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ランナー(チェンマイ)王家の王室陶磁・続(後)編

2019-09-05 07:54:43 | 北タイ陶磁

<続き>

 

次に壺以外の官窯と思われる精作について検討してみることにする。

径40cmを超える大きな鍔縁盤である。見込み中央には鳳凰が描かれている。古来中国で鳳凰は、天命を運んでくる天帝の使いである。太古、この聖鳥は周の文王のもとに舞い降りた。それ以来、周王朝では鳳凰が天子の象(しるし)となった。しかし中国皇帝の象徴と云えば五爪の龍である。龍が皇帝の象徴となったのは、五行説で「水徳」をもつと云われる秦の始皇帝以降である。その時に鳳凰は皇后や妃の象徴となっていく。

そこで龍についてである。中国に朝貢したいわゆる藩国は、中国皇帝(五爪の龍)をはばかり、四つ爪や三つ爪の龍を象徴とした。写真はその事例で10世紀前半の遼(契丹)の銀製鍍金(金メッキ)の蓋付硯箱である。

 

龍頭上部にある蓮華の短冊には「萬歳臺」と彫られている。万歳は千秋万歳のことで、皇帝を寿ぐ場合のみ用いられる。従ってこの蓋付硯箱は遼皇帝のものと考えられるが龍は三つ爪で、それは大越国(安南・ベトナム)皇帝の龍にもみることができる・・・ということであれば、ランナー王家の官窯であるカロン陶磁に鳳凰は見るが、龍(ナーガ、タイではパヤナークと呼ぶ)を見ないのは何故であろうか。

ランナー王朝がこれを用いなかったのは、ナーガ(龍)はガルーダ(漢字表記は迦楼羅、タイではクルットと呼ぶ 注③)に捕食されるとの伝承に依るものと考えられ、タイの王室である現ラタナコーシン朝のシンボルもナーガではなくガルーダ(迦楼羅)であることから理解できるであろう。従って龍(ナーガ)は、ランナー王家の陶磁文様に登場しない存在であった。その鳳凰とともに絵付けは器面全体を覆うように描かれ繁縟以外の何物でもないが、大壺同様に絵付けに乱れはない。まさにランナーの王権を表す大盤である。

他の器としては、前掲の盤とともに特殊な形状の高坏が存在する。その口縁は煉瓦積城壁の頂部のような装飾で飾られ、その突起は何れも整い乱れはない。このような手間暇のかかる陶磁器を焼造できるのは、豊かな国力を背景とした王権以外に考えられない。

 

カロンには立派な動物肖形が存在する。象もその一つで、中世の戦闘場面では有力な武力でもあり、権力の存在を示すものであった。特に白象は、時の国王から官位と欽錫名が与えられ、王の威厳を示すものであった。

 

高さ50cmに及ぶ騎乗象像である。奥には従者である象使いを見ることができる。騎乗しているのは誰であろうか、目だった武器を持たないことから、戦士ではなく首長か国王であろうが身に着けているものは簡素である。但し右手に短剣と思われる棒状の何かを掴んでおり頭は無冠である。この人物を国王と云えるかどうか。下の写真はスコータイ歴史公園内のラームカムヘーン王座像である。見ると突起のある王冠を被っているようで、左手側には王剣が台座に置かれている。

 

チェンマイ旧市役所前の3王像も同様に、突起をもつ王冠を被っている。

 

してみると象に騎乗する人物をランナー王と特定するには無理がありそうだが、象は白象と思われ、その体には護符や占い(ドゥ―ドゥアン)の卦が描かれている。王冠は被っていないものの検証なしにランナー王と思いたい。いずれにしても絵付けの文様に乱れはなく、50cmに及ぶ大型の肖形であることから、官窯の品以外の何物でもないと考えられる。

象の肖形では他にエラワン象が存在する。写真はサワンカローク陶器博物館のエラワン灯明である。造形は精緻を極めバランスがとれており、造形に緩みが見当たらない。王家の祖廟(王室寺院)で用いられたであろう。

 

三神一体をサンスクリットで”トリムルティ”と呼ぶ。ブラフマー、ビシュヌとシバは同一で、これらの神は力関係の上で同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎないというヒンズー教の理論。すなわちブラフマー、ビシュヌ、シバの3神は、宇宙の創造、維持、破壊/再生という3つの機能が3人組という形で神格化されたものであるとする。

トリムルティはコンセプトであるがブラフマー、ビシュヌ、シバの3神を融合した形で象徴的に偶像化されることがある。1つの頸から3つの頭が伸びるデザインや、1つの頭に3つの顏を持つと云うバリエーションが存在する。これらはバラモン思想から生じ、ベーダの時代(前500年)以降に定着したとされる。ならば3面像の発祥はこれであろう。東南アジアではブラフマー、ビシュヌとシバの3神と共に、インドラ神(帝釈天)が釈迦の「従三十三天降下図」をはじめ様々に登場する。それはランナー王朝の領域でもみることができる。考えられるのはこれらのヒンズー思想や仏教は、時の王権を絶対化するための有力な手段であったことが伺われる。インドラ神(帝釈天)は三十三の頭を持つ多面象に騎乗するがタイでは三面象で表され、これをアイラーバタとかエラワン(ヴァーハナ:神の乗り物)と呼んでいる。上掲写真のようになった、そのエラワンに灯明が載っている。これぞ王権を示す器物以外のなにものでもない。

王権のありようを示す肖形が他にも存在する。それがナーガを退治する聖鳥・ガルーダ(迦楼羅)で、ビシュヌ神を載せる鳥としてインド神話に登場する。

 

正確な総高は、既に忘れたが70cm程度であったと考えている。そのガルーダは左右にナーガの尻尾を捕まえ、頭には王冠を被っている。まさに王権を表していることになる。このことはアユタヤ王朝から現・王朝までの紋章として採用されたことからも説明付けることができる。下の紋章は現ラタナコーシン朝というかタイ王国の国章である。

 

ではカロン窯において、国権にかかわるような肖形物を、ランナー王家に無断で焼造したのであろうか、否、王権が関わる官窯であるからこそ成し得たものと解釈したい。

 

カロン陶磁には仏教をモチーフとして造形された肖形陶磁が多々存在する。次に掲げる仏龕は、そこに横たわる釈迦が入滅する涅槃像が納まる。またその毛髪を納めたとされるチェディーも焼造された。

 

 

ここで北タイにおけるランナー王国前期の仏教について概観してみたい。ワット・マハータート・ハリプンチャイに伝来した砂岩製の仏陀頭部(ハリプンチャイ国立博物館展示)は、ハリプンチャイ時代(661-1292)初期と考えられる彫像で、ドバラバティー盛期の8世紀の仏像と比べても、特に半眼の切れ上がった目の特徴など共通点が多いと云われている。ランナー王朝などタイ族の国が勃興する前、中部でも北部でも仏教文化の担い手はモン(MON)族であった。

その仏教及び仏教文化は、スリランカからモン族国家であるドバラバティーへ招来された大乗仏教であろう。大乗仏教について考えてみたい。釈迦の教えによれば、人が悩み苦しむのは煩悩をもつが故である。故に釈迦はすべてを捨て、悟りを開き解脱せよと説く。しかし凡人が悟りの境地に達し、解脱するなど不可能に近い。釈迦が万人或いは百万人に一人を対象に、そのようなことを説く筈はなく、釈迦の本質は慈悲であろうと想像したのが、後世南インドのバラモン出身の龍樹(ナーガールジュナ:紀元150-250年頃)であった。龍樹は、釈迦を歴史上の人物から飛躍させて、「仏格」という、高度に抽象的な概念としてとらえたのである。そして釈迦の本質は慈悲であろうと見抜き、衆生は救済されるとの大乗仏教が生まれたのである。「衆生を救う」という主体は菩薩である。その菩薩立像が7世紀ドバラバティー時代のラチャブリー県クーブア遺跡から出土している。

