先の連休中に読了した小説です。
この通り購入後4年半も放置していました。
(今はその機能が消失したようですが、)アマゾンで注文したその日にFacebookで共有していたんですね。ついでながら、それから1ヶ月も経たない内にブックオフの220円コーナーで同じ2冊を見つけて地団駄を踏んだことも憶えています。
さて、なぜこの長編を手に取る気になったかといえば、新潮社の書評誌「波」で読んだ著者へのインタビューやその他のレビュー(たぶんこれ)で興味を持ったからだと思うのですが、「疎植」「穂肥」(ほごえ)「分蘖」(「分げつ」と仮名混じりにしない表記は今や珍しい)など農家が日常的に用いる言葉にとどまらず、「モノリス」「黒ボク土」「穎花原基」「一次枝梗」といった土壌学や作物学の研究者でなければまず口にしないであろう学術用語までもが頻出するため、それを知らずにこの書を読み始めたら目を白黒することは必定。それらを正確に使うため作家は農業試験場へ何度も取材に足を運んだそうですが、そこまでしないと気が済まない人なんでしょうね。(なお括弧書きの補足や注釈は一切なしで、読者を置き去りにすることも意に介してはいません。)そういう作風の著者に「描写が細かすぎる」と難癖を付けても始まりませんし、理解困難と感じられる記述をすっ飛ばしても十分楽しめる小説です。(ちなみに私が「この用法はちょっとどうかなあ?」と疑問を抱いた箇所がない訳でもなかったのですが、そんな揚げ足取りも野暮というものでしょう。)もちろん理解できたらできたで「一粒で2度美味しい」思いができるはずですが。
なおアマゾンの商品ページの紹介文などからもハッピーエンドでないことは知っていましたが、あのような書き方(登場人物から距離を置いた客観的記述)で終わるとは全く予想していませんでした。敢えて思い入れを排した結末にしたのは、主人公(ともう一人)があまりにも忍びなかったのか、読者の想像力に委ねようとしたのか、あるいはその両方?
また、その前に読んだ同じ著者の上の長編では最後に延々と続く教理問答(オウム真理教は仏教か否かについて)に嫌気が差してしまったことを考えれば、あのようなサラッとした終わり方も決して悪くないと思います。そして読み終えたのが能登の水害の直後だけに衝撃は倍になりました。被災された方々にこの場を借りてお見舞い申し上げます。