世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伊太祁曾神社(弐)

2022-04-17 07:40:12 | 和歌山県

〇五十猛命がつなぐ出雲と紀伊

前回記したように、五十猛命は出雲と石見の国境・五十猛浜に上陸し、木の種を全国各地に蒔いたあと、木の国(紀伊)に天降られた。これだけなら、ああ~そうですかの類で終わりであるが、後刻、和歌山県立風土記の丘資料館を観覧して、驚いた代物に出会ったのである。

(写真左端が太田・黒田遺跡出土銅鐸 於・和歌山県立風土記の丘資料館)

(太田・黒田遺跡出土銅鐸 出典・和歌山県HP スポットを当てて写真を撮らなかったため借用

それは、和歌山市太田(おおだ)・黒田遺跡(弥生時代)から出土した銅鐸が、出雲・加茂岩倉遺跡出土の4、7、19、22号銅鐸と同じ鋳型で鋳造された同范銅鐸、いわゆる兄弟銅鐸であるという。その銅鐸を目の前にして、”な~んだこれは”・・・との感慨が湧く。加茂岩倉の4つの銅鐸と同じ鋳型だという。これ以外に兄弟銅鐸は知られていない。

(加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口(個)の展示ブース 県立古代出雲歴史博物館)

(加茂岩倉出土4号銅鐸)

(加茂岩倉出土22号銅鐸)

ここで課題は、これらの銅鐸の鋳造地が何処か・・・畿内か出雲か?畿内であれば、太田・黒田以外の畿内のどこかで、兄弟銅鐸が出土しているはずだが、それは見当たらない。素人の門外漢であってみれば、出雲が鋳造地と考えている。五十猛命が木の種と共に銅鐸を紀伊に運んだとの妄想が湧く。いや妄想ではなく、五十猛命以外に出雲と紀伊の交易なり交流が存在していた証であろう。

それにしても、考古学者が同一鋳型の銅鐸と見抜くことに感心する。余程、基礎データがしっかりしているものと拝察する。

<了>

 


紀伊・伊太祁曾神社(壱)

2022-04-15 08:27:58 | 和歌山県

〇五十猛命上陸地から紀伊・伊太祁曾神社へ

五十猛命(いたけるのみこと)を出雲では”イソタケルノミコト”と呼ぶが、その上陸地から最後に降り立った紀伊・伊太祁曾神社へ遣って来た。

五十猛命は父神・素戔嗚尊と共に、新羅から埴船にて出雲(地元伝承では出雲と石見の国境の五十猛の浜)へ渡海し、素戔嗚尊は高天原より持ち来る木の種を五十猛命に渡し、日本国中にその種を蒔くように命じた。五十猛命は妹神と共に、九州から順に日本中に種を蒔きはじめ国中を青山にし、最後に木の国(紀伊)に降り立ったと日本書紀は記す。

(島根県大田市五十猛町 五十猛神社 祭神・五十猛命)

(和歌山市 伊太祁曾神社 祭神・五十猛命)

左右の脇殿には妹神の大屋津比賣命、都麻津比賣命がそれぞれ鎮座されている。

今回、五十猛命の足跡と云うか、上陸の地から最後に降り立たれた、紀伊・伊太祁曾神社に参拝し、それなりの感慨をもったが、後刻、もっとびっくりするモノを見た。これも五十猛命が繋ぐ出雲と紀伊であろうか?・・・これについては、次回紹介したい。

<続く>


紀三井寺の名残り桜

2022-04-08 07:08:55 | 和歌山県

名草山の西側中腹(標高50m)に伽藍が在り、境内から和歌浦湾を望め、下界の景色はそれなりである。境内は桜の名所として、『日本さくら名所100選』に選ばれている。参拝したときは名残の桜を見ることができた。日本さくら名所100選に選ばれているせいか、名残の桜といえども其れなりのものであった。

紀三井寺は高台であるため、景色がすこぶる優れている。正面は和歌浦湾に船が浮かぶ。左手の和歌山市南部にポルト・ヨーロッパが見える。

写真の向かって左は高層のマンション群、右手の茶色っぽい建物群がポルト・ヨーロッパである。

話しは飛んだが、桜は散り始めており、今週末は葉桜に変わっているであろう。

<了>


和歌山はガソリン激戦区?

2022-04-07 10:13:29 | 和歌山県

過日、所用にて京都へ。滞在中に古代和歌山の出土遺物を見たく、和歌山へ行くことにした。桜は名残であろう紀三井寺にも寄ってみることにした。

給油の必要がある。事前にgogo.gsにて価格をしらべると、かつらぎ町は激戦区のようで、どのガソリンスタンドも安い。そのなかで最安値を表示している”セルフ笠田”にて給油。何と153円/リットルで、我が田舎の168円ー170円に比較し、15円以上安くやや驚きである。

<了>