 

(菩薩立像:クーラーブア遺跡出土・バンコク国立博物館)

またまた横道に逸れて恐縮であるが、菩薩をタイではพระโพธิสัตว์(Phra phoṭhis̄ạtw̒)と表記する名詞が存在する。それほど菩薩は一般的な存在で信仰の対象となっている。

本題に戻る、当時のことを義浄は『南海寄帰内法伝』で以下のように記述している。“堕和羅鉢底(だわらばってい:ドバラバティー)とその周辺の国では、上座部のほかに菩薩を礼拝し、大乗経を唱えている”・・・との記述である。

このモン族国家の大乗思想が、同じモン族国家であるハリプンチャイや北タイのランナー王朝前期に浸透していたであろうとの想定は許されるであろう。そのような背景がカロンの仏教関連の肖形陶磁であろうと想定される。

それらのことどもを土壌にして、ランナー王朝は13世紀以降にスリランカからスコータイを経由して、上座部仏教と共に王権思想を受け入れたであろう。国王が僧・僧団(サンガ)を庇護し、サンガが釈迦の教説を護持することによって、国王による国の支配の正当性を裏付けたと思われる。それを具体的な形にしたのが、上述の仏教関連の肖形陶磁で、ランナー王家の官窯であったからこそ焼造できたものであろう。

 

カロン官窯に於いて、仏教関連の肖形陶磁を含む一連の精作陶磁は、いつの時代に焼造されたものであろうか。陶磁生産における焼造技術の変遷は、多分に政治の流れと呼応しているようにみえる。ランナーが大きな繁栄をみせたのは、第6代クーナー王(1355-1358年)から第9代ティローカラート王(1441-1487年)迄の約130年間である。クーナー王はラーマン派と呼ばれる仏教を保護し、スコータイからスマナー長老を招き、ワット・スワンドークを建立して仏教センターを築きあげた。このように仏教関連の肖形陶磁が生まれる背景が構築されていたのである。

 

(ワット・スワンドーク:歴代王墓群)

余談であるが、このワット・スワンドークはラワ族の環濠都市であったウィアン・スワンドーク(注④)の中心に建立された。ここでもランナー王家とラワ族が繋がっており、何やら因縁めいた印象がある。

ランナーの最盛時に噺を戻す、その130年間でも特に第8代サームファンケーン王(1402-1441年)と第9代ティローカラート王は、各々在位40年に及ぶ名君の時代であった。その繁栄期の中で、15世紀前半のサームファンケーン王の治世下に焼造されたものと考えている。『チェンマイ年代記』によると、“サームファンケーンの母は王太后の宮女で貴族の出であった。サームファンケーンはこの宮女が第7代セーンムアンマー王とチェンマイ郊外に出かけている途中、パンナー・ファンケーン(現チェンマイ県メーテン郡)で産まれた。サームファンケーンは即位後、このパンナー・ファンケーンにワット・プーン(現ワット・ムンムアン)を建立した。”

再び横に反れるがメーテンには過去3度、メーガット・ダムやインターキン古窯址に出かけ、幾つかの寺院に参拝したが、不覚にもワット・ムンムアンの所在を知らない。次回出かけることがあれば、在地の日本人ブロガー『新明天庵』氏に所在を確かめることにしたい。噺を本題に戻す。

サームファンケーン王の治世下、1404年と1405年の二度雲南のホー族によりランナー侵攻が行われ、チェンセーンが包囲された。それに対しサームファンケーン王は、3万の軍勢にてホー族を撃退し雲南景洪まで追い返した。このサームファンケーン王の時代に国力は充実し、初代メンライ王以来の中国への朝貢を廃止したという歴史がある。その朝貢の廃止により、返礼としての良質の龍泉青磁や景徳鎮青花磁が入手できなくなったであろう。サームファンケーン王は、その対応として、自身の出生地であるパンナー・ファンケーンにインターキン窯を開窯したものと思われる。このインターキン窯は、タイ王国考古学センターのサーヤン教授のC-14年代法による分析では、1410-1475年の結果であったと報告されている。まさにサームファンケーン王の治世時期に合致する。

しかし、このインターキン窯は、サンカンペーン窯と同じように鉄分の多い胎土しか入手することができず、焼造物の形状や装飾技法から釉薬に至るまで、サンカンペーンの亜流でしかなかった。絶頂期を誇るサームファンケーン王は、これに満足することができず、龍泉や景徳鎮陶磁に劣らない陶磁を自らの手で焼成したいとの想いは募ったものと考えられる。そのような想いでいるなか、東の山筋を越えたヴィエン・カロンとそれに東接するワンヌアに良質の陶土が存在するとの情報を得たものと思われる。また先に記述・紹介したような陶磁器を焼造するには、旧来の陶工では無理であろうと悟ったのではないか。そこで元寇に追われて南下した磁州窯陶工の末裔ないしは、安南の陶工を招聘し(後世の伝承で、それ以上の根拠はないが、勝手乍ら論証無しでそう思いたい)、中国や大越国(安南)で好まれた蓮池魚文や磁州窯磁のごとき繁縟な鉄絵陶磁が焼造されることになった。これにサームファンケーン王が満足した様子が頭に浮かぶ。

 

ランナー王家の官窯と云うからには、なぜ近場のサンカンペーンではなく、カロンなのかという検証が必要であろう。その大きな要因は、北タイで最も良質な陶土を産出したことが挙げられる。中でもカロンの東の尾根を越えた処(ランパーン県ワンヌア郡)に、Mae Hiew Sao Kaew古窯が存在する。その発掘調査報告によれば、そこは磁器質に似た良質の陶土が得られ、薄胎で精作の鉄絵青磁が焼造された。

そこにはメー・ヒェウ(ヒェウ川)が流れ、ワンヌアでメー・ワン(ワン川)に合流しランパーンを縦断してターク県でピン川に合流する。完成陶磁の搬送経路であるが、王都チェンマイからカロンまでの直線距離は75kmと短いが、中世この尾根を北上横断する交易路は存在しなかったであろう。そこで考えられるのはヒェウ川からワン川をランパーンへ下る船便で運び、そこから荷揚げして陸路チェンマイに運搬されたものと考えている。

 

ランパーンからチェンマイへ中世に交易路が通じていたことは、エメラルド仏の故事からも証明される。

 

この行程であれば、窯場からチェンマイ王家へは1週間以内の日程であったろうと思われる。

以上、ランナー王家に官窯が存在していたとの噺を綴ってみた。暫し空想の世界に浸って頂けたとしたら幸甚である。

注①   )ガルーダは孔雀をもとに想像(創造)された霊鳥であると云われている。孔雀は悪食で毒蛇を食べる。ガルーダは両翼をひろげると336萬里という巨大な鳥であった。そのような鳥には止まるべき樹はなく世界の中心である須弥山、その四方にひろがる四大陸を覆う大樹の上に棲まわせた。食べ物は毒蛇では足りず、ナーガを常食とした。

注②   )中世北タイの環濠都市をウィアンとかヴィエンと呼んだ。当該記事ではウィアン・スワンドークとヴィエン・カロンと使い分けをした。

 

<了>

 


ランナー(チェンマイ)王家の王室陶磁・前編

2019-09-04 07:21:25 | 北タイ陶磁

ブログ開設1500回記事&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載している。今回はその2回目として『ランナー(チェンマイ)王家の王室陶磁』を前後編の2回に渡り掲載する。玄人各位からみれば、荒唐無稽に思われるであろう。もとより空想に近いと、記述している本人が思わなくもない・・・と云うことで、話半分で御覧願いたい。

