真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

7月16日  手塚治虫と黒澤明の関わり 2

2010年07月16日 22時20分43秒 | 手塚治虫
昨日の歩数:31歩
起床時間 :5時50分
血圧   :108    72
脈拍   :65
体温   :35.5℃
体重   :65.6kg
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7時半からテレビをみる、体温と血圧を測る。


昨日の続きである
原正人さんの証言から、手治虫と黒澤明の映画化、より現実味があったことがわかりました。
そしてもう一つの証言を求めて、竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」に行き、その中の手治虫と黒澤明の記述の日時を探しました。探し当てその記述を下記に記します。
黒澤・手塚 幻の合作映画
「『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)」のコメント欄で、いつの間にか黒澤明の話になり、「そういえば…」という感じで俺が「昔、黒澤明と手塚治虫が映画を合作する話があった」ということを思いだし、その旨を書きましたら漫棚通信さんがブログでこれを取り上げていただきました。
 http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/
 当方のはコメントでのやりとりであり、しかもエントリの本筋とは関係ない話です。このまま埋もれてしまうにはもったいないネタなので、改めてこちらにアップします。コメントの詳しい前後関係は、当該のコメントを参照してください。
 まずはAaさんの「黒澤明が大平洋戦争中にディズニーの『白雪姫』を見た」というコメントを受けて、俺がこのようなレスを返したところから始まります。
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Aaさん
戦時中に「白雪姫」を黒澤が見ていたというのは、何か出典がありますか? 当時の映画関係者が米軍から接収したアメリカ映画を見ていたというのは、僕も読んだ記憶がありますが、黒澤が見たというのは初耳でした。もちろん、見ていても不思議はないんですが。
これも出典はあやふやなんですが、戦後に関しては、黒澤がディズニーファンだったという話は聞いたことがあります。(女優ではマリリン・モンローが好きだったらしい。意外)
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
晩年、黒澤が宮崎駿を高く評価し、自ら接触していたのも、この企画が念頭にあったのかもしれません。
 すると、これを読んだ本ブログでも常連の長谷邦夫先生が、「黒澤プラス手塚・シナリオ!そんなものが存在したとは!よみてぇ~っ!!」との反応をされ、これに対して俺がレスしたのが以下のコメントでした。

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長谷先生
シナリオは黒澤明が執筆したもので、実際に存在します。黒澤としては、本当は「デルス・ウザーラ」の後に、引き続きソ連で監督する希望だったようです。
ですが「デルス」がソ連政府の期待に必ずしも応えるものではなかったので、この企画はなしになり、黒澤は例によって舞台を日本の戦国時代に移した翻案ものとしてシナリオを書き直しました。ミュージカル+一部アニメ映画にするプランがどの段階で生まれたかは知りませんが、最終稿ではそうなっているようです。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
それでそのとき、「そういえば手塚先生のお通夜のとき、一番目立つ場所に黒澤明の花輪があったな」ということを思い出したわけです。
そこで、よもやと思い、後日手塚プロの関係者に聞いてみたら、「よくご存じですね。たしかに黒澤監督からオファーがあり、『赤き死の仮面』のアニメパートを演出する予定でした」という返事が返ってきました。
という次第です。
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 すると、以上のやりとりを読んだ漫棚通信さんが、ご自分のブログでこのネタを受けて実際のシナリオ(黒澤明全集に入っている『黒き死の仮面』)を参照されながら、「手塚さんがアニメにする予定だったのは、このあたりだろうか」と推理されている、という流れです。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_e434.html  
