<続き>
孫文と宋慶齢の結婚は、庄吉夫人トクがお膳立てをしたことで知られ、トクも宗慶齢と親交を結んだと云われている。
中國で個人的に興味を持つ歴史上の人物は何人かいるが、近代では孫文が唯一である。彼はハワイ・ホノルル渡航の後、香港での勉学中に革命思想に目覚めたとされ、革命資金調達のために世界を駆け巡った。その足跡を訪ねてみたいものである。
<了>
<続き>
孫文と宋慶齢の結婚は、庄吉夫人トクがお膳立てをしたことで知られ、トクも宗慶齢と親交を結んだと云われている。
中國で個人的に興味を持つ歴史上の人物は何人かいるが、近代では孫文が唯一である。彼はハワイ・ホノルル渡航の後、香港での勉学中に革命思想に目覚めたとされ、革命資金調達のために世界を駆け巡った。その足跡を訪ねてみたいものである。
<了>
孫文は清代の1866年広東省香山県翠亨村に生まれ、梅屋庄吉は明治元年(1868)長崎に生まれた。従って孫文が2歳年長である。庄吉24歳の時厦門に渡航、26歳の時に香港で写真館『梅屋照相館』の経営を始めた。庄吉が孫文と出会うのは、彼が27歳の時で明治28年であった。
出会いと交友についての紹介は省略する。旧香港上海銀行記念館2階に展示されていた孫文と庄吉の資料を紹介するので、交友の一端を感じ取って頂ければ・・・と思っている。
(梅屋庄吉 書)
残りは次回紹介したい。
<続く>
<続き>
〇十四番蔵・乙名詰所
十四番蔵はかつては砂糖蔵であったとのこと。乙名詰所とは、表門から出入りする人々を、監視する乙名が詰めていた建物である。
左奥の白壁の蔵が十四番蔵。左手でロープが渡らされている処が乙名詰所。その部屋が下写真。
〇出島で出土した遺物の数々
・・・すべてを紹介しきれないので、一部を紹介するに留めておきたい。
交易の品々やピストルまで出土したようである。今回をもって出島で見聞したことの紹介を終了する。
<了>
<続き>
〇筆者蘭人部屋
出島が貿易や文化交流を通じて、世界と日本各地と繋がっていた様子が紹介されている。特にマラッカ、アユタヤ、バタビアとの往来は盛んであったようだ。
インドシア・ジャワ島のバタビア(ジャカルタ)の様子が描かれている。東インド会社の拠点が置かれていた。
オランダのデルフト焼きやイギリス製の陶磁器が輸入されると共に、肥前有田の磁器が輸出された。
<続く>
<続き>
〇拝礼筆者蘭人部屋
建物の名称が理解しにくいが、オランダ商館の首席事務員の住居とのこと。エレキテルや顕微鏡等の西洋伝播の器具が展示されている。
<続く>