前編

王室陶磁と云えば官窯に他ならない。官窯で真っ先に脳裏をよぎるのは、中国の明代に景徳鎮に設けられた「御器廠」である。そこでは皇帝のための器が焼造され、清時代の前期に技術的な極致を迎えた。下段に、その御器廠の写真と雍正年製銘をもつ東京国立博物館所蔵の琺瑯彩梅樹文盤のリンク先を掲げておく。

                       (御器廠:グーグルアースより)

https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TG1333

つまり官窯と云えば、陶磁技術の粋を集めて焼造されたものである。以上いきなり本題からそれたことを記述した。

北タイのランナー王家の王室陶磁について、思うことを述べようとしている。北タイ陶磁については、国の内外問わず多くの展示施設で目にしてきた。最近思うことだが、ヴィエン・カロン諸窯(所在地:現チェンラーイ県カロン副郡及びランパーン県ワンヌア郡)の一部の焼物に官窯と思われる上出来の一群(スコータイ新市街・サンカローク陶器博物館蔵品)が存在する。それはサンカローク陶器博物館の2階に、該当する一群の陶磁が展示されている。パンフレットによれば、『芸術と哲学』と題し作品解説がなされている。それらは本歌(真作)であろうと思うが、カロンとしては異質の精作であり、倣作を証明する材料を持ち合わせていない・・・つまり今できのコピーではなさそうだ。その一群はランナー王家の王室陶磁とも呼ぶべき出来栄えである。

その本題前に関千里氏の著作に『ベトナムの皇帝陶磁』なる力作が存在する。先ずそれに触れておきたい。その著書の冒頭には、「はじめに・比類なき壮麗なる陶磁の出現」と題して、次の一文が掲載されている。少々長文ではあるが、主要点を抜粋して以下に記す。

“それは、1999年に始まった。ベトナム北部(北部のどこかについては記述なし)で新たに陶磁器が発掘され、国外へと運ばれたのである。出土品は五彩(赤絵)と青花(染付)のみで、これらは国境をなす西の高地を越えて、ラオスを通過し、メコン河を渡った。それを受け入れたタイの町は、主に東北部のノーンカイと北部チェンコーンであったが、時にラオスからミャンマーを経由して北部のメーサイへ着いたこともあった。・・・略・・・器形と文様を手掛かりに編年を求めた結果、すでに中国陶磁の影響下から脱して独自性を発揮していたベトナム陶磁が頂点を極めた陳(チャン)朝(1225-1400年)後期の未知なる遺品群であるとの確信を得た(別章では、ベトナムへの元寇が止んだ陳朝三代仁宗(在位1278-1293年、上皇在位1293-1308年)の治世から、外戚の胡氏が陳朝の政権を握り、九代芸宗(在位1370-1372年、上皇在位1372-1394年)に強い影響力を及ぼす1370年頃までの約百年間とする)。・・・略・・・同じ作品が一点たりともないという極めて贅沢なこの作陶は、壮大な構想の基に、国家の財力と技術と英知の粋を集めてこそ創作できた優品であろう。その背景に精神性豊かで充実した社会なくしては成し得ない。しかも官窯経験豊富な指導者と、画院の存在が不可欠である。これらを満たし統率できた人物、それは時の為政者であった皇帝以外にいないと断言できる。

同時代である中国の元朝(1271~1368年)では、主に景徳鎮の官営工房である官窯やその管理下にあった民窯で、皇帝やその家族、もしくは宮廷でのみ使用するための官窯製品を焼造していた(筆者注・官窯の概念は明代からと考えられるが・・・?)。同様にベトナムでも陳朝前期の天長府に官窯が置かれていたとされ、他の重臣たちもそれぞれの要地で盛んに製陶を営んでいたようであるが、その実態はまだ解明されていない。だが、本稿で初公開となる五彩や青花は、陳朝後期の皇帝窯とも云える皇帝直轄の窯で焼造された官窯製品と推察できる格調高き遺品である。しかも、過去にその例を全く見ていないことからも、皇帝一族の超特別な独占物であり秘陶であったと想像される。・・・略・・・。“

さらに巻末に真贋に関して次の一文が掲載されている。“『新資料の科学分析による年代測定』と題して「五彩貼花花卉文壺」と同時に入手した「五彩鳥文壺胴部断片」を破壊検査である熱ルミネッセンス法により年代測定した結果、年間線量10mGY(*1)の場合1030-1480年とのことである。年代幅が大きく、具体的な焼造年代は絞れないが少なくとも後世の贋作ではなく、種々の背景より陳朝後期の焼造である。“

以上、多少長くなったが、関千里氏著作の要点を極簡潔に転載した。

そこで真贋についてである。氏は五彩貼花花卉文壺と同時に入手した五彩の陶片を熱ルミネッセンス法で年代分析し、少なくとも後世の贋作ではないと断言しておられる。しかし、五彩貼花文花卉文壺そのものの年代測定結果ではなく他の陶片の測定結果である。

筆者は2013年、ハノイで半年間ロングステーを経験した。其の時、多くの博物館やアンティークショップに足を運んだが、当該書籍に記載されている青花や五彩磁は全く目にしなかった。ベトナム北部の何処で発掘されたのか・・・このことは、全く触れられていない。発掘により大金を手にしたと云う、この種の情報は必ず漏れるものだが、ハノイのアンティークショップで質問してもUnknownであった。また関千里氏が述べる時期の青花陶磁とすれば、元染の初出ないしはそれ以前に安南(ベトナム)で青花陶磁が焼造されていたことになり、俄かに信じがたい気持ちが大いにある。しかしながら筆者にとっては、安南陶磁については全くの素人であり、関千里氏の言質を信ずることとする。

つまり元染めの「青花紅釉貼花花卉文壺」と同じような形状と装飾技法を用いた陳朝後期の「五彩貼花花卉文壺」は存在したであろう。

 (青花釉裏紅貼花花卉文壺:河北博物院)

表紙を飾る「五彩貼花花卉文壺」

それと似たような陶磁が北タイのビェン・カロンに存在する。チャムロン親王が編纂した『タイの年代記集成』によると、1295年頃タイ族最初の王国であるスコータイ朝の三代・ラームカムヘーン王(在位1275? 1279-1298年)が元を行幸した帰途、陶工を伴って帰国しタイで陶窯を築いたという。陶工は五百人余りで磁州窯の人たちであったと伝えられている。

関千里氏の著作『ベトナムの皇帝陶磁』は以下のようにも記す。“スコータイの陶器は鉄を含み素地が粗く、化粧土を掛けて鉄で描いている。この筆による鉄絵の表現法は華北の磁州窯系で金(1115-1234年)の時代に始まったとされるが、その流れを汲んでいると云える。但し、ラームカムヘーン王自身が行幸したことは信じがたく、朝貢使節団を送ったとすれば頷ける。それがベトナムを経由していた、あるいはベトナムの陳朝にも朝貢し、陳朝にいた磁州窯系の流れを汲む陶工たちを伴って帰国したと考えると、頷ける点が出てくる。これが陳朝の陶磁文化が東南アジアに影響を与えた大きな波だったとすれば、次の大きな波は永楽帝(在位1403-1424年)のベトナム侵攻、直接支配、そして圧政に耐えきれなくなって押し出されたかたちの陶工たちによって伝播したとも考えられる。そしてシーサッチャナーライやスコータイの鉄絵の花文や魚文と、ベトナムの鉄絵花文や新資料の青花魚文(注①)とに共通性を見出すこともできる。また元やこの度現れたベトナム五彩と青花のように、細密で余白を残さずびっしりと描きつめる独特な描写は、ランナータイ(注②)に鉄絵の伝統となって根付いた。”・・・以上であるが、これは氏の調査検討後の想定によるもので、チャムロン親王編纂の「タイの年代記集成」は遥か後世の成立であり、記載内容の信憑性は今一歩であろうと考えられる。しかし、関千里氏の記載内容にはうなずける点が多々あり、ここではそのような前提で噺を展開することにしたい。

