真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

7月15日  手塚治虫と黒澤明の関わり 1

2010年07月15日 23時44分26秒 | 手塚治虫
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10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさせていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。
10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさっていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。それが6月13日の事。
 その中に気になる文章があった。黒澤明と手塚治虫の関わりに付いて。
この件は、前に何かで読んで、少し勉強した。そこでこれを中心にしてアンケートに答えようと考えた。
 しかしそれは生半可のことではないと思いしる。まずはどこに書いてあったかである。
私の周りの本から調べる。老眼が気になりだしてから文章を読むのがかなり辛くなっている。その上右目と左目の見える角度が違うので2つの画面が見えてしまう。一昨年図書館で手塚治虫生誕80周年記念として東久留米図書館で貯蔵している図書をまとめて展示した。その時も何冊も借りている。家のほんだけでなく図書館も探さねばならぬ。
 私の,悪い癖で、直ぐに横道にそれてしまう。東久留米市の図書館にはビデオで黒澤明監督作品があったのである。凝り性の私は、黒澤明監督の作品を見もしないで書くのは失礼な事だと思った。そこで図書館に在る,黒澤明監督作品をまずは見てからアンケートを書くべきだと考えた。
そんな中,ラッキーなことが起きた。6月20日のことであった。2007年春モデルの富士通のパソコンFMVをとても安い値段で手に入れることが出来た。WindowsのVistaで Officeも2007が入っている。
不具合が出て前の持ち主が手放したらしいが、私の知識でも、何とかこれを修理して使えるようにできた。
すると使い勝手が良く、今まで調べたことを、ワードに書き込んでいった。
そしてエクセルで、私が持っている手塚治虫の関連本リストとあわせて東久留米図書館にある手塚治虫関連本のリストも作った。
その合間にも黒澤明作品を次々見た。
1943年つまり戦時中の作品「姿三四郎」
1944年女優さんを実際の工場に勤労奉仕をさせて作った作品「一番美しく」
1945年敗戦の年「續姿三四郎」「虎の尾を踏む男達」 3作品飛ばして
1948年の作品「醉いどれ天使」
1950年松竹での作「醜聞スキャンダル」 大映の「羅生門」
1951年松竹で「白痴」
1954年東宝で「七人の侍」
1955年「生きものの記録」
1957年「蜘蛛巣城」「どん底」
1961年黒澤プロ「用心棒」
1962年「椿三十郎」
1963年「天国と地獄」
オリンピックの年を挟んで
1965年「赤ひげ」
1970年四騎の会「どですかでん」
1980年黒澤プロ「影武者」
1985年ヘラルドの「乱」
1990年黒澤プロ「夢」
1993年「まあだだよ」
31作品中21作品を見だしたのであった。
そんな中、たくさんの手塚治虫,関係本の中から、やっと手塚治虫と黒澤明の関わりの文章を探し出すことが出来た。
6月29日の事、所蔵の中の一冊「一億人の手塚治虫」という本であった。
その393ページ「アニメの情熱③」の記事である。
{手塚  その黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で「デルス・ウザーラ」を作ったけれど、また今後、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事をすることに・・・。
ギラーミン(ジョン・ギラーミン映画監督) え?じゃ、黒澤さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。}