漫棚通信ブログ版
  (このページの内容を書いておきます)
( 竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」のコメント欄を読んでいたら、どっひゃー、黒澤明が脚本・監督、手塚治虫がアニメパート担当の映画が企画されてたと知ってびっくり。
 こりゃ知らなかったなあ。「たけくまメモ」によると、
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
 以下、長い引用で失礼します。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
 そして、それは手塚とジョン・ギラーミンとの対談記事であったと。
 ディノ・デ・ラウレンティス製作、ジョン・ギラーミン監督の「キングコング」リメイク超大作は、日本ではお正月映画として1976年12月に公開されました。キネマ旬報1977年1月下旬号での手塚治虫と石上三登志の対談「キングコングがどうした!」(「定本手塚治虫の世界」所収)によると、1976年10月にギラーミンが来日した際、手塚とギラーミンの対談がおこなわれたそうです。
 ギラーミンとの対談記事は読めませんが、この石上三登志との対談では、手塚の黒澤に対する言及があります。
・たとえば、黒澤明さんも、コンテを大切に描く人でしょ。
・(ジョン・フォード「ドノバンサンゴ礁」の話題を受けて)やっぱり西部の荒野には、そういう海洋的なムードがあるんじゃないなか。ああいう空間が開放されたシーンは、すごく好きなんでしょうね。黒澤さんもそんな気がする。『デルス・ウザーラ』はもちろんそうだけど『七人の侍』にしてもそうだし、『隠し砦の三悪人』も。あれだけの野外シーンを撮れる監督は、世界にもちょっといないと思う。
 かなり黒澤のことを気にしてるみたい。黒澤明から手塚治虫にオファーがあったのは、1976年ごろのようです。
 このころの手塚といえば、1975年に日本漫画家協会賞特別優秀賞(「ブラック・ジャック」)と文藝春秋漫画賞(「ブッダ」「動物つれづれ草」)受賞。 1977年には原案のアニメ「ジェッターマルス」(アトムのリメイク)放映。「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞受賞。ほぼ同時に講談社版手塚治漫画全集刊行開始。てな時期でした。
 一方の黒澤明は、不遇の時期を経て、1975年8月にモス・フィルムで撮った「デルス・ウザーラ」の公開。1976年に「乱」第一稿の脱稿。同年文化功労者に選ばれています。1977年には「黒き死の仮面」のシナリオを完成させていますが、実際に彼の次作となったのは1980年公開の「影武者」でした。
 「全集 黒澤明」は1987年から1988年にかけて岩波書店から6巻刊行。黒澤のシナリオを集めたものです。そして没後の2002年、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」などを収録した最終巻が刊行されました。この中に「黒き死の仮面」も収録されています。
 原作はもちろんエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」(「赤死病の仮面」)。文庫本で10ページほどの短篇です。)
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 黒澤シナリオの中で、漫棚さんの推理というのが以下の部分。
(手塚治虫が担当するはずだったアニメシーンというのは、クライマックス前の、魔物のバレエだと思われます。室内のバレエシーンと、屋外の混乱が交互に描かれます。
(1)頭は鳥、下半身は馬。頭は馬、下半身は鳥。頭は豚、下半身は獅子。頭は魚、下半身は鼠、等々。
この頭と下半身の奇妙な組合せの扮装とその動きには、ユーモラスなところは少しもなく、変に生々しく、人間性のグロテスクな面を見せつけられる思いがする。
(2)頭は犬、足は帚木──親衛隊の紋章がラインを組み、奇怪なリズムで踊り出てくる。
(3)犬の頭と帚木の足のダンスが退場し、奇怪で醜悪な巨大な魚が登場する。
そして、その腹を引き裂いて、踊り手達が出て来る。それは、蒼白い裸体に、様々な人間の欲望の仮面を被った醜怪な群舞である。
