世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?

2019-10-27 06:52:22 | 北タイ陶磁

1980ー1990年代、タークからメーソトにかけてのミャンマー国境に近い、タノン・トンチャイ山中の墳墓跡からミャンマー陶磁やスコータイ、シーサッチャナーライ更に北タイ陶磁や中国陶磁が大量に盗掘された。タイ人は墓を持たないとされておりその墳墓が、どのような民族のものなのか謎であった。

タイの考古学者や知識人が、その墳墓の主の民族は不明とするなか、当該ブロガーが無謀にも『聖なる峰の被葬者は誰なのか?』とのテーマで連載を試みた。その帰結は当然と云えば当然ながら、明確な結論を得ることができなかった。興味をお持ちの方は以下のブログをレビュー願いたい。 

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(1)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/0588d17ccd37b762c468e68cfb33d5db

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(2)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/09157ceb99483956396d8d88b2d8f11f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(3)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/4607f1dd2dbe286265efa1530f2c5795

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(4)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/7093aefe16868099d39e86858960104f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(5)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/37cbdc211ffb477495f54ee1fdf12c87

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(6)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/47a4a466e55b60caa6e7944ede6ba174

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(7)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/8ee69b9fc4c8be602b9419a35e116b9e

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(8)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/349e7c907849913d9c495dc42c3ea63d

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(9)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/ce6e908cffa3c4b448d72a92805e8952

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(10)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fe99cfeab26b6f52102b5495f7aff6a2

〇聖なる峰の被葬者は誰なのか?(11)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/faf8888befdc99acb87b4c116a0a19ad

 

近年、チェンマイ国立博物館は改装工事を行っていたが、先年再オープンした。其処には先史時代の展示も行っている。当該博物館で発行しているガイドブックを参考にしながら、<続編>として再考してみたい。

〇 Ban Yang Thong Tai遺跡

国立博物館のガイドブックによれば、遺跡はチェンマイの北東10kmのドイ・サケット郡に在る。その遺跡は平地に対し1mのマウンド状を示しており、出土遺物が示すのは、ランナー王国初期の墓地である(どの遺物が、それを示すのか説明はない)。そこには赤い胎土の土器、青銅遺物、鉄製工具が当時の人骨と共に出土した。

サミットル・ピティパット教授は、タノン・トンチャイ山脈中の盗掘跡の調査で確認した副葬品に鉄製品や青銅遺物があったことを指摘していいるが、土器については言及されていない。

この遺跡は、タノン・トンチャイ山脈やオムコイ山中の墳墓と同時代で、かつ考古学的発掘であり、もっと精査して欲しい気がする。人骨のDNA解析結果はどうであったのか。是非再調査して欲しいものである。どの民族のものなのか。

 

〇 Ob Luang遺跡

遺跡はチェンマイ県ホート郡のOb Luang国立公園内に在る。考古学的発掘調査によると、文様のある土器片、高坏の破片、磨製石器が出土の品々であった。調査では、岩場の下の崖下に朱と白で描かれた人間と動物の壁画が発見された。

考古学チームっは前史時代の25000年ー2500年前のものであったと考察している。

つまり埋葬主はタイ族南下前の前史時代人であり、課題の中世の人々ではないが、副葬品をともなっっている点は共通である。

 

〇 Ban Wang Hai遺跡

ランプーンの1.5Km程南に位置している。遺跡はクワン川中流の盆地の田圃に在る。

出土遺物より、そこは2つの文化時代にまたがっていたと思われ、同じグループの人々が継続して居住していたであろうとことを示していた(つまり2つの文化時代にまたがり、ある民族が継続して居住していた)。それらの民族は、新しい技術の受入れによって、徐々に変化したであろう。

2つの文化時代の後期に遺骨が無くなったのは、8世紀から9世紀にかけての仏教の到来と、それに伴う火葬の習慣によるものであろう・・・以上、ガイドブックが記す概要である。