というこの短い文章であった、
 週刊プレイ・ボーイ1976年の12月7日号の中「キングコングと鉄腕アトム、もし戦わば!?―日米異色ムービー対談」 手塚治虫 ジョン・ギラーミン に乗った記事でした。
この「一億人の手塚治虫」という本は1989年8月に発行されており、一億人の手塚治虫編集委員会というのが編集している。その委員会のスタッフは佐山哲郎,近藤十四郎、川崎ぶら、香川眞悟、竹熊健太郎、であった。
このうち竹熊健太郎の名前に見覚えがあった、前に手塚先生のことが書いてあるプログの中で{竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」}というのを見ていた。ここはまた後で調べることにして、「乱」がヘラルド配給ということが気になり,色々と検索を試みた。
すると千夜一夜物語でお世話になった、原正人氏が対談で手塚先生と黒澤明監督の幻の企画を語っているページを探し当てた。
日本ヘラルドという会社は1966年私がワンダースリーの制作が終了して、社長室勤務となった。社長室と言っても社長室長の島方部長が映画部のことが判らないということでそれを補佐するという意味合いがかなりの部分を占めていた。もちろん漫画部で手塚治虫先生がホテルなどへ缶詰になる時など泊りがけで側に付いてお世話をする仕事もある。芸術祭と,アニメーションフェスティバルに出品する実験映画を作るという企画に当然参加した。そして制作にあたっても人手不足になり制作経験ということで、睡眠時間を削って手助けした。
アニメーションフェスティバルが終わり見事、芸術祭の表彰を受け、大藤賞の授賞式にも島方室長と共に出席っする栄誉を得た。その後、そんな作品をそのままにしておくのはと、島方室長は作品のセールスに動きだした。
手塚治虫のマネージメントの仕事の合間を縫ってなので私が車を運転して付いて行った。
 そして松竹系三館渋谷のパンティオン、新宿ミラノ座、松竹セントラルでのロードショー封切が決まった。「天地創造」と一緒であった。
その収益があり、欲のない手塚治虫は虫プロ全社員に手塚治虫が是非見てもらいたい作品として再度封切られたデズニーの「ファンタジア」の切符を購入して社員に配ることになった。私が日本デズニーまで切符600枚を買いに行っている。それが直ぐに足りないことになり追加をしたのだが追加した枚数は覚えていないが当時すでに虫プロ関係者が600人以上いた事がうかがえるエピソードである。
その後全国館になったがその後も引き合いがあり、千代田区内幸町の日本ヘラルド映画株式会社に島方室長と行って当時の関東支社長の沖本忠治氏はじめ多くの役員の方々とお会いしている。
そのことが、きっかけとなったかどうかわからないが、日本ヘラルド映画で自主作品を作ろうと計画した時に漫画映画の話が出て、「展覧会の絵」を思い出さなかったとは私は思わない、現に私はそのあと35mmの「展覧会の絵」のフイルムを届けに行っているしその後16mmの「展覧会の絵」をお借りできないかということで、これも届けに行っているからである。
大人のための漫画映画を日本ヘラルドで企画決定して虫プロで「千夜一夜物語」に決まったが、その時原正人氏のお名前も存じていた。
その方がのちに黒澤明監督の「乱」と大いにかかわっておりその対談ページを見つけたのであった。
原正人氏は1975年「デルス・ウザーラ」の実現に協力し、1985年の「乱」ではプロデューサーを務めた、
黒澤作品2作を世に送った。年譜上、「デルス・ウザーラ」は黒澤監督が失意の底から抜け出す契機になった作と言われ、「乱」は、黒澤映画最後の超大作と言われている。
以下その内容。
司会と構成は谷口智彦明治大学国際日本学部客員教授です。

黒澤明監督(左)と原正人氏。1975年 映画『デルス・ウザーラ』の上映劇場前(写真・原正人氏提供)


浜野保樹氏
浜野保樹(はまの・やすき)
東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。
1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『偽りの民主主義』(角川書店)『模倣される日本』(祥伝社)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。現在、『大系 黒澤明』(講談社)全4巻シリーズが刊行中。(財)黒澤明文化振興財団理事、(財)徳間記念アニメーション文化財団評議員、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。


原正人氏
原正人(はら・まさと)
映画プロデューサー。
1931年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科中退。独立プロなどを経て、58年ヘラルド映画入社(61年日本ヘラルド映画に社名変更)。81年ヘラルド・エースを設立、映画製作に乗り出すと共に、ミニシアターブームの基礎を作る。95年角川書店と提携し、96年エース・ピクチャーズに社名変更。98年住友商事子会社のアスミックと合併、アスミック・エース エンタテインメントと社名変更、同社長就任。ほかに東京国際映画祭評議員など。主な受賞暦に日本アカデミー企画賞、日本映画テレビプロデューサー協会賞、藤本賞、淀川長治賞、日本映画ペンクラブ賞、フランスの芸術文化勲章オフィシェなど。
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浜野 原さんが初めて黒澤監督に会った経緯というのが面白い。映画の世界では黒澤明、そしてマンガとアニメの世界でだったら、手塚治虫でしょう、天空高くそびえる峰という意味では。原さんは、確かこの巨匠2人に、合作させられないかと思われたんでしたね。

原  シロウトの怖さ、でね。あれなどは。戦争終わったとき、わたしは14でした。みなそうだったと思うが、映画抜きでは青春時代を語れない、そういう世代でね。独立プロの現場を経て、27になる年でしたが昭和33(1958)年、「ヘラルド」という、洋画配給会社に入るんです。洋画の配給としちゃ後発の会社でした。

   でも後発だから物怖じしないところがあってね、手塚治虫さんに劇場用のアニメをつくってもらおうということになりました。「大人の鑑賞に堪える」初めてのアニメを、という意気込みで、69年のことです。

手塚アニメの大入り満員が発端


原   できたのが『千夜一夜物語』で、それは大盛況を取りました。大きな映画館が立ち見客で両脇、後ろの通路ともギュウギュウ詰め、扉が閉まりきらないから外の光が漏れて入るくらいというくらいの(今と違って総入替制でなく、映画館は切符を客席定員に構わず売った。客は上映中でも入って立ち見し、終わると空いた席に座って最初から見直すという、当時はそんな鑑賞スタイル)。

    それだけ当たりを取ったということと、かたっぽうでは、黒澤さんがしきりに「平家物語」をやりたいと言ってて、でも日本の技術やスケールじゃできないと、ぼやいてらっしゃるという話を聞いた。
そこで思ったのは、実写で無理なものも、アニメでだったらできるだろう、なんてね。これが勉強不足だったんだ。

