真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

千夜一夜物語 4

2006年11月17日 23時28分33秒 | 虫プロ千夜一夜物語
千夜一夜物語の読みかけを机に置き忘れていたが、手塚先生の目にふれた。

 手塚先生は「千夜一夜物語」を取り上げた、アイディアは泉のごとく吹き出した。
主人公をバグダッドの水売り「アルディン」にきめた。東映の時勉強したシンドバットやアリババが参考になった、それに旧約聖書のバベルの塔、お色気のために女護ヶ島等など。

 最初の問題が起きた、役員会から、3000万円の制作費の工面が出来ないという、いま虫プロでの収入源は「リボンの騎士」だけであった。500人に近づいている社員の給料を払うだけで、精一杯の状態であった。(単純に社員一人の給料を2万平均に計算しても、2万×500人=1千万円。リボンの騎士一本250万×月4本=1千万である、それに給料の平均が2万のわけが無い) そこで放送が決まった「わんぱく探偵団」の前渡し金を局から先払いしてもらって、やっとしのいでいた。いわゆる自転車操業といわれるものであった。
 銀行も貸してはくれなかった。担保もすでに無かった、手塚先生の屋敷すら、何重にも抵当権に入っていたのだった。

 日本ヘラルドへ借り入れができないかの交渉が始まった時には、昭和43年になっていた。この交渉は何度となく交わされ、3月になって、配給収入分配率を五分五分から七対三で合意に達した。
4月に両者の社長のあいだで契約調印が交わされていた。

制作プロデューサーが富岡厚司さんに決まる。手塚先生の指示ですぐに、山本暎一さんをチーフ・ディレクターとして説得する。
 手塚先生はシノップスの状態で行き詰まっていた、話があふれて、多すぎてまとまらない、どれもこれもやりたいと思う話ばかりなのであった。
(もしテレビシリーズが、可能であれば1時間番組で、半年は、続けられるほどであった。)
自分で削るのはなかなか出来ない、あれこれ考えているうち、削るどころか、かえって増えてしまうからだ。人の手を借りることが、解決する一番の方法であった。暎一さんらは穴見常務の親友であった「東京演劇アンサンブル」の熊井宏之さんに助けを求めた。

 手塚先生と打ち合わせを重ね、結果何とかハコガキが出来上がって話の全体が見え始めた。 忙しい中野手塚先生の校閲もやっと終わり、了解が出たところで、シナリオライターの深沢一夫さんにシナリオ制作を依頼した、すでに5月も終わろうとしていた。

 第二スタジオの1階に美術と作画の人が移った。 手塚先生は、ユニークなキャラクターを描く、漫画家のやなせたかしさんに、参加を依頼した、キャラクターや美術などの協力を頼んだ。
 やなせさんは絵本に詩を書いて出版しており、虫プロの若いスタッフたちにも人気があり、その詩集を読んでいる人もかなり居た。
6月には第二スタジオ1階設定室に、やなせ たかしさんが通ってきた。
 やなせ たかし先生は当時四谷駅から防衛庁(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)正門に行く道下り坂の左に住んでいた。学生運動が過激になり正門のそばと言うことで何かあるのではと恐れて、引っ越したいと言っていた。

シナリオはなかなか決まらず遅れに遅れた。
コメント
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