つまり、以降紹介するビェン・カロンの上出来の一群であるランナー王家官窯品の背景は、安南経由磁州窯の影響が考えられる。このことは筆者の持論である北タイの独自性に若干なりとも変更を迫るものではあるが・・・。

注①   :鉄絵の花文には意匠の共通性は認められるが、魚文にはそれが認められない

注②   :余白を残さない繁辱な鉄絵を特徴とするのは、ビェン・カロンの陶磁である

『ベトナムの皇帝陶磁』の白眉は、五彩貼花花卉文壺である。その壺は著書カバーを飾っている。

これは元染の青花釉裏紅貼花花卉文壺に倣ったものであろう。それはビーズ紐貼花装飾技法と氏は紹介しておられるが、そのビーズ紐で壺胴部を区画し窓を設け、そこに貼花の花卉文で装飾しているのである。

 (青花釉裏紅貼花花卉文壺:河北博物院)

驚いたことに、そのビーズ紐で窓を設け鉄絵で草花文を描いた壺がカロンにも存在する。壺の形は元染と安南の五彩貼花花卉文壺と同じ酒会壺の形をしている。ただカロンのそれはやや小振りで華やかさに欠けるきらいがある。

(サワンカローク陶器博物館蔵品) 

しかし北タイ特有の形状をもつカロンの大壺の一群が存在する。特に壺の縁にやや傾きはあるものの、ほぼ直立して立ち上がるのは、元染の「至正十一年」銘のデイビット瓶に見ることができ、同様な縁を持つ大壺は安南陶磁にも存在する。

先ず写真のこれぞカロンの官窯と思わせる大壺から見ていくこととする。胴中央が圏線で区画され、そこに二重の枠線で窓が設けられている。その窓は先のビーズ紐による窓と趣向は同じである。その窓には元染で見るような蓮池魚文が描かれている。

 (元青花魚草文酒会壺:陶磁器染付文様辞典より)

カロン鉄絵の鯉と思われる魚は腹をみせて躍動的な動きであり、それこそ元染の影響を受けた安南陶磁でみる鯉(関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」P313参照)を彷彿とさせ、線描は活きいきとし弛緩がない。まさに官窯陶磁以外の何物でもなかろう。『ベトナムの皇帝陶磁』に紹介されている魚文の模写を掲げておく。カロン鉄絵魚文と極似している。

以下に魚文以外の同じ形状の大型壺を数点紹介する。

胴中央は孔雀や蔓唐草文が描かれ、器面は繁辱なほど絵付けがなされている。しかしそれらに緩みはなく、気品に溢れている。

 

肩は貼花鉄絵で胴は鉄絵で鳳凰が描かれている。胴裾の蓮弁文とあわせ中国の影響を受けていると云わざるを得ない。尚、この鳳凰文については詳細を後述する。

この大壺は象の貼花文で北タイ独自であるが、圏線下段の花卉文は何処か北の匂いもする。以上高さが50cm前後の大壺を紹介したが、絵付けに緩みはなく精作そのものである。やはりカロンに官窯は存在したであろう。

 

<続く>

 

 


北タイ陶磁の魚文様(後編)

2019-09-03 07:04:12 | 北タイ陶磁

<続き>

前回(中編)は、北タイ陶磁の魚文様に中国や北ベトナム等の東方の影響を考察してきた。今回は西方の影響について考えたい。

まずは双魚文である。インド伝来の黄道十二宮の一つである双魚宮やインド仏教の仏足石に描かれる双魚の影響も考えられるが、北タイ陶磁の双魚文は陰陽に配置されたもので、これは双魚宮や仏足石の双魚というより、中国の陰陽道の影響度が高いであろう。北タイ陶磁の魚文は、魚2匹の双魚文のみならず、3匹の魚文もそれなりに存在することが確認されている。代表的な三魚文を以下紹介してみたい。

      (サンカンペーン三魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Border by Sumitr Pitiphatより)

 

(サンカンペーン三魚文盤:京都北嵯峨・敢木丁(カムラテン)コレクション)

20年前のことであるが、敢木丁コレクションの盤を京都・北嵯峨の東南アジア陶磁館で、館長から見せていただいた時はびっくりした。カベットには右向きで回遊するように三匹(尾)の魚文とともに見込み中央には草文が描かれているが、その頭部(見込み下部)は魚で、厳密に云えば四魚文である。この意匠はサンカンペーンにあっては出色である。カベットに描かれた三魚文は他にも存在する。下はシーサッチャナーライの三魚文である。

 

(バンコク大学付属東南アジア陶磁館にて)

北タイ陶磁には、他にもパーン窯・青磁盤の見込みに回遊する三魚文が刻まれている。

その三魚文は、北タイ陶磁のみならずミャンマー陶磁にもみることができる。

 

(ミャンマー錫鉛釉緑彩三魚文盤:ハリプンチャイ国立博物館)

写真の錫鉛釉緑彩三魚文盤は、ランプーンのハリプンチャイ国立博物館で展示されている。見込みに左向きに回遊する魚が3匹描かれている。この3匹に、どのような訳があるであろうか気になるが、その前にもう少し事例をみていくこととする。下の写真は模写したもので、オムコイ山中から出土した錫鉛釉緑彩三魚文盤で縦に三匹並んでいる。

 

(ミャンマー錫鉛釉緑彩三魚文盤:出典 J・C・Shaw著 THAI CERAMICSより模写)

同様なモチーフの三魚文が存在する。それは磚に描かれた三魚文で、ミャンマーの遺跡から出土(多くは盗掘のようであるが)する。その彩色磚は時代幅があるが、下の三魚文磚は15-16世紀頃と思われる。

 

(ネット・オークション出品磚)

このようなミャンマーで焼成された磚は、一般的に一対の動物戦士像や一対の女性像などが多いが、なぜか三匹の魚文である。これらの磚は中世ミャンマーの寺院の基壇を装飾するためのものであり、仏教との関りを暗示しているように思われる。

話が横に反れるが、縦に並ぶ三匹の魚文は、中央の魚が大きい特徴をもつ、これが何を表しているのか、現段階では不明である。

話を戻す。三魚文については、インドから更に西の方、ペルシャの中世の陶磁器にも三魚文を見る。版権の関係から水彩で模写したペルシャ緑釉三魚文盤を紹介しておく。ペルシャといえばイスラム教の国である。それと三魚文の関係が掴みきれないでいる。

 

(ペルシャ緑釉三魚文盤:模写)

以上、陶磁器文様としての三魚文を紹介した。ペルシャ陶磁を除くとタイとミャンマー陶磁であり、存在するのかどうか不詳ながらクメールと安南陶磁には三魚文を見た記憶がない・・・これは何故だとの疑問と共に、なぜ三魚文かとの疑問が湧く。

これは何やら西方の匂いがする。やはりトリムルティー(トリムールティ)であろう。三神一体とのヒンズー理論である。三神一体とは、ブラフマーとビシュヌ、シバは同一で、これらの神は力関係の上で同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相に過ぎないとする理論である。つまり三匹の魚は、ブラフマー、ビシュヌ、シバと捉えることができる。この三神一体とは、キリスト教の三位一体と似ている。それは父なる神(父神)、神の子(子なるキリスト)、(聖霊)の三つが「一体(唯一神)」であるとする教えと同じであろうと思われるがどうであろうか。トリムルティーは、仏教にも三宝として取り入れられた。三宝とは、仏・法・僧の三つで、三宝に帰依することにより仏教徒とされる。

