3枚の写真はタイ式仏教寺院で、当該ブロガーには見慣れたヤックが迎えてくれる。


タイとマレーシアは半島を介して地続きである。ここペナンはタイ人も多く住まいする。写真は寝釈迦仏寺院と呼ばれている。ロンジーをまとったビルマ人も参拝している。
 他民族・多宗教国家・マレーシア。現在までは人種・宗教抗争は発生していない。世界中の多くの人々は、マレーシアを見習うべきであろう。

                                <続く>














世界の街角:マニラ・イントラムロス

2016-05-26 08:08:12 | 世界の街角
少し古い(2007年11月)見聞録で恐縮である。初めてマニラを訪れたとき、イントラムロス(スペイン語で”壁の中の街”を意味する)へ行ってみた。ここは、スペイン統治時代の1571年から150年の歳月を要して建設された。その後はアメリカ軍の司令部として使用されたとのことである。
写真中央がイントラムロスで、サンチャゴ要塞である。要壁は述べ4.5kmで、面積は64haという。
イントラムロス入口のゲートを入ると、シラピスセンターと呼ぶ土産物屋である。中に入ると天井の梁から吊るされた横長の太鼓が目についた。

キャップションには、ミンダナオ島のMARANAO TEMPLEの太鼓とある。仏教寺院かイスラム寺院かカトリックか?何の説明もないので不詳である。
 この太鼓に極似したものを北タイで目にする、各々が独自に自然発生したとは考えられない。バリ島でも見ることができる。これらの類似性をどのように考えればよいのであろうか。

写真のサンアグスチン教会は、1587年着工で1606年完工したもので、太平洋戦争の惨禍にもあわず、1993年に世界遺産に登録された。

カーサ・マニラと呼ぶ、19世紀半ばのコロニアル様式の建物である。博物館として公開されている。中に入ると、その装飾はシノワズリーも手伝い、独特の雰囲気であった。
要塞には写真のホセ・リサール記念館がある。彼は詩人、画家、医師と多才でであったらしい。彼は宗主国のマドリッド中央大学卒業後帰国し、非暴力によりフィリピン人の言論の自由と法律的平等を求めた。しかし認められず辺境に追放された。
1896年、秘密結社カプティナンが独立闘争を開始すると、彼の影響力排除のため逮捕処刑された。そのホセ・リサールが処刑されるまでの2カ月間幽閉され建物がホセ・リサール記念館である。
多数の小学生にであった。国の歴史・独立に貢献した彼を学ぶことが、フィリピン人のアイデンティティーを涵養するのであろう。
写真のモニュメントはラサール公園の西側入口に建つ。その前には暑いにもかかわらず衛兵が左右にたっている。官民挙げての英雄である。

当時のマニラの印象で云えば、見どころはイントラムロスのみで、あとは超近代的なビル群と、対照的なバラック群しか印象がない。最近は随分変化していると思われる。