このBan Wang Hai遺跡は8世紀半ばに建国されたハリプンチャイ王国と呼ぶ、モン(Mon)族の遺跡と思われる。モン族は仏教を受容し火葬に転換したとある。

タノン・トンチャイやオムコイの墳墓は、土葬もあれば火葬の痕跡も認められている。してみれば、それらの墳墓跡はモン族の可能性が考えられる。

今回『<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?』と題して、再度考察を試みたが、やはり結論のない噺となった。現代のハイテク分析機器を用いれば、これらの墳墓の主はどのような民族であろうか・・・との命題に一歩近づくとは考えるが、それを行わないのは流石タイではある。

 

追・Ban Wang Hai遺跡出土遺物は写真の磨製石器、鉄・青銅遺物、ビーズなどである。ビーズの装飾物は現代の山岳民族に繋がっている。

 

<了>

                 


北タイ陶磁に魅せられて:第8(最終)章

2019-10-21 08:47:16 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去7回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48

〇北タイ陶磁に魅せられて:第6章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9a53e0ba73d6a5cc3d6861ac63722540

〇北タイ陶磁に魅せられて:第7章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/75b7890deac00c77cc484f6df0e2eea4


過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の3回目(第8章)はインターキン古窯址群です。

〇序

中部タイのスコータイ、シーサッチャナーライ両窯については、内外の先達により調査・研究は精緻なものになっていますが、北タイについては未解明な点が多々残存しています。今回紹介するチェンマイ県メーテーン郡内のインターキン窯は、窯址の調査は行われましたが、そこで焼成された陶磁については、出土した陶片が少なく全貌が掴めたとは言い切れないまま今日に至っています。

そのような未解明の点はありますが、チェンマイから1時間余りの場所で、窯址には博物館も建っており、誰でも見学可能であることと経路も分かりやすいことから、一度出掛けられてはどうでしょうか。

 

〇窯址発掘の経緯

この窯址は1994年民家の敷地内で偶然に発見され、その敷地一帯をインターキン地区役所が買収し、1996年タイ芸術局によって発掘調査され、ここを古窯址博物館として、2006年12月25日に開館の運びとなったものです。

過去、この中世の窯場は”ムアン・ケーン”と呼ばれていました。その窯は丘の傾斜に設置されており、幾つかの煙突状の痕跡が地表に現れていました。そこを発掘すると、地表から2m下に窯が横たわっており、厚板状の粘土で固めたもので構築されていました。全体的な窯形状はサンカンペーン窯と類似しています。焼成物は明るい青磁、緑がかった褐色釉(暗緑釉)の陶磁で、双方ともに同じ形状の壷がありました。そして壷のほかに盤、鉢、蓋付きの壷が出土しました。このインターキンの窯から採取した炭化物を、C-14炭素年代法で年代分析すると1420-1445年を示し、それはサ-ムファンケーン王の時代を示していることになります。

(発掘の経緯を示した説明板)

窯址は覆屋があり現地に立つと、5基確認できました。発掘は部分的であり、まだ埋没している未発見の窯もあろうかと想像できます。

 (左右の覆屋の下が窯址)

全貌が見える形で発掘されているのは1基で、その幅は約2.2m、長さは3.7m程度かと思われ、僅かに地表を掘り下げ、丘の斜面にそって構築され、地形の関係から焚口は南向きとなっています。その形状はサンカンペーン古窯と同じ半地下式の横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)、いわゆる穴窯です。          

 

〇開窯の時代背景

C-14炭素年代分析で1420-1445年を示したと云われていますが、これはランナー王朝第8代・サームファンケーン王(即位1402-1441年)の時代に相当します。「チェンマイ年代記」は後世の成立で、記録内容に全幅の信頼はおけませんが、それによると、サームファンケーン王はパンナー・ファンケーン(現:チェンマイ県メーテーン郡)で生まれたとされています。即位後1404年と1405年の二回にわたり雲南のホー族が、ランナー王国に侵攻しましたが、サームファンケーン王は3万の兵でホー族を攻撃し、雲南の景洪まで追い返し、中国の朝貢国から脱しました。その後、ランナー朝は繁栄を継続します。その絶頂期とも云えるサームファンケーン王に縁深いメーテーン郡のインターキン地区に窯があったことになりますが、その築窯はサンカンペーン窯より、随分時代が下ることになります。従ってサンカンペーン窯の影響を少なからず受けていることになります。                     

