5月22日制作室の人たちに衝撃が走った。
口の悪い連中が「カッパの皿が干上がった」というのであった。
カッパさん、富岡厚司さんを影では、みんながそう呼んでいた。面倒見が良く部下から尊敬され、慕われていたので、愛着を込めてそう呼んでいた。が、本人はそう呼ばれるのをいたく、嫌っていた、面と向かってカッパさんなどと呼ぶと、げんこつをお見舞いされるので、けして呼べない愛称であった。
その富岡プロデューサーがギブアップしたというのであった。カッパは頭の皿が乾いてしまったら生きて入られないと言う。そのカッパさん、富岡プロデューサーが降りると言い出したと言うのであった。
「いま、先生や役員と話し合っている」という。どうもスケジュール管理をしていた、広川プロデューサーがいなくなって、それでなくても、ばらばらな上層部、仕上がりの流れが、掌握できなくて、パニックになってしまったらしい。
富岡プロデューサーがそんなになっているとは思ってもいなかったので、進行連中は責任を感じた、それを解決するには、進行それぞれの、持っている進行状態を上に報告するだけではなく、一つにまとめて把握して、かっぱさんに報告してあげればよいからであった。広川さんの代わりをすればよいのである。
スケジュールの管理は、進行連中のほうがなれていた。それでも進行状態を一つにまとめるのには、3日もかかってしまったが、25日には、まとめることができ、カッパさん富岡プロデューサーの「頭に水を入れる」ことができたので結果なんとか、光明が見えてきた、そしてカッパさんが復帰した。
いままで、「千夜一夜」の制作責任者の、命令系統がはっきりせず、最高責任者が富岡厚司プロデューサーであることを知らなかった進行もいたが、てんでんばらばらな命令を受けていたが、 このことで、誰の命令を優先すればよいのか、誰に報告をするのかが、はっきりした。「雨降って地固まる」で仕事の能率もあがり、一つにまとまった。
30日には暎一さんを中心に、どんどん撮影が上がった、そしてラッシュフィルムの編集が始まった。一スタ3階の16mm映写機には、スコープレンズが取り付けられて、ラッシュ試写も始まった。
6月になり手塚先生は突然、グループタックの田代さんを呼んで、前宣伝ができないため宣伝になる方法はないかと考えた、有名人や芸能人に一声ずつ、せりふを入れたいので協力してくれないかと頼んだ。
音響ではすでにダビング作業も始まっていたので、それどころではなかったが、田代さんは断らなかった「協力します」と答えていた、
そこで、手塚先生は、知人など片っ端から電話をして事情を説明し、「一言のせりふ」をお願いした。田代さんも有名人と交渉をした。承諾を得ると田代さんは携帯用のテープレコーダーを肩にかけて訪ねて行き、録音していった。
それは、11PMでおなじみの司会安藤 孝子さん 小説家、狐狸庵山人(こりあんさんじん)こと遠藤周作氏、11PM 司会の大橋巨泉氏、ベトナム戦争報道でのハノイ一番乗りしたジャーナリストの大森 実氏、1970年11月22日お亡くなりになった「毒舌の評論家」大宅壮一氏、作家 木崎国嘉氏、師とおなじ昆虫少年であり、精神科医でもある、どくとるマンボウシリーズで有名な小説家北杜夫氏、日本SF界を代表するSF作家 小松左京氏、小説家、推理作家また弁護士でもある佐賀 潜氏、「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」スマイリー小原とスカイライナーズの踊る指揮者 スマイリー小原氏、日本テレビ『笑点』の司会者(1966年5月から1969年11月) 立川談志氏、日本を代表するSF作家で、小松左京、星新一と並んで「御三家」と称される 筒井 康隆氏、テレビ、ラジオの構成作家 野末陳平氏、放送作家で1968年から放送された『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)での司会者、「マエタケ」事 前田武彦氏、1994年(平成6年)、癌のため、聖路加国際病院で永眠 NHKのアサドラ(朝のドラマ)「あぐり」の長男 小説家の 吉行淳之介氏、(あいうえお順)