    ただもうひとつは、その話にかこつけて、まだお会いしたことのなかった黒澤監督に会えるやと思って。なんといっても戦時中から戦後にかけて、『姿三四郎』(43年)や『素晴らしき日曜日』(47年)を見て育ったわけですからね。黒澤明シナリオ・演出、手塚治虫撮影・監督というのは面白いんじゃないか、と。
黒澤監督現れ、「そりゃあ素敵だよ」
原   会ったんです。赤坂プリンスホテルの旧館。黒澤プロの事務所がこう、階段上がって右んとこにありましてね。そこで、先方のプロデューサーをしていた松江陽一さんに話してたら、黒澤監督がひょっこり現れた。初対面です、それが。
「平家物語ができたら、そりゃあ素敵だよ」とかなんとか、監督はおっしゃいましたかな。
よし黒澤さんにも興味をもっていただけたのだからと、手塚さんのところへ勇んで話をしにいったら、「そんな、鎧(よろい)の直垂(ひたたれ)ひとつひとつ手で描くようなことできないよー、きみー」と怒られるような始末で。幻に終わるわけです、この企画は。
司会  いまの技術でだったら…
原   できただろうね、それは。
浜野  ただ、その企画、ゴーになってたとしても絶対どっかの段階で黒澤監督、介入して、「これは俺の思ってたのと違うんだ」なんて、その2人は大喧嘩になってたと思いますよ。

原   あはは(笑)。手塚さん自身も、もう、凝り屋だからね。千夜一夜物語の時も、結局誰にも任せきれなくて、1枚1枚セルを自分で描いてたくらいですから。
アニメってのはいくらでも直せますでしょ。実写だったらセットをバラして役者がいなくなったらそれでおしまいだけど、アニメはその気になればいくらでも、ね。だから大変だったですよ。訪ねていったら、手塚さんが、こーっ、机に向かってやってたなあ。
黒澤家の愛犬、名前の由来
浜野  黒澤監督って犬が大好きで、セントバーナードのでっかいのがいた。優秀な犬で、日本中のドッグショーを総なめしたっていう。これにつけてた名前が、実は「レオ」なんですよ。「ジャングル大帝」からとったんですね。これは、それくらい手塚治虫のことを買っていたという話です。

原   2人はそのあと、会う機会あったんだと思うけどなあ。僕はそういう機会を用意できなかったんだ。

浜野  『デルス・ウザーラ』つくったあと、次の作品考えているとき、一部分アニメを使おうかという話があって、これは手塚先生に頼もうってことになったんでしょう、黒澤・手塚は一度中華料理屋で会合もったらしいんです。そのとき今の手塚プロ社長の松谷孝征さんが同行しててね。
それは面白い、今度の本(『大系・黒澤明』)にぜひ載せるから、写真くださいって言いました。そしたら松谷さんが言うのに、「みんな緊張していて、監督の言うことをただじーっと聞いてたから、写真なんか撮れなかったんだよ」って。

司会  セントバーナードとはまた、当時非常に珍しい犬種だったでしょうね。

浜野  世田谷区の松原っていうところに、400坪からある豪邸を構えていた時期があるんですよ。その頃のことのようです。

原   ぼくはその豪邸知らないんだよね、監督を知ったのは(家屋敷を)手放したあとだから。
ぼくが知った頃は代官山にツインタワーがあって、そのマンションに居られました。(一人娘の)和子さんが確か、大学生くらい。

「富裕を描く」ためには…
原   昼食を出して下さるんだけど、これが近くの小川軒から取り寄せたもんなんです、老舗の洋風レストランだよね、小川軒っていったら。
当時ぼくは貧乏してたから、すげえもんだな、て思った。黒澤さんもけして楽ではなかったはずなんだけども、たとえ貧乏してても、いつも一流でなきゃだめだって主義だから、ね。
司会  それは衣食住すべてで…?
原   衣食住すべて一流。
浜野  着るものについても若い人に言ってたのは、「創造とは記憶だから」と。貧乏は、日本人みんな貧乏だからよく知ってて、演出ができる。
でも富裕ということは、やってみなければその感じがつかめない。贅沢を描く映画が撮れないじゃないかといって、「借金してでもいいものを着ろ」って言ってましたねえ。そりゃ無理というもので、20代の若者に借金して贅沢しろといっても…。そんなふうでした。
司会  監督自身は若い頃からそんなだったんでしょうか。
乗っていた外国製セダンは
原   若い頃から一流主義だったんじゃないですか。というのは、当時の監督、昭和の20年代後半から30年代にかけてですよね、映画スタジオの全盛期。その頃の監督は、ギャラが良かった。名実ともエリートですよ、当時はね。経済力があったみたいです。
浜野  『用心棒』(61年)とか『椿三十郎』(62年)を撮っていた頃ですよね。当時黒澤監督はジャガーのセダンを買って、しかも運転手つきだったといいますから。
原   いまの映画監督には考えられない。
浜野  とてもとても…。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/755
以上上記ページ参考させていただきました。
コメント (1)
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