真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

11月7日「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー、西崎弘文さんが船から転落死

2010年11月07日 21時13分02秒 | Weblog
9,301位 / 1,490,269
昨日   :6135歩
起床時間 :9時57分
血圧   :119    75
脈拍   :65
体温   :35.6℃
体重   :67.0㎏

テレビをつける、すでに9時57分であった。妻と西武園ゆうえんちで開催の2010リサイクルカーニバルに行く予定であった。下に行くとすでに妻は支度が済んでいた。と言うのも、次男が高校時代の友人たちと奥多摩のマス釣り上へバーベキューで、6時に起きて出かけたので日曜日にしては早起きしていたのだ。私と言えばDVDを見ていて寝たのが6時近かったので起きられなかった。部屋に戻り、着替えて自転車で、読売新聞販売店へいき、西武園の入場券2枚を頂いて来る。家に戻り支度をする。妻が外寒かったよ、と言うので、皮ジャンを着て行く、10時15分家を出る、前差をのバス停に35分に着く、今回の目の前でバスが通り過ぎ次のバスまでかなり待たされてしまう。妻は自転車で来ればとしきりに言う。これも昨日、自転車で花小金井駅まで行こうと言うような事を、私が言ったらしいが本人はその事を忘れ、新しくした歩行計を試したくて、歩くつもりになっていた、だから古いほうの歩行計も着けていた。11時バスに乗り花小金井駅へ行く。11時22分の拝島行に乗る、
          

西武遊園地に行くには小平駅で迷う、アナウンスを聞いて始発は小平と聞こえたような気がしたのだ、前のウォーキングの時萩山で乗り換えたような気がした、急行を待っていたので、乗ってきた電車にまた乗り、萩山駅へ行く、30分着いた。時間表を見ると、西武遊園地駅行が51分、29分のが行ったばかりなのであった。今回は妻が先手を取った。いつもなら文句を言いだすのが私、それなのに妻が、こんなに待つのか、自転車で来ればよかったとか、池袋線で西武球場のほうから来ればよかったのにとか、私が愚痴を言う暇を与えなかった。12時西武園遊園地に着く。
前にも何度か来ているが、その時はプールの中で開かれていたが、今回のはその周りの通路、だから狭くて歩きづらい、なかなか見て行けない。
         

朝食も食べていないので腹も空いてくる。それでも魔法のじゅうたんあたりでテンガロンハット風の帽子、妻が今度の「手治虫生誕記念ウォーキング」の時、かぶって行くのに良いと言うので買ってもらった、ほか数点妻が買ってはいたが、あまりめぼしいものはなく1周して変えることにし西武遊園地駅へ行く。東久留米駅まで260円、来るときはバスが190円で電車が200円、こちらのほうが安上がりである。14時2分の山口線で西武球場へ行く、西所沢行に乗る、3番ホーム乗り換えで準急で東久留米駅へ、東久留米駅近くの満州へ行く、餃子だけの店だと思っていたが、食事ができる事を知らなかった、ラーメンセットを注文、屋台のラーメン風で、好きな味であった。餃子が6個ついてきたがそんなには食べられず、妻と半分分けしたのが丁度良かった。
落合川に出て、氷川神社でお参り、六仙公園の中を突っ切り、16時前家に戻った。こたつで休憩したが妻はすぐに買い物に出かけて行った。
部屋に戻ってDVDを見ていた、17時30分妻が帰ってくる。18時半次男がバーベキューから帰ってくる。19時45分夕食、鍋。私だけ小さい鍋でキムチ味にしてくれる。次男が疲れているのか、席に着くのが遅くなり長男がしきりになくなるぞと次男に言う。私の鍋も一人で食べるには多すぎるので、次男によかったらこっちも食べなと残して部屋に戻る。
20時過ぎメールチェックでYahooのページをチェックしていると次のような記事が目に入った。
「ヤマト」製作西崎さん転落死=父島の港で船から海に―海保
時事通信 11月7日(日)19時57分配信

 海上保安庁によると、7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村の父島の二見港で、人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーだった西崎義展(本名弘文)さん(75)が船から海に転落、同村の診療所に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。 

21時 次男が部屋に来てYahooにニュースが出ていることを、教えてくれた。そしてMNSで産経ニュースでは以下のようなニュースが出ていた。
「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー、西崎弘文さんが船から転落死
2010.11.7 20:22
このニュースのトピックス:有名人の訃報

西崎義展氏=昭和53年8月
 海上保安庁に入った連絡によると、7日午後0時45分ごろ、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー、西崎義展(本名・弘文)さん(75)が、東京都小笠原村父島の海で船から転落し、死亡が確認された。
 小笠原海上保安署によると、西崎さんは乗員8人とともに民間調査船「YAMATO」(485トン)に乗って父島沖の海上に出ていた。沖に停泊し、遊泳しようとしていたという。死因などを調べている。
 西崎さんは劇場用アニメ「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」でプロデューサー兼監督を務めていた。「ヤマト」の著作者は自分だとして漫画家の松本零士さんと訴訟となったが、平成15年に過去の作品は両者の共同著作とすることで和解が成立していた。

 西崎 弘文さんが亡くなったというニュース、昭和46年「ふしぎなメルモ」(アポロの歌)虫プロ商事の営業であり大阪ABCとの放送をまとめていた。そのことで手塚プロにおいても一躍英雄となり、手塚治虫先生の絶大な信用を得たのであった。
私とは大阪ABCとの交渉などで一緒に動いたという思い出が残っている。印象は豪快で実直、手塚先生に対しての忠実な仕事ぶりが見えていた。そして青いトリトンのテレビ放送も決めてきたときには、すでに、私が命令できる所からは、外れていた。それほど手塚先生の信頼を得た。そんな西崎さんが突然なくなるなんて、私はこの先何を目的にして、生きていけば良いのだろうか、目標を失った。
 信頼から、裏切り、手塚キャラクターの版権を騙し取り、その後も悪行の限りを尽くし、法に触れないように上手く立ち回り、巨大な帝国を作り上げ、私など到底手の届かない所に上り詰めていたのに、一つ覚せい剤で踏み外し、二度目の銃器での入牢。亡き手塚先生の無念を知らないはずはないのに、牢中では、少しも反省せず、上申書による泣き言ばかり並べ、自己主張ばかりしていた。そのたびに、いつかは自分の犯した罪を反省して悔い改める日が来るのではと、期待していたが、とうとうその期待にもこたえてくれないまま、手塚先生のもとへ行ってしまった。11月3日は手塚先生の生誕記念日に当たる。それを彼も知らないはずはなく死の間際どんな懺悔が脳裏をかすめたのであろうか、冥福を祈り、手塚先生に許しを請うことを祈るばかりである。
 私同様手塚先生も彼の良いおもいでばかり残っているので、きっと許してもらえると思うが、気がかりなのは、この世であまりにも多くの業を積み重ねているので、手塚先生と同じように天国へ行けたかどうかが心配である。しばらく待っていてもらって、私が行ったなら、昔のように先生との中に入り仲介するのでそれまで待っていてもらいた。
最後に冥福を祈らずにはおられない。
22時風呂に入る、22時50分風呂から出る。岡部先生にメールを打つ22時56分電話をもらい西崎さんの冥福を祈る。お墓にも報告をしに行かなければなど考えるとまた眠れない。
コメント (5)
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