県内の動きも少し見ようかとSPACのページを検索してみたら、SPAC高校演劇フェスティバルの募集要項が掲載されていました。
読んだ瞬間、だめだこりゃ、と思わずにいられませんでした。
申し込んだ学校もあるでしょうから、なぜだめなのかを説明したいとおもます。ただし、なぜだめか、の前提として「高校生が演じるものとして」と「教育としての高校演劇」という意味でだめだといっていることを、お断りしておきます。
観客として観にいく人がいましたら、私がこれから書くことが正しいのか間違っているのかを検証して、できれば感想をもらえるとうれしいですね。
さて、なぜだめかの最大の理由は課題が別役実だということです。
ほとんどの高校生は別役実自体を知らないと思いますが、1970年代、つまり私が中学生から高校生のころに一番活躍した劇作家です。この作家の作品は一般に不条理劇と呼ばれているジャンルに属します。不条理劇の細かい説明は省略しますが、一時期日本では大変に人気があったことは確かです。
今回問題にしたいのは、別役作品は「語り」の芝居だからです。
以前にも説明したように、台詞は「説明」「語り」「会話」に別れていると、私は解釈しているます。
このうち、感情を表現するのは主に会話であって、「説明」は文字通り「語り」でも、感情はどちらかというと説明されるものです。
さて、不条理劇とは、AとBがお互いに自分を語り、そのかみ合わない部分が不条理として表現される芝居だと私は解釈しています。つまり、一見会話に見えるところも、実は語っているだけに過ぎない、ということになります。
「会話」では「感情」は生まれるものです、が「語り」では「感情」は主に「ある」ものです。
分かりにくいでしょ。
でも、この分かりにくさが、不条理劇の面白さなんです。
つまり、二人の人間が勝手なこと言っていて、傍から見ているとそれがずれているから面白いってやつです。見ている人間は、二人の中にある感情や出来事を類推する能力が問われますし、演じる側はそれを小出しに見せて大団円に持って行くことが要求されます。
なんだ、結構いいじゃないか、と思われるかもしれませんが、お芝居の面白さの本質は、感情の同化です。演じ手の感情に同化して、涙したり笑ったりがお芝居の醍醐味なのです。そういう意味では、不条理劇は演劇一般の中ではかなり特殊なジャンルだといえます。
では、具体的な問題点を整理してみます。
1.舞台で上演する必要があるのか
一度練習を目をつぶって聞いてみてください。
観ているよりも、芝居が面白く感じられませんか。
実は、私は別役実の作品を舞台で観て面白いと思ったことがほとんどありません。
ラジオドラマとか、舞台を観ないで聴いているだけならかなり面白いのですが。
これは、「語り」には役者は邪魔なのだからではないかと時には思ってしまいます。
これに対して「感情」の芝居は相手役の出方で感情がうまく表現されるかされないかが決まってきますから、役者の存在感を得やすい、という利点があるのです。
不条理劇の、この問題を克服するためには、存在感のある役者が演じる、というのが解決方法のひとつですが、高校生にそれを望むのはどうなんでしょう。
2.頭で理解する演劇になりやすい
高校演劇の欠点のひとつとして、作品が課題を持っていなければいけないとか、問題意識がないといけないとか、頭で理解する要素が大きいと、いうことが挙げられます。作品の理解が足りないとか、発表会の後の講評でよく言ってますよね。
実際には、役者が理解するとかしないとかよりも、演出の意図が明確ではないとか、演出が演技指導と演出を勘違いしている、というケースが多くて、結果として役者が作品を勘違いしているのです。
単純な構造の作品なら当たり前の感情を当たり前に構築していくと、こうした勘違いは低減します。
ところが、別役作品は前提としていろいろなものがあることから始まりますから、意味ばかりを追求しがちになります。
どこかで、解釈をひとつ間違えるとすべてが面白くなくなります。だから、最初に書いたように、感情をあまり入れないで、言葉だけを追いかけていたほうが観ている人間には面白くなるのです。
3.見る観客を忘れている
別役作品は文学的には優れていると私も思いますが、広く一般に受け入れられる作品だとは思いません。プロの公演でも小劇場でしか上演されてきていません。つまり、それだけ観客を選ぶのです。
高校生が演劇を上演して、観に来るのは誰でしょう。高校生です。
大人も観に来るかもしれませんが、演じている本人たちが受けたいのは誰でしょう。
果たして、観に来た高校生が別役作品を喜ぶでしょうか?
