再び古い噺であるが2013年12月19日、ハジャイ(Hat Yai)からマレーシアに向かって3ルートある内、サダオ市街を抜けるルートで、国境越えすべく8:30に宿泊先を出発した。ホテルから乗用車でピックアップされ、ハジャイ駅前のツーリストでミニバスに乗り換え、国境を目指すことになった。(写真はツリーストに掲げられている、各地へのミニバス発車時刻表である。)



つい最近と云っても昨年(2016)11月2日夜のことであるが、パタニー、ナラティワート、ヤラー、ソンクラー県の十数カ所で銃撃、爆破、放火が相次ぎ3人が死亡、数人が怪我をした。パタニーでは、ガソリンスタンド併設のセブン・イレブンが放火され、ソンクラーでは、いすゞ自動車のショールーム前で、警備員2名が射殺され爆弾が炸裂した。いずれもマレー・イスラム武装勢力による犯行と云われている。
噺が古くて恐縮である。クアラルンプール(KL)でロングステー中のことである。2013年12月18日から1泊2日の予定で、タイの深南部の中心ハジャイに飛んだ。この深南部はタイにあって最も危険地帯である。その理由は上述のイスラム武装勢力によるテロの勃発である。
目的は、そんなハジャイを見てみたい、近くのソンクラー国立博物館を見学したい、更には北タイのナーン(Nan)行きエアー・チケットを入手するためである。
KLIA(クアラルンプール国際空港)からHat Yai(ハジャイ)へは、Air Asiaである。当該ブロガーは、エアーチケットの入手の際、キャッシュカードの使用を嫌うため、海外では特にそうだが、現金支払いのできるAir Asiaのオフィスへ出向いた。


<続き>
北ベトナム・ドゥオンサー窯とクメールの施釉陶、ミャンマー・ピュー王国(3世紀ー10世紀)の施釉陶は奇しくも9世紀頃に、ほぼ同時にスタートしたが、なかでもピューが最も早かったようである。唐代の「新唐書」や「蛮書」によれば驃国について、屋根が輝く甍で葺かれ、城壁が焼物であると記述する。8世紀には施釉陶が存在していた可能性が高いと云われている。
驃国(ピュー)の王都であるシュリークシェートラの名称は、インドのオリッサ地方の都市の旧称に由来すると云われている。それもあってか、ピューの焼物は西アジアのペルシャに由来し、伝承したものと考えられている。そう考えられる背景の一つに、ピューの輝く甍は緑釉であろうと思われる点にある。
そこで前回末尾に記載した、ドン・ハイン氏の論述である。パガン近郊で9世紀以前から横焔式窯が使われてきた・・・との論述である。根拠不明の噺を取り上げるのも、多少おかしなことではあるが・・・。9世紀のパガンは驃国の版図内である。であれば、先の唐書や蛮書記載の甍に繋がるとも思われる。さらにパガンには多くのモン族が居住していたとも云われている。
津田武徳氏のレポートによれば、”モン(MON)陶磁の錫白釉に関して、中東からの影響が言われているが、アラカン陶磁ではとりわけ彩画にみる鳥文、白泥による絵付け、施釉砂岩タイルの文様など、中東からの影響が一層感じられる”・・・と記している。更に”錫白釉は、技術がアラカンからモンに伝わった可能性がある”、としている。これらの一連の西方の影響は無視できないものがあるが、体系的な考古学的発掘が今後進めば、これらの不明な点が明らかになるものと期待される。
それにしてもクメール陶に接するコラート高原から北タイ、中部タイはもとよりマレー半島、ミャンマーのエイヤワディー・デルタ更にはサルウィン川河口のマルタバン、モッタマの広範囲にモン(MON)族が顔を出す。しかも古代から近代にいたる期間を通じてである。そして東南アジア各地の陶業に関しても顔をだす。
モン族は、紀元前3000年から紀元前1500年の時期に東インドから移住を始めて、6世紀頃にはタイ・チャオプラヤ川流域の穀倉地帯に定住した。その後数世紀で西にも移住し、ミャンマーのエイャワディー・デルタに定着し、紀元前300年頃にタトゥンに興ったスワンナブミがモン族の最初の王朝といわれている。そして中世に至るまで重層的に西方と交易し、その文化を吸収してきた。これがモンの陶磁に少なからず影響を与えたと思われる。それはシーサッチャナーライ最初期のモン陶や北タイ陶磁の文様にも現れていると考えられる。←これについては、機会を設けてシリーズで別途紹介したい。
<了>
<続き>
窯詰め技法に、中国式を踏襲している形跡が認められる北ベトナムとシーサッチャナーライ及びスコータイと、口縁同士と高台同士を重ね合わせる北タイ、焼台のみ用いるクメール、ブリラムの大きく3種類の技法が確認できる。
これらは、陶窯地によってバラバラの印象を受ける。轆轤の回転方向とあわせ、これらの基礎技術の陶窯地間の断絶は、窯様式を含めた陶磁生産技術の伝播・伝承に疑問を呈する識者が存在する一方、ドン・ハイン氏は、これらを些末とは云わないものの、窯構造以外の生産技術は一切無視して、地下窯も地上窯も、その根源は中国にあり、そこより伝播したとしている。
当該ブログでは、轆轤の回転方向と窯詰めの2つの主要な生産技術について検討した。その結果は親元からの伝播に、必ずしも固執せず時間の経過と都合により、変化しうるとの推論に達した。結論としてはドン・ハイン氏の中国根源説通りであろう。その他の基礎技術については、北タイの陶窯地ごとに独自の進展を遂げたものと思われる。
では、北タイの立役者は誰であろうか、過去<インドシナの治乱攻防と窯業>で触れたようにモン族以外の何者でもないように思われる。関千里氏も、その著書「東南アジアの古美術」で同様な見解をしめしておられる。そしてモン族はクメールの装飾技術を中部タイ・北タイに伝播する役目もになった。例えば、クメールの褐釉と黄釉の2色掛け分けは、シーサッチャナーライのみならず北タイ各地でも見ることができる。
しかしながら、この結論は現時点での結論であり、将来東南アジア特にミャンマーの考古学的新知見により、修正を迫られる可能性がある。
ドン・ハイン氏は根拠を示していないので真偽不明ながら、パガン近郊で9世紀以前から横焔式窯が使われてきたと記している。ミャンマー古窯址と古陶磁に詳しい津田武徳氏は、この件にまったく触れておられず不明な点が多い。それに代わる話といえば語弊があるが、津田氏はアラカンのミャウッウは1430年からアラカン王国の都であった。そこに横焔式窯であろうと思われる数基の窯址が存在すると云う。出土する陶磁片から考察するに、中国と云うより西方の臭いがする。・・・これらの事が残された課題である。
次回、これを<エピローグ・その2>として考察し、長かったシリーズを終了したい。
<続く>