1982年創業。2010年、データベースで著名なオラクルに吸収合併された。
社名はStanford Uiversity Networkの頭文字のSUNによる。太陽ではありません。念のため。大学院で学ぶ学生たちが、大学内のネットワークに繋いで使うワークステーションを自ら作成した。それを事業化して誕生したのが、サンマイクロシステムズだった。ネットワーク、特にUNIX系のネットワークでは端末として多いに売れた。スーパーエンジニアであるビル・ジョイを16番目の社員として向か入れた。ビルはUCLAバークレー分校で、バークレー版のUNIXを既に開発していた。UNIXの標準エディタのvi、ネットワークファイルシステムであるNFS、機種依存性が低いJavaなど今につながる多くの技術を作成した。UNIXウィザードの面目躍如だ。かつて、社でSUN-3購入間もない頃、一人SUN-3を深夜に、分解して部品構成を調べた。基盤に載っている大半の、99.9%の部品は日本製だった。しかも、メーカーはTOSHIBA一社だった。因みに、ディスプレイはナショナル、現パナソニック製だった。それからしばらくして、日本サンマイクロシステムズ社が設立された。初代社長は東芝の天羽(あもう)さんだった。
昨今若干世間をお騒がせしている東芝。日本のエクセレントカンパニーの代表格である東芝が部品面で多いに協力した。日本サンマイクロシステムズ・ユーザーズグループの立ち上げ時、その設立総会が東京で開催された。ビルの来日講演も企画されており、参加した。懇親会の席で、ビルを紹介された。さりげなくSUNの構成部品の大半が日本製であることにふれた。何か、それなりの訳が有るのかと聞いた。ビルは、ニッコリ笑いながら「我々は、最高の製品をユーザーに届けたい。現状でベストな選択が東芝の部品だ。もし、仮にGEが東芝以上に故障率の低い製品を開発販売するならば、その時はそれを採用するだろう。どこの国かに拘らず、我々は常にベストな部品を採用し、最高の製品をこれからも市場に出し続けるだろう。」と静かな語り口の中にも力強い意志を感じさせる物腰だった。SUN-3はモトローラー系のCPUを採用していた。日本でも、シャープが同じCPUを採用しGUIのX6800シリーズをすでに市場に集荷していた。ビルは結構日本贔屓なところがあり、自身の名前も漢字で、「美流上位」と書くほどだった。(背中に大きく美流上位と書いた半被が彼のお気に入りアイテムだった。)
1982年以降、1990年代半ばまでユニックス分野では、サンマイクロシステムズの独壇場だった。従業員も9万人を超えるまでに成長した。CEOのスコット・マクネリーは雑誌フォーブスの表紙を飾ったこともある。最高の株価は1株60ドル超を2000年に記録する。
死角が全くないのかと思えるほど、ワークステーションは売れに売れた。しかし、PCの追い上げとビジネス分野での受注減が徐々にボディーブローとして、聞き始めた。2005年1月、ビル・ジョイはサンマイクロシステムズ社を退社した。2009年IBMとの合併話が流れた。翌年、2010年にはデータベースベンダーの老舗、オラクルに吸収合併された。
ユニックス、ワークステーションではX-windows(MIT)が業界標準であるが、SUN-VIEWも使いやすいウィンドウシステムだった。
ビル・ジョイの作成したものでは、やはりC-shellが有名だ。コンピュータシーンではUNIX普及の立役者はこのサンマイクロシステムズをおいて他にない。日本では、ソニーのNews(ネットワーク・エンジニアリング・ワークステーション)がスーパーマイクロ事業部で設計開発された。多くの技術者に愛され続けたサンマイクロシステムズ社は、オープンソフトを標榜する企業としても有名だった。企業体質はマイクロソフトと真逆であるという。
現在はベンチャーキャピタルとして、多くのIT企業の発掘に忙しいビル・ジョイ。彼にはもう一度コンピュータ分野での活躍を願っている。