そうそうたる面々であった。
口の悪い連中が「カッパの皿が干上がった」というのであった。
カッパさん、富岡厚司さんを影では、みんながそう呼んでいた。面倒見が良く部下から尊敬され、慕われていたので、愛着を込めてそう呼んでいた。が、本人はそう呼ばれるのをいたく、嫌っていた、面と向かってカッパさんなどと呼ぶと、げんこつをお見舞いされるので、けして呼べない愛称であった。
その富岡プロデューサーがギブアップしたというのであった。カッパは頭の皿が乾いてしまったら生きて入られないと言う。そのカッパさん、富岡プロデューサーが降りると言い出したと言うのであった。
「いま、先生や役員と話し合っている」という。どうもスケジュール管理をしていた、広川プロデューサーがいなくなって、それでなくても、ばらばらな上層部、仕上がりの流れが、掌握できなくて、パニックになってしまったらしい。
富岡プロデューサーがそんなになっているとは思ってもいなかったので、進行連中は責任を感じた、それを解決するには、進行それぞれの、持っている進行状態を上に報告するだけではなく、一つにまとめて把握して、かっぱさんに報告してあげればよいからであった。広川さんの代わりをすればよいのである。
スケジュールの管理は、進行連中のほうがなれていた。それでも進行状態を一つにまとめるのには、3日もかかってしまったが、25日には、まとめることができ、カッパさん富岡プロデューサーの「頭に水を入れる」ことができたので結果なんとか、光明が見えてきた、そしてカッパさんが復帰した。
いままで、「千夜一夜」の制作責任者の、命令系統がはっきりせず、最高責任者が富岡厚司プロデューサーであることを知らなかった進行もいたが、てんでんばらばらな命令を受けていたが、 このことで、誰の命令を優先すればよいのか、誰に報告をするのかが、はっきりした。「雨降って地固まる」で仕事の能率もあがり、一つにまとまった。
30日には暎一さんを中心に、どんどん撮影が上がった、そしてラッシュフィルムの編集が始まった。一スタ3階の16mm映写機には、スコープレンズが取り付けられて、ラッシュ試写も始まった。
6月になり手塚先生は突然、グループタックの田代さんを呼んで、前宣伝ができないため宣伝になる方法はないかと考えた、有名人や芸能人に一声ずつ、せりふを入れたいので協力してくれないかと頼んだ。
音響ではすでにダビング作業も始まっていたので、それどころではなかったが、田代さんは断らなかった「協力します」と答えていた、
そこで、手塚先生は、知人など片っ端から電話をして事情を説明し、「一言のせりふ」をお願いした。田代さんも有名人と交渉をした。承諾を得ると田代さんは携帯用のテープレコーダーを肩にかけて訪ねて行き、録音していった。
それは、11PMでおなじみの司会安藤 孝子さん 小説家、狐狸庵山人(こりあんさんじん)こと遠藤周作氏、11PM 司会の大橋巨泉氏、ベトナム戦争報道でのハノイ一番乗りしたジャーナリストの大森 実氏、1970年11月22日お亡くなりになった「毒舌の評論家」大宅壮一氏、作家 木崎国嘉氏、師とおなじ昆虫少年であり、精神科医でもある、どくとるマンボウシリーズで有名な小説家北杜夫氏、日本SF界を代表するSF作家 小松左京氏、小説家、推理作家また弁護士でもある佐賀 潜氏、「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」スマイリー小原とスカイライナーズの踊る指揮者 スマイリー小原氏、日本テレビ『笑点』の司会者(1966年5月から1969年11月) 立川談志氏、日本を代表するSF作家で、小松左京、星新一と並んで「御三家」と称される 筒井 康隆氏、テレビ、ラジオの構成作家 野末陳平氏、放送作家で1968年から放送された『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)での司会者、「マエタケ」事 前田武彦氏、1994年(平成6年)、癌のため、聖路加国際病院で永眠 NHKのアサドラ(朝のドラマ)「あぐり」の長男 小説家の 吉行淳之介氏、(あいうえお順)
そうそうたる面々であった。