過日、十数年振りに沓掛から老ノ坂を越えて園部は南丹市立文化博物館へ。過去、京都にいた時は何度か、老ノ坂を越えて亀岡へ出かけたこともあるが、園部は初めてである。
老ノ坂と云えば明智光秀が、この坂を一気に下り本能寺へ・・・と云うことで十数年振りでもあり、それなりの感慨を覚えた。
園部は小出氏の城下町である。目的の南丹市立文化博物館は、天守閣を模した建物に接していた。
<了>
過日、十数年振りに沓掛から老ノ坂を越えて園部は南丹市立文化博物館へ。過去、京都にいた時は何度か、老ノ坂を越えて亀岡へ出かけたこともあるが、園部は初めてである。
老ノ坂と云えば明智光秀が、この坂を一気に下り本能寺へ・・・と云うことで十数年振りでもあり、それなりの感慨を覚えた。
園部は小出氏の城下町である。目的の南丹市立文化博物館は、天守閣を模した建物に接していた。
<了>
京都のこの時期と云えば、神崎屋の筍と筍弁当である。筍をそれなりの量購入し、昼食にと筍弁当を購入した。帰途途中のSAにて食した。神崎屋の筍と筍弁当は22年前の2000年3月からの年中行事となっている。
筍弁当もいけるが、ほっかほっかの焼き筍の味も格別である。京都にお住いの人々は、旬の料理に舌鼓を打てて羨ましい限りである。
<了>
3カ月振りの京都だが、太秦広隆寺は云十年振りに遣って来た。目的は弥勒菩薩半跏思惟像を見たいがためである。
半跏思惟像は、釈迦(シッダルータ)の成道前の姿で、思い悩んでいる姿を写したものと云われている。これについて、広隆寺のパンフレットは、『一切衆生をいかにして救おうかと考えている』姿を表している・・・と記載されている。
パンフレットには広隆寺の沿革として、以下のように記している。“推古天皇十一年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七寺の一つである。広隆寺の成立について、日本書紀によると秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として建立したとあり、その本尊が現存する弥勒菩薩であることが、広隆寺資財交替実録帳をみると明らかである。”
(弥勒菩薩半跏思惟像が安置されている霊宝殿)
(絵葉書より)
このように秦河勝が建立した寺院で、秦氏は3世紀ころに秦國から百済を経由して帰化した、渡来の氏族であると考えられる。従って半跏思惟像は百済仏の影響と考えられ、椅子に座す弥勒菩薩半跏思惟像は、朝鮮半島で誕生したと考えられている。椅子は北方騎馬遊牧民が用いていたもので、騎馬民族の慣習が何某かの影響を与えていたと考えられる。
<了>
和菓子の三大産地は、京都、金沢と我が田舎の東隣・松江とのこと。松江は、江戸後期の藩主・松平治郷(不昧公)で不昧流の始祖以来の和菓子産地である。歴史からも、菓舗の数からも京都には遠く及ばない。
京都は歴史上も多くの和菓子菓舗を有す。銘菓『涛々』を販売する「京華堂利保」は、メジャーな存在ではないと思うが、『涛々』は当該ブロガーの勝手な判断では京都一で、虎屋や吉富などは足下にも及ばないと思っている。
麩焼き煎餅二枚で、大徳寺納豆入り漉し餡を挟んでいる。大徳寺納豆と小豆漉し餡の絶妙なバランスが、何とも表現のしようがない。
『涛々』は武者小路千家官休庵にちなむようだが、そのような由来など関係ないと、『涛々』自身が云っているように思える。京都にお越しの際は是非とも御賞味のほどを。
高島屋京都店では販売しておらず、菓舗まで出向く必要がある。場所は鴨川沿いから二条通りを東に200mほど入ったところ、残念ながら駐車場無しである。
<了>
<続き>
近為となり田は漬物屋さん。
つたやと平野屋は鳥居本。
下の三つは二年坂。
今回は、これで一旦休止。次回は話題が尽きたころ紹介したい。
<一旦休止>