 

〇予備知識を習得するには

窯址の発見が近年で、本格的発掘調査も10数年前のことであり、分からない点が多々存在します。合わせて窯址から出土した陶片類も少量で詳細が未だ不明です。

またインターキン焼を展示している施設は、現地の窯址博物館しかありません。その現地博物館も展示内容が貧弱です。従って刊行物に頼ることになりますが、それもタイ芸術局発刊のタイ語による調査報告しかありません。従って窯址訪問前の予備知識習得は困難です。

 (タイ芸術局発刊の調査報告)

 

〇博物館の展示内容と焼成陶磁

窯址の前に建つ博物館の正式名称はインターキン窯博物館(พิพิธภัณฑ์แหล่งเตาเผาอินทขิลเมืองแกน)となっています。それは立派な建物です。

 (窯址博物館)

展示室には発掘陶磁器の破片が展示してありますが、一辺が4~5cm程度の断片で、そこからは完器の形状を想定することはできません。さらに残念ながら最近、博物館は施錠されており、その破片さえ見ることはできません。その代りと思いますが博物館の外壁に出土陶片の写真ボードが複数掲げられています。

(博物館内の展示陶片)

(出土陶片写真ボードの一部)

以前の資料館の陶片展示と、最近の外壁の写真展示を見ていると、外側が褐色釉で内部に青磁釉の壺片や、カベットに放射状の刻線が入る盤片も出土しているようです。

発掘はタイ芸術局が担当し、その説明板の内容を掲載しますと、壷、盤、鉢、蓋付き壷が焼成され、オリーブグリーンや緑がかった褐色釉に覆われていたと説明されています。なるほど破片をみるとそのような痕跡が認められるものの、破片で釉薬は剥落したりカセ(注釈)ており、タイ芸術局調査報告の記述内容を十分に確認できなかったのが残念です。

サーヤン教授の報告書によると、鋸歯の印花文も存在していたようですが、それ以外にどのような装飾文様があったのか、必要な情報が記載されておりません。但し盤については、サンカンペーンと区別が困難な事柄が記述されており、今日サンカンペーン陶磁として流通している盤に、紛れ込んでいる可能性があります。以上をまとめますと、次のようになります。      

使われた釉薬の種類

 褐釉、黒釉、暗緑釉、青磁釉、灰釉

焼成された焼物の種類

 壺、蓋付壺、皿、盤、

装飾文様・・・装飾陶磁片の出土が僅かであり、其の中で下記の文様が確認されています

 印花文(鋸歯文・きょしもん)、鎬文、円形形状の貼花文

従来は博物館の見学も可能でしたが、2015年に訪問した時は閉鎖されていました。今日、博物館内の見学が可能かどうか不明です。   

 

〇さあ!窯址へ行ってみよう

先ず発掘された窯址から紹介します。

(窯後部と煙突の部分的発掘)

(2つの窯が隣り合わせで部分的な発掘)

(窯後部と煙突の部分的発掘)

(表紙と同じ窯で別アングルから撮影)

窯址現場を実見して感じたのは、サンカンペーン古窯とほぼ完全に一致した印象です。あくまでも想像で確証はありませんが、サンカンペーンからの陶工により築かれ、似たような陶磁生産がなされたものと考えられます。

興味をお持ちの方のために、インターキン窯址への道程を紹介しておきます。チェンマイから国道107号を北上、メーテンの市街を経由してメーテン川を渡り、約200mでメーガット・ダムに至る道の分岐をメーガット・ダム方向に右折します。ここで国道107号と別れることになります。なおこの右折箇所の国道107号の左肩に案内板があります。

(国道掲示の案内板)

これを観たら右折してください。右折すると長い緩やかなのぼりになり、そして長い降り坂の途中にインターキン地区のゲートを通過します。通過して1km程度行くと平地になり、写真の道路標識を見ることになります。

(道路標識:黄色で囲ったバン・サンパトンが目的地)

