世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

橿原考古学研究所付属博物館(13)

2022-04-23 07:56:18 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は、桜井市のメスリ山古墳出土品を紹介する。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がなく、不思議と云えば不思議である。墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられると云われている。

玉杖や多くの鉄製品が出土している。大王かどうかは別にして、被葬者は権力者であったことが伺われる。

<続く>


橿原考古学研究所付属博物館(12)

2022-04-22 08:07:19 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は古墳時代前期の黒塚古墳出土品のうち鉄製品を紹介する。黒塚古墳と云えば大量(33面)の三角縁神獣鏡(正確には三角縁神獣鏡32面と三角縁盤龍鏡1面)と画文帯神獣鏡1面が出土したことで名が知られている(ココ参照)

以下、同じ古墳時代前期の天神山古墳、下池山古墳出土の制銅鏡を紹介する。

弥生時代後期の纏向遺跡にも感心するが、ヤマトの力を見せつけられるのは、一気に規模の大きな前方後円墳の出現と、大量な副葬品の数々である。特に古墳時代前期で貴重な物は鉄製品であるが、それが大量に副葬されていた。やはりヤマトの勢力は並外れていたと思わざるを得ない。

<続く>


橿原考古学研究所付属博物館(10)

2022-04-18 09:07:15 | 博物館・奈良県

<続き>

長らく中断していたが再開する。今回は”王権へのあゆみ”とのテーマで展示されていた遺物の紹介である。

戈形木製品は銅戈を写したもので実用的ではない。祭祀に用いられたものと思われる。

弥生時代中期は、まだまだ青銅製品や鉄製品は貴重なもので、縄文以来の打製石器や磨製石器が主流であったことを示している。

<続く>


伊太祁曾神社(弐)

2022-04-17 07:40:12 | 和歌山県

〇五十猛命がつなぐ出雲と紀伊

前回記したように、五十猛命は出雲と石見の国境・五十猛浜に上陸し、木の種を全国各地に蒔いたあと、木の国(紀伊)に天降られた。これだけなら、ああ~そうですかの類で終わりであるが、後刻、和歌山県立風土記の丘資料館を観覧して、驚いた代物に出会ったのである。

(写真左端が太田・黒田遺跡出土銅鐸 於・和歌山県立風土記の丘資料館)

(太田・黒田遺跡出土銅鐸 出典・和歌山県HP スポットを当てて写真を撮らなかったため借用

それは、和歌山市太田(おおだ)・黒田遺跡(弥生時代)から出土した銅鐸が、出雲・加茂岩倉遺跡出土の4、7、19、22号銅鐸と同じ鋳型で鋳造された同范銅鐸、いわゆる兄弟銅鐸であるという。その銅鐸を目の前にして、”な~んだこれは”・・・との感慨が湧く。加茂岩倉の4つの銅鐸と同じ鋳型だという。これ以外に兄弟銅鐸は知られていない。

(加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口(個)の展示ブース 県立古代出雲歴史博物館)

(加茂岩倉出土4号銅鐸)

(加茂岩倉出土22号銅鐸)

ここで課題は、これらの銅鐸の鋳造地が何処か・・・畿内か出雲か?畿内であれば、太田・黒田以外の畿内のどこかで、兄弟銅鐸が出土しているはずだが、それは見当たらない。素人の門外漢であってみれば、出雲が鋳造地と考えている。五十猛命が木の種と共に銅鐸を紀伊に運んだとの妄想が湧く。いや妄想ではなく、五十猛命以外に出雲と紀伊の交易なり交流が存在していた証であろう。

それにしても、考古学者が同一鋳型の銅鐸と見抜くことに感心する。余程、基礎データがしっかりしているものと拝察する。

<了>