タイではスコータイ王朝やランナー王朝で、王権の補強として仏教を取り入れた。その仏教とは上座部仏教であることを御存知の方は多いと考える。上座部仏教における伝統的な教理書に三界経(Traiphum トライプーム)がある。タイでは『トライプーム・プラルアン』がスコータイ朝で編纂された。三界とは仏教でいう欲界,色界,無色界を指しており、三界経は「悪いことをすると地獄に堕ちる」という因果応報の観念を説き、地獄の様子を生々しく描いた。

 

(チェンライ:ワット・ロンクンの地獄)

写真はチェンライに近年建立されたワット・ロンクンの地獄のオブジェである。また次の写真はバンコクのワット・サケットの地獄絵である。このワット・サケットの地獄絵は、14-15世紀の中世ではなく、時代的には近世のものではあるが、三界経の世界を表している。

 

 (バンコク:ワット・サケットの地獄絵・現地にて)

三界経は上記と同時に「民衆の現社会的地位(貴賤)は前世の行いによる」という観念を普及させた。これが説くところは、特権階級にある人は前世の行いが優れており、貧富の差を結果的に肯定した。スコータイやランナーの歴代王は、このようなトライプーム・プラルアン(三界経)に見られる、仏教的宇宙観に従って国王=須弥山というイメージを使用し、王国下の民の支配と統合のイデオロギーとして使用したと云われている。

中世より時代は下るが、ランナー領域であるチェンマイ県メーチェム郡にワット・パーデートなる寺院が存在する。残念ながらチェンマイからは遠すぎて、未だに行くことができていないが、その布薩堂は1888年の建立という。

 

(ワット・パーデート布薩堂  出典:グーグルアース)

その布薩堂入り口を入った、すぐ左手の側壁に壁画が描かれている。それは須弥山世界図の全景で、釈迦の忉利天からの降臨を表したものである。その中央部にはインドラ神(タイでプラ・インと呼び、日本では帝釈天と云う)より下層に住む神々(天)が、左側下部には地獄の釜に入れられた亡者の姿が描かれ、右側は釈迦の降臨場面が、須弥山の基底部は大海で大きな魚が描かれている。

 

(出典:山野正彦氏論文)

大阪市立大学教授・山野正彦氏によると、ワット・パーデートの壁画のインドラ神、須弥山、大海などは、王が背後に宇宙を背負い、コスモロジカルな権力を付与されることを象徴しているとし、忉利天(須弥山の頂上)から下界に降臨してくる仏陀の姿は、王に化身して現世を治めているというイメージを強く沸き立たせるとしている。これらの事柄がランナー朝建国当時の宮殿なり、守護寺院の壁画に描かれていたかどうかは不明である。しかし、牽強付会のような気がしないでもないが、中世ランナー世界もこのようであったかと、考えている。                    

以上、多少くどくなったが三魚文は、西方の影響を受けた文様であろう。ところが少ない事例ながら東方・中国にも三魚文が存在する。

 

(中国・荊州博物館HPより)

写真は前漢初期(前2世紀)の彩漆三魚文耳杯で、湖北省荊州市江陵鳳凰山168号墓から出土したもので、時計回りに3匹の魚が回遊している。前2世紀と云えば中国への仏教伝来前である。従って西方の三という聖数の影響とは考えにくいが、中国独自に三魚文が創造されたのであろうか・・・これについては的確な答をもたない。中国では『三』は発音が“財”と似ているため、蓄財を意味し縁起が良いとする。合わせて魚の卵は多産であり、家門繁栄を意味する。それが文様に採用されたと思われる。

このように中国でも文様に三魚文をみるが、それは漆器の装飾で陶磁器文様に採用されている事例は、少ない管見ながら未だ目にしていない。                   

やはり三魚文は、西方の影響が大きいであろう。先にトリムルティーについて述べた。古代のタイはドバラバティー王国の地でモン(MON)族の都市国家であった。そこにはインドのヒンズー思想の影響を濃厚にうけた遺跡や遺物が残る。その一つがエラワンである。エラワンとは三つの頭をもつ象で、インドラ神(プラ・イン、帝釈天)が騎乗する乗り物である。近年の開館ではあるが、バンコクの南郊サムットプラカーンにエラワン博物館があり、そこに三つ頭のエラワンが鎮座している。                  

 

(エラワン博物館のエラワン像)

これと同じ形をした陶磁器で、中世・カロン窯のエラワンの香炉なしは灯明がある。

 

(ピサヌローク・サワンカローク陶器博物館)

総高40cm以上もあろうかと思われる焼物で、実に堂々としている。以上、紹介してきたこれらを見ていると三という数は、やはり西方の影響を受けた数であろうと考えられる。その結果としての三魚文であったのである。以上、何故三魚文かについて述べてきた。

次に何故タイとミャンマーか・・・について検討してみたい。つまり同じ東南アジアにあって、何故安南やクメール陶磁に三魚文を見ないのか・・・という命題である。これは数を見ていない経験不足とも考えられるが、この不思議な現象の底流には民族の影響が考えられる。             

先に紹介したように、古代以来タイ中部はモン(MON)族国家であったドバラバティー王国が繁栄していた。北タイのチェンマイ盆地は、同族のハリプンチャイ王国の地であった。更にモン族の本貫の地は、アンダマン海に臨むミャンマーのマルタバン湾沿岸である。いずれもモン族と繋がる地域で焼成された焼物に、三魚文の装飾陶磁を見ることができる。これ以上の根拠を持たないので、上述のことが当てはまるのか、いささか自信はないが、今後追求してみたい謎のひとつである。

以上、3回に渡って「北タイ陶磁の魚文様」と題して、日頃感じていることを紹介してきた。これらをまとめると以下のように集約される。

1)陶磁器文様のみならず装飾に魚が登場するのは、古来から『米と魚』は切っても切れない関係にあった。

2)その魚文の形は、北タイにおける古くからの稲作に関する伝承に基くものと、陶工や画工の鋭い観察眼に依るもので、北タイ独自の形と姿であった。

3)しかし乍ら、元時代の鯉科の魚文が安南経由でカロンに至り、それを参考に絵付けされた陶磁器も存在した。

4)双魚文については、その大多数が陰陽配置で描かれることから、中国の故事にならったと考えられる。

5)三魚文は西の方、インド思想の影響が考えられるが、タイとミャンマーの陶磁器に見えて、安南とクメールの陶磁器に見ないのは、民族の相違とは思われるものの確証はない。

以上、タイや東南アジアでは古来、東西交易の中継地であると共に、幾多の民族が攻防する地でもあった。彼の地の不思議の原因はそのような背景が在ったものと思われる。

 

<了>

 


北タイ陶磁の魚文様(中編)

2019-09-02 07:32:34 | 北タイ陶磁

<続き>

前回は北タイにおける銀の装飾品や陶磁器文様が魚である背景を紹介した。そこで今回は、それらを背景とした陶磁器文様を述べるとともに、それについて考えてみたい。

北タイの範疇に加えるには、やや難があるがスコータイやシーサッチャナーライの焼物、これらを日本では宋胡録(スンコロク)と呼んでいるが、それらは単魚文が多くかつ魚体は扁平である。彼の地の淡水魚の多くは鮒のようないわゆる鯉科の魚である。しかし描かれている魚文は、何故か扁平な魚である。これは前編で紹介したトライ・カムプリアンの説話を抜きにしては考えられないと思うが如何であろうか。

一方、北タイ陶磁の魚文は、扁平な魚文ではなく鯉科の魚と思われる文様で、単魚文ではなく双魚文が多い特徴を持っている。魚文そのものも、宋胡録に描かれる魚文と違いを見せている。この違いをスコータイなどの中北部と北タイの地域性だと、単純に説明できない背景を持つものと考えられる。