そこを左折すると、人工の小さなクリーク(幅4-5m程度)が流れており、そのクリーク沿いに北上すると同時にワット・パーデンが見えてきますが、その前をクリーク沿いに更に6-7km北上すると、小さな十字路に至ります(十字路の右角は工場)。そこを左折して20ー30m先のT字路を右折し,暫く行くとワット・インターキンを見ることができます。この寺院をみて200m程度行くと、目的の窯址と博物館の裏手に到達します。

(裏門)

(正門)

博物館の裏手にも入り口があり窯址へ行くことは可能ですが正門へ至るには、その先を迂回することになります。

 

〇穴窯の系譜

今号までに7つの窯址群の窯址(穴窯)を紹介しましたが、最後にその穴窯の系譜を考察し、筆を置きたいと思います。穴窯を正式には横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)と呼びます。北タイには地下式、半地下式、地上式の横焔式単室窯が存在します。それでは北タイのこれらの窯は独自に誕生したのでしょうか? 

メンライ王がランナー王国を1292年に建国した当時、北方の雲南を足掛かり元の南下圧力を受けていました。そのことは中国側史書の元史に軍征記事が記されていることから明らかです。其の時に陶工と共に穴窯も伝播した可能性が考えられますが、残念なことに雲南では今日まで穴窯の存在が明らかになっていません。

オーストラリア・アデレード大学のドン・ハイン教授は東南アジア陶磁研究の泰斗ですが、教授によれば穴窯の端緒は、紀元前の中国にあるとの論文が発表されています。その穴窯が雲南経由ではなく、北ベトナムからランサーン王国前期の北ラオス経由で、北タイにもたらされた可能性を指摘しています。

(ドゥオンサー古窯 筆者現地にて)

上の写真は、2013年にベトナム・ハノイ郊外のバクニン省のドゥオンサー窯址を訪問した時に撮影したものです。時代は9~10世紀のもので、これがランサーン王国前期のルアンプラバーンを経由(ルアンプラバーン近郊に、14世紀の穴窯址が存在)して北タイに伝播したと思われますが、北タイの窯址形状はドゥオンサー古窯とは少しことなり、形式は同じながら北タイ独自のスタイルに変化したと思われます。

注釈・カセ 鹿背と漢字表記する。釉薬表面のガラス質が劣化し光沢を失っている様を云う。

 

以上、不定期連載として8回に渡り、北タイ陶磁の魅力と窯址訪問記を紹介してきました。幸いにも北タイの日本語フリー情報誌『Chao』に寄稿させていただきました。その情報誌ご希望の方は、過去に紹介した方法で入手願いたいと思います。

尚、ブログ掲載時期については明言できませんが、イサーンの所謂クメール陶磁の窯址、中部タイの例えばメナムノイ窯址等の、北タイ以外のタイ王国領域の諸古窯址紹介のブログを掲載する予定です。

 

<完了>

 

 

 

 

 


北タイ陶磁に魅せられて:第7章

2019-10-07 08:08:34 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去6回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48

 北タイ陶磁に魅せられて:第6章https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9a53e0ba73d6a5cc3d6861ac63722540

過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の2回目(第7章)はワンヌア古窯址群です。

ワンヌア古窯の所在地は、ランパーン県ワンヌア郡内で、タイ芸術局の調査により25基を確認したとのことですが、それ以上であったろうと云われています。操業開始時期は、他の北タイ諸窯に比較し、やや遅れた14世紀と云われ、操業期間は14世紀~17世紀と幅があります。他の北タイ諸窯に較べると青磁主体の焼成で、僅かの褐釉や灰釉陶磁が存在します、また鉄絵による装飾もなく誠に不思議な存在です。

操業した窯の数が少ないことから流通する焼物は少なく、北タイの限られた領域で流通し、残存する完品を目にするのは難しいのが現状です。

チェンマイ在住者の方は、チェンマイ国立博物館の展示品を御覧になるのがよいでしょう。しかし、先に記したように所蔵品は少なく、概要を掴むことには無理があります。以下、その少ない展示品を紹介しておきます。