一番大切なのは、どうやったら観客を集められるか、その観客が継続して来てもらうにはどうしたらいいのか、ということを指導することだと私は思っています。
それから、ほとんどの高校生は将来、演劇で生計を立てるわけではありません。
その彼らには、あの時演劇をやっていてよかった、と思えるような何かを与える指導が今の高校演劇には欠けているような気がしています。
演技指導や演出指導だけが演劇ではないのだから、もっと教育という視点を持ってSPACには事に当たってもらいたいものです。なにせ、税金を払っているのは我々なのですから。
読んだ瞬間、だめだこりゃ、と思わずにいられませんでした。
申し込んだ学校もあるでしょうから、なぜだめなのかを説明したいとおもます。ただし、なぜだめか、の前提として「高校生が演じるものとして」と「教育としての高校演劇」という意味でだめだといっていることを、お断りしておきます。
観客として観にいく人がいましたら、私がこれから書くことが正しいのか間違っているのかを検証して、できれば感想をもらえるとうれしいですね。
さて、なぜだめかの最大の理由は課題が別役実だということです。
ほとんどの高校生は別役実自体を知らないと思いますが、1970年代、つまり私が中学生から高校生のころに一番活躍した劇作家です。この作家の作品は一般に不条理劇と呼ばれているジャンルに属します。不条理劇の細かい説明は省略しますが、一時期日本では大変に人気があったことは確かです。
今回問題にしたいのは、別役作品は「語り」の芝居だからです。
以前にも説明したように、台詞は「説明」「語り」「会話」に別れていると、私は解釈しているます。
このうち、感情を表現するのは主に会話であって、「説明」は文字通り「語り」でも、感情はどちらかというと説明されるものです。
さて、不条理劇とは、AとBがお互いに自分を語り、そのかみ合わない部分が不条理として表現される芝居だと私は解釈しています。つまり、一見会話に見えるところも、実は語っているだけに過ぎない、ということになります。
「会話」では「感情」は生まれるものです、が「語り」では「感情」は主に「ある」ものです。
分かりにくいでしょ。
でも、この分かりにくさが、不条理劇の面白さなんです。
つまり、二人の人間が勝手なこと言っていて、傍から見ているとそれがずれているから面白いってやつです。見ている人間は、二人の中にある感情や出来事を類推する能力が問われますし、演じる側はそれを小出しに見せて大団円に持って行くことが要求されます。
なんだ、結構いいじゃないか、と思われるかもしれませんが、お芝居の面白さの本質は、感情の同化です。演じ手の感情に同化して、涙したり笑ったりがお芝居の醍醐味なのです。そういう意味では、不条理劇は演劇一般の中ではかなり特殊なジャンルだといえます。
では、具体的な問題点を整理してみます。
1.舞台で上演する必要があるのか
一度練習を目をつぶって聞いてみてください。
観ているよりも、芝居が面白く感じられませんか。
実は、私は別役実の作品を舞台で観て面白いと思ったことがほとんどありません。
ラジオドラマとか、舞台を観ないで聴いているだけならかなり面白いのですが。
これは、「語り」には役者は邪魔なのだからではないかと時には思ってしまいます。
これに対して「感情」の芝居は相手役の出方で感情がうまく表現されるかされないかが決まってきますから、役者の存在感を得やすい、という利点があるのです。
不条理劇の、この問題を克服するためには、存在感のある役者が演じる、というのが解決方法のひとつですが、高校生にそれを望むのはどうなんでしょう。
2.頭で理解する演劇になりやすい
高校演劇の欠点のひとつとして、作品が課題を持っていなければいけないとか、問題意識がないといけないとか、頭で理解する要素が大きいと、いうことが挙げられます。作品の理解が足りないとか、発表会の後の講評でよく言ってますよね。
実際には、役者が理解するとかしないとかよりも、演出の意図が明確ではないとか、演出が演技指導と演出を勘違いしている、というケースが多くて、結果として役者が作品を勘違いしているのです。
単純な構造の作品なら当たり前の感情を当たり前に構築していくと、こうした勘違いは低減します。
ところが、別役作品は前提としていろいろなものがあることから始まりますから、意味ばかりを追求しがちになります。
どこかで、解釈をひとつ間違えるとすべてが面白くなくなります。だから、最初に書いたように、感情をあまり入れないで、言葉だけを追いかけていたほうが観ている人間には面白くなるのです。
3.見る観客を忘れている
別役作品は文学的には優れていると私も思いますが、広く一般に受け入れられる作品だとは思いません。プロの公演でも小劇場でしか上演されてきていません。つまり、それだけ観客を選ぶのです。
高校生が演劇を上演して、観に来るのは誰でしょう。高校生です。
大人も観に来るかもしれませんが、演じている本人たちが受けたいのは誰でしょう。
果たして、観に来た高校生が別役作品を喜ぶでしょうか?
一番大切なのは、どうやったら観客を集められるか、その観客が継続して来てもらうにはどうしたらいいのか、ということを指導することだと私は思っています。
それから、ほとんどの高校生は将来、演劇で生計を立てるわけではありません。
その彼らには、あの時演劇をやっていてよかった、と思えるような何かを与える指導が今の高校演劇には欠けているような気がしています。
演技指導や演出指導だけが演劇ではないのだから、もっと教育という視点を持ってSPACには事に当たってもらいたいものです。なにせ、税金を払っているのは我々なのですから。