上記のように地域により魚文の形に違いがみとめられるものの、魚文が多用された背景は日常生活の中で魚は動物蛋白の摂取源で副食の最たるものであり、主食の米と切っても切れない存在であったことによる

さて、それらを背景とした魚の陶磁器文様である。先ずスコータイ、シーサッチャナーライ両窯の魚文を見てみたい。それぞれの鉄絵魚文は、カレイやヒラメのように魚高(幅)は高いが扁平で薄い魚体である。当然ながらタイ湾から500km程の内陸であるので、淡水魚である。写真は上からシーサッチャナーライの単魚文、下はスコータイの双魚文である。つまりトライ・カムプリアンなる説話・伝承からきた魚であろうが、その姿形は陶工ないしは画工の頭から生まれた産物であろうか。或いは、そうとも思われるが、実際に扁平な淡水魚は存在したのである。

                      

 (シーサッチャナーライ鉄絵魚文盤:町田市立博物館)

 

(スコータイ鉄絵双魚文盤:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)

 「プラー・ナームチッ(ト):淡水魚」なる書籍と図鑑が手元にある。更に「ランナー・タイの魚」なる優れたHPも存在する。ここでは、それらを援用して考察してみたい。

下に「プラー・ナームチッ(ト):淡水魚」の表紙を掲げておく、その表紙で該当するような魚体の魚を赤枠で囲み表示した。

一番下の赤枠は、平成天皇が皇太子時代にタイに贈られたティラピアで、タイではこれをプラー・二ンと呼んでおり、14-16世紀の中世には棲息しておらず、対象から外れる。残るのは右上の赤丸で囲った魚であるが、これをプラー・チョーンプロムチャムナーイという。これをスコータイやシーサッチャナーライの魚文と比較すると、なるほど背鰭、腹側の鰭が一つである点は共通しているが、尾鰭が二股になっておらず、何か異なるようである。

そこで、先述の「ランナー・タイの魚」なるHPを覗くと、下の写真が掲載されていた(無断使用許可とのことで借用掲示している)。魚名はパ・サラークと表示されているが、プラー・サラーク或いはプラー・パ・サラークであろうか。

見ると、背および腹側の鰭が一つで、尾鰭が二股に分かれている。このプラー・サラークないしは近似種を魚文に写したと考えても良いと思われる。しかし、先に示したスコータイ鉄絵双魚文は、似たような魚と思われるが、腹側に3つの鰭が並んでいる。このような鰭をもつ魚は、北タイでは見たことがなく(経験が多くないので断言はできないが)、図鑑にも掲載されていないことから、想像上の鰭かと考える。
いずれにしても、カレイやヒラメあるいは鯛のように薄く、扁平な魚が淡水魚の中に実在しており、それらを写したことになり、決して全てが想像上の魚文では無かったことになる。

次に北タイのカロンとサンカンペーンの魚文について考察したい。先ず云えることは扁平な魚文ではなく、特にカロンの双魚は鱗が描かれ、いわゆる鯉科の魚を文様にしたであろうとおもわれることが宋胡録と異なる。カロンの鉄絵双魚文から見ていくことにする。それは見込み中央に陰陽に配置されている。この陰陽配置は中国の陰陽道の影響かと思われるが、このような魚の姿形はカロン独特のものである。そして先に記述したように、鱗がハッキリ示されている。

 

 (カロン鉄絵双魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Borderより)

 

(サンカンペーン鉄絵双魚文盤:町田市立博物館)

サンカンペーンの鉄絵双魚文は背側、腹側の鰭は省略され、簡略化され二股に分かれる尾鰭が描かれるのみである。この手の魚文は数が多く、サンカンペーンの鉄絵魚文といえば、この手で代表される文様である。この魚文は、北タイに棲息する鯉科の魚を写したもので細身の魚である。パネル写真を見れば分かるが、鱗を持っている。

 

(パヤオ:ワット・シーコムカム付属博物館展示パネルより)

サンカンペーンの鉄絵では、この鱗は長めの点で表現されており、図鑑や写真にあるような魚を写したものと思われるが、観念的に抽象化した魚文となっている。 

次に魚の形をした判子を作り、それを器面に押して文様とした印花(いんか)魚文について考察する。以下、代表的なサンカンペーン印花双魚文盤である。

 

(サンカンペーン褐釉双魚文盤:町田市立博物館)

サンカンペーン印花魚文の特徴は、写真を見ても分かるように、背側の鰭が2箇所腹側が1箇所で、その鰭は三角帆のような形である。また顎に相当する部分が緩やかな曲線を描くのも特徴の一つである。下のスケッチはサンカンペーン印花魚文を写したもので、三角帆のような鰭と下顎の曲線は、サンカンペーンでは共通である。

 

それに対し、パヤオの魚文が下のスケッチである。サンカンペーンのそれと異なるのは背側の鰭が1箇所、腹側の鰭が2箇所である点である。腹側の鰭は三角帆であるが、背側も三角形であるものの、その角度は緩やかである。

 

次はナーン・ボスアックの印花魚文である。ボスアックの印花文は僅か4事例しか、筆者は知らないが、そのうち背側の鰭1箇所・腹側の鰭1箇所が3例。背側1箇所・腹側2箇所が1例であり、何れも鰭の形状はサンカンペーンのような三角形状ではないが、やはり下顎は他窯と同じように膨らみをもっている。

 

これらは、どのような魚を写したのであろうか?「ランナー・タイの魚」なるHPには、下の魚が紹介されている。

 

このパソイと呼ぶ魚は、いずれの側の鰭も三角帆形状であり、下顎の膨らみもあることからサンカンペーン、パヤオ、ナーン・ボスアック共に、このパソイを参考に印花文にしたのであろうと推測する。 
それにしてもなぜ窯によって鰭の数が異なるのであろうか? パソイと思われる魚を忠実に写しているのが、パヤオで背側、腹側の鰭の数が完全に一致している。それに対し鰭の三角帆形状が一致するのはサンカンペーンであるが、鰭の数が現物のパソイと一致しない。ナーン・ボスアックの魚文も鰭の数が一致しない。北タイ陶磁の特徴はあそこに在ってここに無い、ここに在ってあそこに無い・・・という特徴を持っており不思議の一つである。

以上、ここまで北タイ陶磁に描かれる魚文の考察を試みた。北タイの地形は複雑でありサンカンペーンのダム湖で20年前に釣りをして、そこの魚種について確かめたことはあるがカロン、パヤオ、ナーンについては全くしらない。前述図鑑や「ランナータイの魚」なるHPを援用しての考察であり、齟齬があるかも知れないことをお断りしておく。                

 

述べてきたように、北タイ陶磁の魚文様は東西の影響もあろうかと思うが、その背景は『米と魚』に示されたように、北タイで生きる人々と風土の産物で、魚文の形もそれに根差したものであろうことを紹介してきた。ところが、そう単純でもなさそうである。以降、その単純ではない魚文について触れることとする。

 

(サワンカローク陶磁器博物館:ピサヌローク)

大きな瓶というか壺はカロン鉄絵魚藻文壺である。この胴中央は圏線で区画され、其の中央は窓が設けられて鯉科の魚が悠然と泳いでいる姿が描かれている。その部分を拡大して表示する。

この魚文は中国元時代の青花磁(元染めと呼ぶ)に描かれる鯉科の魚とそっくり似ている。それは大越とか安南と呼ぶベトナム北部の陶磁器文様でもある。カロン鉄絵魚藻文壺の魚文は、経由されたベトナム北部の影響、踏み込んで云えば北ベトナムの陶工ないしは画工がカロンで描いたと想定できるであろう。その安南陶磁に描かれた魚文を次に紹介する。          
関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」なる書籍が存在する。氏が長年に渡ってコレクションしてきた、上質の安南陶磁について述べられている。