(青磁刻花文鳥形水注 チェンマイ国立博物館蔵)

(青磁碗  チェンマイ国立博物館蔵)

ワンヌア焼の鳥形水注は非常に数が少ないのですが、写真のそれは大きな傷もなく貴重な一品です。そしてワンヌア焼青磁碗は、この手の碗が主流で比較的多く焼かれました。

残念乍らワンヌア焼が見られるのは、チェンマイ国立博物館以外では、北タイには存在しないと思われます(但しワンヌア郡内の寺院で蒐集している可能性はありますが詳細不明)。興味をお持ちの方は、バンコク郊外ランシットのバンコク大学付属東南アジア陶磁館を訪問してください。写真の名品を見ることができますが、ここでもワンヌア焼が見られるのは数点です。

 (青磁鎬文稜花縁盤 バンコク東南アジア陶磁館蔵)

(青磁蓋付壺 バンコク東南アジア陶磁館)

青磁鎬文稜花縁盤はワンヌア焼で最もポピュラーで、写真の盤の径は30cmを越える大きな盤です。青磁蓋付壺は合子と思われ、キャップションにはワンヌア窯と表示されていますが、これは後程紹介するワンヌア・ワンポン窯の名品で青磁蓋付壺です。蓋の造形はチェディーないしは須弥山を表しているものと思われます。

以上、タイ国内で見ることができるワンヌア焼を4点紹介しました。

 

ぱっと見ての第一印象は、器胎が白くて固く焼きしまっている感じです。その第一印象通り、陶土は灰色を帯びた白い半磁土に、白・黒粒と雲母の微細な粒が含まれ、緻密で夾雑物が少なく、小さな空洞が見られるのが特徴です。

青磁釉は透明で黄緑ないし緑色を呈しています。青磁釉以外は僅かながら褐釉と灰釉が存在します。

ワンヌア焼は盤の造形に特徴がありますので、それを紹介しておきます。高台は内向(約60度)し逆台形で、畳付きは丸みを帯びています。口縁は鍔縁でその端を丸く成形しています。それを玉縁(たまぶち)と呼んでいますが、そこを内側に折って装飾としています。連続的に折り曲げているものを輪花縁(りんかぶち)、一定の間隔で折り曲げているものを稜花縁(りょうかぶち)と云い、これもワンヌア焼の特徴です。さらにカベットに放射状の窪みをつけて装飾としていますが、これを鎬(しのぎ)と呼びワンヌア焼でよくみる装飾技法です。以下特徴というわけではありませんが、製作された器の種類と印花文様の種類を紹介し、この項を終了します。

●製作された焼物の形状

 大小の盤、皿、鉢、碗、水差し、鳥形水注、瓶、耳付広口壺、二重口縁壺、合子、蓋付壺、高坏           

●確認できている印花文様の種類

 太陽光芒文、四つ菱文、ピクン花卉文 

      

ワンヌア古窯については、勝手が良く分からないので、バンコクの知人である日本人K氏に同行願うことにしました。K氏と共にシーサッチャナーライからタイ人のCさんが同行し、ワンヌアのガソリンスタンドにて、我々と待ち合わせすることにしました。筆者は、旧知のオウさんと呼ぶドラーバーと一緒にチェンマイを出発し、このガソリンスタンドでおちあうことができました。

どうでも良いようですがタイ人の、その道のネットワークの凄さには舌を巻きました。Cさんがメーカチャンの発掘プロに連絡をとり、暫くすると発掘プロの2名が到着です。早速ワンヌアのメープリック窯址に向かうことにしました。       

先ずメープリック窯址への行程から紹介します。発掘のプロに従い郡庁からランパーンに向かって南下し、写真の国道(ワンヌアーランパーン国道)標識を右折します。

右折するとなだらかな山越えとなります。山越えして降りたところがT字路で、メープリック学校方面へ左折します。

発掘プロの約20年前の記憶をたよりに、窯址地主を探し当て訪れました。地主はタノンさんと呼び、そのタノンさんのバイクの先導で目的地につくことができました。

窯址へ行くには、谷筋の田圃を横断して丘に向かい、寺院の前を右手にみて道なりに約1km進むと到達しました。その窯址の手前は谷筋で小川がながれ、田圃となっていました。そこを越えると登り坂となり、その右手がバナナ畑で、其の中に窯址がありました。

