真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

千夜一夜物語 6

2006年11月19日 13時02分03秒 | 虫プロ千夜一夜物語
4月に入り全社体制で「千夜一夜」へ取り掛かっていた。眠気覚ましにビートルズやジャズ、など夜通し音楽を鳴らしていた。それはまだ、カセットテープがない時代で、8トラックという装置であった。ガソリンスタンドなどにもテープは売っていたので、次々といろんなテープを買って来て8トラックステレオにかけて聞いていた。
 深夜になると、静かな音楽が人気があった、特にリクエストが多いのが「夜明けのスキャット」の由紀さおりさんの曲で「ヨーロッパ映画主題歌」のテープであった。歌詞の日本語訳がとても心を打って「見ない振りしてる間に、この部屋を出て」などの歌詞は、若者の心を捉え、暫し目をつむっているだけで、疲れが取れるような気がした。また、広沢虎蔵の「清水次郎長外伝、森の石松」の浪曲なども人気があった、空で覚えてしまうほどきいていた。これも8トラックテープであった。

 船頭多くしてで、2スタのプレハブにはプロデューサーと名の付く人たちが大勢居た、実際に動く進行にとって、命令系列がはっきりせず、Aさんにこういわれたが、Bさんは違う命令をする、と言うように混乱がひどかった。作画班も、寝ないで作業をし始めていた。
5月いっぱいで何とか上げようと言う熱意だけで必死であったが、すべての人が非常に疲れていた。進行は今までお願いしたことのある外注さんを思い出したり、やめて会社員や奥さんになっている人にも一人一人説得して、動画や仕上げをお願いしていた。そのためなら埼玉の川越や千葉の市川でも出かけていった。

 あるとき、プレハブの現場は、殺気立って居た、それでなくても体のあまり丈夫ではない広川プロデューサーが、疲れがたまり、隅で寝込んでいた。誰かが「もう何時間寝てるんだ?」と聞いた「2時間も寝てるよ」と答えた「なに!2時間も寝てんのかよ」「だれかおこせ!」

 今思えば正常ではない、2時間も、である。たった2時間寝ただけで、白い目で見られた。
みんなが、正常ではなくなっているときであった。その後、彼を見る目が、冷たくなっていたのであった。そのため、それでなくても疲れ切って気がめいっていたのに、精神的に陥ってしまった。そして広川さんは戦列を離脱せざるを得なかった。すでに人間性などなくなり、相手を思いやる心すらなくなっていた。

思いやりと言えば、5月、仕上班もすでに深夜まで作業をするのが、当たり前になっていた。作画の上がり次第で、時間が惜しいと、ただちに仕上の作業を始めるので、午前3時や4時に仕事が終わるのが、当たり前になってしまい。夜が明けてしまい6時や7時になることも多かった。
 やはり女性なので、身だしなみなどあるし、泊まれる場所もないので、一度、家に帰っていた、そのためには、始発まで待って、帰らねば、ならなかった。しかし虫プロの進行連中は紳士であった。早く帰って少しでも休息と取れるようにと、コースを決めて、仕事が終わった人から、同じ方向の人たちを、車で送って行っていた。
これは、上から言われたのではなく、自発的に始まった、変な下心ではなく、またそんなことを思う余裕すらもなく送ることにしていったのであった。
 進行連中の疲れはピークになっていたが、あと1ヶ月の辛抱で、倒れるまで続けるぞと全員が言っていた。
それからしばらくして一人のプロデューサーからクレームが出た、「送る必要はない」というのである。「会社から、交通費が出ている、早く帰りたいならタクシーをつかえ」「進行をこれ以上疲れさせたら、それでなくても遅れているのに間に合わなくなる、責任を取れるのか」
と言ういい分であった。
地頭と泣く子にはかなわない、精神的におかしい状態、制作を遅らせるのかと言われては、進行も説得できない、「ただ、女性に何かあったらどうするのですか」 と言うのが精一杯であった。
 そんなやり取りが昼間あって、「今日から送れないから」と女性たちに説明した。
家が近くのマヤさんが午前1時過ぎ、1人で歩いて帰宅した。しかしすぐに2スタの玄関へ逃げ込んできた。頭からは血を流している、すぐに、病院へ運び、警察も来たが、痴漢に殴られてしまったと言うことであった。 
なぜ、もっとプロデューサーに抵抗できなかったのか、送っていっていれば、怪我などさせてしまう事はなかったのに、進行連中は自分たちを責め反省した。そしてすぐに送っていくことを再開した。
あのプロデューサーからは、いまだに何も言ってこなかった。進行たちも何も言わなかった。
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