 

P313掲載の五彩四魚藻花文壺に描かれている魚文であるが、版権の都合があるので、その魚文の模写を下に掲げる。

 

模写の魚文とカロンの鉄絵魚文が似ている点を御理解頂けたと考える。このように北タイ陶磁の魚文は、北タイ独自の姿・形をした文様だけではなく、中国や北ベトナムの影響を受けた文様が存在していたのである。

また、サンカンペーン等々の双魚文の陰陽(太極)配置は、中国の陰陽道の影響を受けていたと考えられる。タイ族や山岳少数民族は中国から南下した過去をもっており、やはり中国の影響を受けずにはいられなかった証であろう。

話しをややこしくして恐縮であるが双魚文については、中国のみならず西方にも存在する。イスラエル北部にガリラヤ湖なる湖が在る。そこには多くの魚が存在するが、その魚は使徒ペテロ(ペトロ)が、ガリラヤ湖の漁師であったという福音書の記述にちなんで「聖ペテロの魚」と呼ばれているそうだ。そのガリラヤ湖の西北岸にタブハという村が在り、イエスが2匹の魚と5つのパンで5000人を満腹にさせた奇跡が起こった。その場所に奇跡を記念した、その名も「パンと魚の奇跡の教会:Multiplication of the Loaves and the Fishes」なる教会があり、そこに2匹の魚のモザイクが残っている。

 

(出典:ウキペディア)

それは2匹の魚とあるように双魚であるが、魚の向きは同じ方向で陰陽配置ではないので、北タイの双魚と直接的関りはないようである。

西方の双魚の二つ目である。古代インドの天文である黄道十二宮に双魚宮(Pisces:ピスケス)があり、占星術では魚座とある。その初出は古代インドではなく、古代バビロニア(前19世紀-前16世紀)で、西に伝わったものがギリシャ神話の体系に組込まれ、インドにはギリシャから紀元前後に伝播したようである。

三つ目は先にも触れたが、インド仏教の仏足石に描かれる双魚も東南アジアに伝播した。タイでは涅槃仏をみることができるが、その涅槃仏の足裏文様(仏足跡)に双魚をみる。下の写真はランパーンのワット・ポンサヌックヌーアのそれである。これは中国とことなり、魚の配置は陰陽ではなく西方インドの影響であろう。

 

(涅槃仏・仏足跡文様:ワット・ポンサヌックヌーアにて)

このように西方の影響も受けていたと思われ、次回はそのことについて紹介する予定である。

 

<続く>


北タイ陶磁の魚文様(前編)

2019-08-30 08:09:33 | 北タイ陶磁

当該記事でブログ開設以来1503回となった。過去、ブログ開設1500回記事&5周年記念として、『北タイ陶磁特集』を連載すると予告してきたが、今回よりその連載を開始する。

初回は『北タイ陶磁の魚文様』とのテーマで前編・中編・後編の3回に渡って紹介する。スコータイ王国やランナー王国の陶磁器文様には魚の文様が頻出する。何故魚なのか雑感風にまとめたものである。

先ず魚が描かれている北タイ陶磁器の幾つかを紹介することから始めたい。最初は日本で宋胡録と呼ぶスコータイ窯の鉄絵魚文盤である。以下、同じように宋胡録と呼ぶシーサッチャナーライの鉄絵魚文盤とカロン、サンカンペーンの鉄絵双魚文盤を順次紹介する。

(スコータイ鉄絵魚文盤:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)

(シーサッチャナーライ鉄絵魚文盤:町田市立博物館)

 (カロン鉄絵双魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Borderより)

 (サンカンペーン鉄絵双魚文盤:町田市立博物館)

北タイの陶磁器文様に魚が描かれていることがお分かりいただけたであろう。

 

『米と魚』なる書籍から、魚の文様が用いられている背景にせまりたい。その書籍は佐藤洋一郎氏の編書であり、学問的に裏付けられた書籍である。最近目にして米と魚の結びつきを再認識した。

かつて故・柳田国男氏は稲作の日本への伝播について『海の道』を唱えた。それは南の島嶼伝いに伝播したとの説で、単なる読み物、物語の域を出ないものと揶揄されてきた。しかし、筆者がフィリピンのセブ島で目にしたものは、弥生期の高床式住居や高倉に似た建物がフィリピンにも存在し、更に弥生期の甕棺と同じような棺桶も存在したのである。柳田国男説はたんなる物語なのか? それを調べる過程で、佐藤洋一郎氏の編書である『米と魚』という書籍の存在を知ったのである。

 

佐藤洋一郎氏は『米と魚、その同所性』というワードを使って説明している。日本では近世に至るまで、田圃の灌漑は近くの河川や溜池から取水した。それと同時にタガメやドジョウ、メダカや鮒が田圃に流れ込み、一部は留まり一部は下手の田圃や河川の下流または溜池に移動する。これらの小動物は雑草の生育を阻害し、その糞は稲の生育の助けとなる・・・これを佐藤洋一郎氏は『同所性』というキーワードで表現している。

この『米と魚』なる書籍を読んでいると、子供の頃(昭和30年前後)のことを思い出した。5~6月頃田圃に入ると、沢山のドジョウがいたのである。農薬を大量に使いだす前のことである。このことは日本のみならずモンスーンアジアの多くの地域における共通項だと云う。モンスーンアジアでは沿岸地域は海の魚により蛋白質を摂取できたかと思われるが、内陸部の魚と云えば淡水魚である。その淡水魚を焼いたり煮物にして食した。漁がなかった時のために干物にしたり、『ナレズシ』に代表される発酵、それも微生物や酵素を使った発酵法により保存されてきた。日本で『しょっつる』、ベトナムでニョクマム、タイでナンプラーとよぶ魚醤は、魚肉の細胞の蛋白質分解酵素の働きを借りて発酵をすすめたものである。

しかし東南アジアの全てが水田稲作地帯ではなく、丘陵部では取水困難な場所も存在した。そこは焼畑での陸稲(おかぼ)栽培である。陸稲栽培は冠水した水田ではないので、淡水魚とは縁がなかろうと思われがちだが、そこには縁があったのである。佐藤洋一郎氏によると、氏がラオス・ルアンプラバーン郊外で焼畑の調査をしていた時、焼畑の種まきの前に付近の山から竹を切ってくると、それで簡単な祠をつくり、高さ1mほどの竹竿の上に載せる。祠にはいくつかの装飾をつけるが、其の中に魚をかたどったものがある。村人の説明では、それは穀物を食べる鼠を獲ってくれる猫の好物だからだという。この説明では、魚は鼠の天敵である猫のためのものだが、それは同時に魚の存在証明になっている・・・と、佐藤洋一郎氏は記すが似たような話があり、それは後述する。

メコン川流域のラオスでは、田圃の中に縦横1~2m、深さ1.5~2mくらいの穴を掘る。乾季になって周囲の水が引けば穴に入った魚は取り残されるので、これを獲るのである・・・とも記されている。日本の稲作地帯でも溜池をみるが、灌漑用途のみならず、淡水魚の供給源でもあったことが伺われる。以上『米と魚、その同所性』について要点を紹介した。       

『米と魚』について論じているが、それと北タイで見かける装飾文様との関連を考えてみたい。北タイの山岳少数民族が、銀製の装飾物で身を飾ることを御存じの方は多いと思われる。その銀製の装飾物は何故か魚である。

 

 (チェンマイ山岳民族博物館展示)

 

 (ハノイ女性博物館展示)