 (窯址に立つ地主のタノンさん)

残念乍ら窯址は原形を留めず、バナナ畑として開墾されていましたが、窪地となっていたことから推測はできました。なかには窯床と思われる部分が黒みを帯びた釉薬のガラス質で覆われている処もあり、その範囲は約1平方メートル程度でした。それが下の写真です。

周囲には数基の窯が存在していたようで、その向きは一定ではなく、90°程度の向きの差で接するように配置されていたと(軸線が斜面に沿うものと、水平に近い軸線で窯壁が接していた)・・・タノンさんの説明でした。

写真は、軸線が斜面に沿っている事例で、写真上部が斜面上方にあたります。多くはありませんが周辺には煉瓦状の塊が確認されました。このワンヌア・メープリック窯のロケーションで陶磁原料の調達はどうであったのか、陶土について調査していませんが、水の確保は容易であったろうと思われます。窯址の下方30-40mに谷筋がありクリークが流れています。            

地主・タノンさんの了解を得て、写真の陶片3点を持ち帰りました。1点目は窯の崩落によると思われる、多くの降下物が見込みに見られる青磁印花日輪文高坏片です。2点目は青磁輪花縁盤片、3点目もその類であろうが、表面が炭化物で覆われています。胎土はいずれも微細で固く、磁器質に近いものがあり、胎土をどこから採取していたのか興味深い事柄です。    

次にワンヌア・ワンポン窯址の紹介です。ワンヌア郡庁、メープリック学校とワンポン学校の位置関係は、先にグーグルアース衛星写真に示した通りです。

ワンポン学校を左手に見て、ワンヌア郡庁に向かって北上約300m地点で左折すると、いきなりダートでした。そのでこぼこ道を暫く走ると三叉路に至り、そこを左折して100mほどでしょうか、下草が刈られた小高い山が見えます。そこら一帯に窯址が散在していたようですが、いずれも破壊され原形を留めていません。近くにはピー(精霊)を祀る祠がありました。それにしても水を得られそうにもないような地形に、なぜ窯が? ・・・との疑問が湧きます。

ここも素人では行きつくことは不可能です。件の発掘プロにワンポン学校の国道脇で待っているようにと指示され、待つこと20分で戻ってきました。地主に連絡に行ったのです。地主は既に現場に向かっていると云うことでした。上述のダートを進み、現場に到着すると、地主は既に待機中でした。

ピーの祠は写真手前右側で、下草が刈られた小高い山は写真右後方にあたります。そこら一面に陶片が散在していますが、その量はいたって少量でした。

何故かピーの祠前に下写真の窯道具かと思われるものを見かけました。

その道のプロなら使途は一発で理解できるでしょうが、皆目わかりません。何かの陶磁の底部か、それとも窯道具の匣(サヤ)でしょうか。

いよいよ窯址の探索ですが、指摘された窯址と思われる場所の所々に陶片が散在していましたが、その量は多くはなく、探すのにそれなりの時間が必要でした。

写真は採取した陶片を1箇所に置いて撮影したものですが、残念ながら窯址は破壊しつくされ、その痕跡は確認できませんでした。

J・C・Shaw氏の著作『Northern Thai Ceramics』によると、タイ芸術局によるワンヌア窯の調査で、窯はいずれも粘土スラブによる構築であったと記述されています。窯址で見た煉瓦のような固形物は、焼成の熱によりブロック化したものとも考えられます。

チェンマイ国立博物館前庭に移築の地下式のワンヌア窯をみれば、成程煉瓦は使われておらず、粘土スラブがブロック化した可能性が高いと考えられます。

現地の窯址は、その残滓は確認できたものの、窯形状の想定すらできにくいほど破壊されていました。そこでチェンマイ国立博物館前庭に移設されている、地下式の横焔式単室窯を紹介して終わりにします。

この窯は地上に移設されていますが、地下式の穴窯です。タイ芸術局によると、15~17世紀に築窯されたものとしており、縦長のスリムな形をしています。

次回は最終回として後日、インターキン窯址を紹介する予定です。

<了>

 

 


CHAO395号

2019-09-30 16:13:09 | 北タイ陶磁

昨年中頃から今年初めにかけて、チェンマイの日本語情報誌CHAOに、『ラーンナー古陶磁の窯址を巡る』とのテーマで5回に渡り不定期連載してきた。その後388号から3回に渡り続編を不定期連載することになった。今回は3回目(最終回)の395号である。北タイ在住者で興味をお持ちの方は、一読されたい。尚、日本でも入手できるので数寄者の方々には是非目を通して頂き、ご意見を拝聴したいものである。

 

今回は最終回の『インターキン窯址編』である。

 ◎チェンマイ近郊のメーテーンの窯址を訪ねて

 ◎窯址発掘の経緯

 ◎窯址の時代背景

 ◎予備知識を習得するには?

 ◎博物館の展示内容と焼成陶器

 ◎さあ、窯址へ行ってみよう!

 ◎穴窯の系譜 

・・・で構成されている。 

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<了>


北タイ陶磁の特異性

2019-09-06 07:31:21 | 北タイ陶磁

ブログ開設1500回記事&5周年記念として特集記事を掲載してきたが、3回目の今回は『北タイ陶磁の特異性』なる記事を掲載する。尚、特集記事は今回をもって終了する。

現・タイ王国内の領域において、中世各地に窯場が存在した。大きく区分すると東北部(イサーン)でクメール陶磁を焼造した諸窯と中北部のスコータイ王国下の諸窯、更にはランナー王国下の諸窯に大別される。この中でランナー王国の諸窯は東西の影響を受け、更には独自性を発揮した形跡も認められ、“あそこにあってここにない、ここにあってあそこにない”という特異性が認められる。今回は、その特異性について紹介する。

東南アジア各地にみる横焔式単室窯(Cross-draft kilns)の源流については、アデレード大学時代から一貫して東南アジア諸窯とその焼造陶磁に関して調査・研究をすすめている、ドン・ハイン氏のレポートがある。そのドン・ハイン氏のレポートは”Ceramic Kiln Lineages in Mainland Southeast Asia”とあり、「東南アジアの窯業系統」との意味である。

それによると東南アジアの歴史的な高温焼成窯は、2つの別々の中国の影響源に由来し、それぞれの窯は特定の特性によって定義付けされることを示している。一つ目の影響を受けた地域は、主に東南アジアの東海岸および隣接する内部に沿って見られ、二つ目の供給源の影響を受けた窯は、内陸の河川やその畑地に見ることができる。具体的な地域として一つ目はベトナムとカンボジア、二つ目はタイ、ラオス、ミャンマーである。

ドン・ハイン氏のレポートは、冗長すぎて核心をつかむのに苦労した。

結論を記載すると、横焔式地上窯は2世紀に中国から伝播したとし、横焔式地下窯も10世紀に中国から伝播したとする。いずれも明確な根拠は記載されておらず、“何々と思われる式”の表現であり、ドン・ハイン氏の観念的思索と思われなくもないが、前述の結論のようである。

過去、ハノイの東にあるドゥオンサー(DuongXa)の横焔式単室窯を現地で確認した。それを発掘・調査した故・西村昌也氏は、10世紀後半の年代を与えている。それがラオス北部(旧ランサーン王国のルアンプラバーン及びその近郊)を経由して北タイに至ったと考えられなくもない。

やや歯切れが悪い捉え方だが、タイでの窯業の創業と伝播については、モン(MON)族が大きな役割を果たしたと考えている。モン族の遺跡はタイ東北部(イサーン)でも出土しており、そのイサーンではクメール陶磁の窯が散在している。つまりモン族はクメール陶磁生産の技能も習得していたと考えている。そうであるとすればイサーン、例えばブリラム・ナイジアンの横焔式単室窯の平面プランは長方形の地上式であるのに対し、モン族が創業した可能性が濃厚なシーサッチャナーライ最下層の窯の平面プランは楕円形で地下式との違いがある。この齟齬をどのように理解すればよいか・・・との課題を残しているが故の歯切れの悪さである。