上からチェンマイ山岳民族博物館展示のリス族の銀製ネックレスである。下は北タイではないが、北ベトナムに居住するタイ族の銀製ネックレスで、いずれも魚をモチーフとしている。チェンマイ在住者でこのような魚のネックレス等の装飾物を目にされた方々は多いと考えている。更に北タイの陶磁器文様に『魚』が頻出する。スコータイでは単魚文が多いが、チェンマイ以北では双魚文が圧倒的で複数魚文も存在する。

銀製ネックレスや装飾品と共に陶磁器文様の魚文を見ると『何故・魚文なのか』・・・と云う想いが頭をよぎる。中国では古来より魚の卵は多産で、子宝に恵まれ家門繁栄を示す吉祥文であると云われてきた。更に双魚文は陰陽配置が殆どであることから、陰陽道の影響を受けたとか、景徳鎮の染付文様の影響、更には龍泉窯の青磁貼花双魚文の影響を受けたと喧伝されている。そのような言説を受け、バンコク北郊ランシットに在るバンコク大学付属東南アジア陶磁館では、下の写真のように右に龍泉窯・青磁貼花双魚文盤を左にサンカンペーン・褐釉印花双魚文盤を並べて展示している。

 (バンコク大学付属東南アジア陶磁館展示)

何故・魚文なのかについては、インドの影響もあろう。中世の北タイはヒンズー教と上座部や後期大乗仏教の影響を受けた占星術(ホーラーサート)がある。いわゆる星占いの双魚宮、それは黄道十二宮の一つである。

 

(ワット・ノンナム碑文:ランプーン国立博物館展示)

ランプーンのワット・ノンナムの碑文(1489年ランナー文字で記され建立)の事例を紹介する。二重円圏の中の外周部は十二分割されている。この中に十二宮が配置される、それは占星術の星座で双子座、牡牛座、牡羊座、魚座、水瓶座、山羊座、射手座、蠍座、天秤座、乙女座、獅子座、蟹座である。このように中世のランナー領域は、インド占星術の影響を直接受けていたのである。

更にインド仏教では、双魚は八吉祥とか八宝の一つとされ、自由に水中を泳ぎ回れることから幸せのシンボルで、繁殖と豊富さを表しているとされた。つまり西方インドの影響であろうとの議論である。更なる西方イスラムの陶磁器文様にも双魚や三魚文が存在することから、西方の影響もあろうかとも考えていた。中国や西方インドからの影響はありそうだが、何かしっくりしない思いが残る。 

ところが『米と魚、その同所性』を読むにつけて上述の認識は、ややズレが感じられる。魚文のネックレスや陶磁器文様を見るにつけ、中国や西方インド云々では、中世北タイで日常生活を営んだ人々の声が聞こえてこない。上述の背景認識よりも、日々の営みである稲作と、その田圃や周辺湖沼・河川での淡水魚の漁撈は日常的であり、副食のメインである魚が陶磁器に描かれたと理解する方が納得感が高いと感ずる。以上のようなことで、北タイ山岳民族の首飾りや陶磁器装飾文様に頻出する魚文が、足が浮いたような中國やインドの影響といった話しのみではなく、日々の営みの上に成立したものだと確信した次第である。                  

振り返ってみると、北タイで以下の風景を過去に見て来たが鈍感の為せる業、『米と魚の同所性』なぞついぞ感じなかった。書籍『米と魚』を読んで見つめ直してみる。

 

写真は2010年10月末のチェンマイ県メーテン郡の田園風景で、同所のインターキン古窯址へ行った際に写したものである。稲の刈取りには今少し時間を要するであろうが、立派な穂が沢山ついている。写真を注視すると田圃は方形に区画整理されている。メーテンには取水用のかなり大規模なクリークが存在する。そのクリークと区画整理は一体のものと思われ、ここには『米と魚の同所性』は失われているであろうと思われる(実際はどうか不明)。

次はチェンライ県パーン郡の水田である。パーンのサイカーオ古窯址訪問の際に見た、現地の田園風景である。

ここも一枚の田は広い様である。写真左上は溜池で書籍『米と魚』に表現されている田圃の中に溜池が存在する典型例のようにみえる。

 

その様子をグーグルアースにより俯瞰してみる。田圃の中に多数の溜池と、今となっては整備された用水路を見ることができる。乾季のみならず、この溜池で漁撈していると考えて良いだろう。普通に考えて一枚の田圃に多くの溜池を分散して置く必然性は漁撈以外に考えにくい。

以上、北タイにおける平地の田圃を紹介してきたが、なだらかな丘陵傾斜地の棚田の様子も紹介しておく。

 

チェンマイ郊外メーリムの谷筋の丘陵傾斜地の棚田である。田植え後1週間程度であろうか。これだけ見ていると、田圃に淡水魚類が棲息しているかどうか判断できないが、近くに溜池が存在する。

谷筋の河川から引水し溜池に流し込み、田圃の灌漑は溜池から行っている様子である。従って淡水魚は棚田ではなく溜池に棲息しているであろう。過去の資料を引っ張り出し、北タイの『米と魚の同所性』について確認してみた。やはり佐藤洋一郎氏の論旨に該当するようである。            

さて漁撈用具であるが、それを展示しているのはチェンマイ山岳民族博物館である。

山岳民の人形の横に縦長の竹網籠が見えるが、日本でも見るような淡水漁撈具である。残念ながら実際に漁撈している現場は、未だ実見していない。

 

ここまで話がまとまると、ある二つの想いがよぎる。先ずは、ラームカムヘーン王碑文に銘文が刻まれている。ในน้ำมีปลา ในนามีข้าว・・・(水に魚在り、田に米在り・・・)との文言である。

二つ目は、北タイの稲作儀礼に魚が登場する。それは「岩田慶治著・日本文化のふるさと・角川選書」に、タイ・ヤーイ(シャン)族の稲作儀礼が紹介され、稲穂が成長すると稲田の端にケーン・ピーと称する小祠を建てるとのことである。ケーン・ピーに招かれるのは、稲の守護神であり、それは女性のピーであると云う。そのケーン・ピーの周囲には、色々なターレオを掲げて悪霊の侵入を防いでいるが、幟状のそれは百足(ムカデ)の形、魚の形をしたものである。岩田慶治氏によれば、陸棲動物の代表ムカデと水棲動物の代表魚がともに稲のピーの守護にあたっていると云う。その図を模写して掲げておく。

尚、チェンマイではローイクラトン前にガティン祭りが開催され、それを祝うムカデの幟(トゥン)が街角に立つ。年に一度の大規模な功徳を施す行事であるが、それは元々タイ族の収穫儀礼であったのである。

 

横道に反れたが、ターレオは何度も目にしているが、このケーン・ピーは残念ながら未だに見ていない。

更に収穫儀礼でもトライ・カムプリアンなる小魚の串刺しが登場する。岩田慶治氏は同書に以下の如く記す。『大昔には、稲が実っても稲刈りなどしなくてもよかった。籾(もみ)が自ら空を飛んで、パラパラと米倉に降ってきたからである。ところがあるときのこと、米倉の隣の若夫婦が不快な音をたてて稲のカミを驚かせてしまった。それに加え稲のカミに不謹慎な言葉を口にしたのである。稲のカミは立腹して、高い山の入口の狭い穴に逃げ込むこととなった。稲のカミが不在になるとクニ中の人々が飢えに苦しむこととなった。そこで稲のカミを連れ戻すための使者に選ばれたのがトライ・カムプリアンで、苦心の末に穴ぐらに入り込み、稲のカミを連れ戻したのである。しかしそれ以来、トライ・カムプリアンは狭い穴に入るため魚体が扁平になったのである。』

この説話は、2つのことを示している。一つ目は、稲(米)と魚の結びつきは古来からのものであること。二つ目は、その魚は扁平であることが示されている。

以上、北タイにおける銀の装飾品や陶磁器文様が魚である背景を理解して頂けたものと考える。

 

<続く>