前掲表は“窯のタイプと轆轤の回転方向”をまとめたものである。この表をグーグルアースに表示すると以下の図となる。

ここで論旨に混乱を与えるようで恐縮であるが、津田武徳氏の論文である『東南アジア陶磁にみる轆轤の回転方向』に記載されているのは、ドン・ハイン氏は、横焔式単室窯がインドから東進してミャンマーへ、ミャンマーからタイへと伝わったという仮説を立てているとのことである。津田武徳氏が引用されたドン・ハイン氏の出典を知らないので、この仮説の詳細を知らないが、ドン・ハイン氏は先に紹介した「東南アジアの窯業系統」では、中国からベトナム経由して伝播したとの説と、どのような関係になるのであろうか? 多少理解に苦しむ。君子は豹変するのか?

いずれにしても西方インドの影響有無は、誰かが体系的に調査・分析する必要があるのは確かであるが、轆轤の回転方向に関して僅かな情報を加えて新たに一覧表を作成すると以下の表となる。

これを見ると、シーサッチャナーライ最下層のいわゆるMON陶とラオス北部、更にはチャンパを含むベトナムと朝鮮半島・日本は右回転で、それ以外は中国や西方ペルシャやインド(但し中世の情報ではなく、現代の情報ではあるが)など大多数が左回転であり、北タイの一部であるサンカンペーン、カロン、パーンが左右混在しているのと大きく異なる。

ここで右回転の日本とベトナムをもう少し詳細にみると、日本の5世紀代は左回転が主体で、6世紀に右回転主体となり、7世紀には右回転のみとなった経緯がある。つまり約1世紀の時を経て回転方向が反対に変わったのである。ベトナムについては故・西村昌也氏の報告によると9世紀には左回転であったが、約100年間で右回転に統一したとのことである。つまり轆轤の回転方向は、時間の経過とともに変化しうることを物語っているが、話柄がやや横道に反れた。

本題は『北タイ陶磁の特異性』である。表からもお分かりのようにサンカンペーン、カロン、パーンの轆轤回転方向は、左右混在している点が特異である。しかも北ラオスや北ベトナムに近くなればなるほど右回転の比率が高くなる特徴がある。その様子をグーグルアースにプロットしてみると下のようになる。

北タイ、特にサンカンペーン、カロン、パーンの左右混合は、論証なしにベトナムから北ラオス経由の影響と思わざるを得ない。

しかし、このような北タイにあってもワンヌア、パヤオ、ナーンの各窯は左回転で、一様ではなくバラバラの印象である。ここに北タイ諸窯の特異性を感じることができる。ここでナーンはスコータイ朝との結びつきが強く、ナーン川を介してピサヌロークやスコータイとの往来は、ランナー王都のチェンマイより便利で多かった。ナーンが左回転であることは、スコータイとの往来の多さから理解できるものの、ワンヌアとパヤオについては思い当たる要因が考えられない。

そこで、東南アジア陶磁の装飾文様である魚文との関係を考えてみたい。

この魚文の数に東西の影響が感じられる。先ず三魚文であるが、これは少ない管見ながらクメールと安南陶磁に見た経験がない。この三魚文はペルシャ陶磁にも見ることができる。これはトリムルティーと呼ぶ、三神一体のヒンズー理論に外ならず、この文様は西方の影響と考えられる。現タイ王国の領域では、三魚文は存在するが少数派である。

スコータイの多数派は単魚文で、魚体の幅は広く薄い特徴をもっている。これはトライカムプリアンなる古来の伝承からくるものと考えられ、先住民族も含めたタイ族の特徴が表れている。ランナーでは双魚文が多数派を占める。これは安南を経由した中国の影響と考えられる。

以上、窯の形式と轆轤の回転方向、魚文の数から北タイの特異性について言及してきた。いずれも明確にこうだ・・・との結論を得ることはできないが、北タイは東西陶磁関連技術の交差点であったことは確かである。

<了>