(4)牡牛の仮面に僧侶の頭巾を被った男達、豚の仮面に尼僧の頭巾を被った女達が、上半身は天使、下半身は悪魔の衣装をつけた堕天使を中心に、輪を描いて乱舞している。
(5)終幕らしく、これまでの登場人物が入り乱れて踊っている。ただ、彼等はそれぞれ、背中に真赤な布の炎を背負い、矢を眼に、刀を胸に、あるいは首と首を縄でくくられ、腹と腹を長い槍で串刺しにされた、異様な扮装で乱舞している。
それは、まるで異端の秘密宗派の祭壇画の様に、奇怪で悪魔的な光景である。
 これは物語内では侯爵が計画したバレエでしたが、実際には黒澤明自身がこう描いているわけです。この悪夢のようなイメージは、登場人物たち、さらには観客である私たちの象徴でもあります。
 この毒々しいバレエを、黒澤と手塚はどのようにアニメとしてイメージしていたのでしょう。アニメ背景の前で実写の人間とアニメキャラが踊るのか。それとも実写背景とアニメキャラか。すべてアニメで描くつもりだったのか。(ただし、このバレエシーンの演出を、黒澤はフェリーニに持ちかけたこともあったそうです)
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 ただしこれはソ連で映画化する予定だったポオの原作に忠実ヴァージョンのシナリオですので、日本の戦国時代を舞台にしたヴァージョンでは、この部分がどうなっていたのかわかりません。ただ、戦国ヴァージョンが全集に載っていないところを見ると、実際には決定稿は執筆されていない可能性もあります。
 本当はもう少し調べてからエントリ化しようと考えていましたが、それだといつになるのかわからないので、現時点で俺が知っている範囲の話を補足的に書いてみます。
○まず上の俺のコメントの補足ですが、黒澤が「赤き死の仮面」を「次回作」として雑誌インタビューで「予告」したのは「影武者」完成直後ですから、1980年のはずです。雑誌は週刊誌で、「週刊朝日」か「週刊読売」だったような……うろ覚えですいません。なお舞台を戦国時代に移す、というのはその記事の中で本人が発言していました。
○で、手塚治虫と『キングコング』のジョン・ギラーミン監督との対談は「週刊プレイボーイ」の76年12月7日号でした。その部分を引用してみます。
(手塚 その黒沢さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画作るんです。そのとき、ぼくは黒沢さんと仕事をすることに…。
ギラーミン え? じゃ、黒沢さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。)
 ○手塚先生が亡くなったのが1989年2月9日。お通夜がTVニュースで中継されたんですが、その一番目立つところに黒澤明監督からの花輪が飾られており、竹熊は当時、黒澤監督と手塚氏の関係を知らなかったので、「あれ?」っと思ったのをよく憶えています。
 ○先生の死後、JICC出版(現宝島社)からの依頼で資料本『一億人の手塚治虫』を竹熊が編集。その作業中に上のプレイボーイの記事を見つけ、大いに驚く。
 ○90年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
 ○手塚先生と黒澤監督は最後まで交流があったようです。まだ黒澤監督が存命中の話ですが、息子・黒澤久男の夫人(当時)だった林寛子がTVで「うちのおじいちゃん、孫によく漫画を描いてあげるんですよ。アトムとか…」と聞き捨てならない発言を。
 ○その後、映画雑誌の何かのコラムで、黒澤組のあるスタッフが黒澤家で黒澤本人が描いたアトムの絵を発見し、驚愕した話が紹介されていた。その人がおずおずと「あの、いただいてもよろしいでしょうか。大変、珍しいものなので…」と言うと、監督が「ダメだ!」と怒ってその紙をクシャクシャに丸めてクズカゴに放りこんだとか。このことと林寛子発言から、黒澤明がアトムの模写を自宅でしていた事実が、ほぼ確定。
 ○その後別の手塚プロ関係者から、講談社の手塚全集が黒澤明に寄贈されている事実を確認。黒澤家の書棚に全巻が置かれていたようです。
 ○黒澤明はもと画家志望で、たいへん絵がうまいです。後年の「影武者」などのストーリーボードはゴッホ風のタッチなんですが、昔の『七人の侍』のコンテを見ると、まるで白土三平が描いたかのような達者なマンガ風タッチで驚きます。このことから、アトムの模写などお手のものであったと考えられます。
←市川崑版『火の鳥』(1978,東宝)映画パンフ。アニメパートの演出は手塚だが、主人公を襲う狼の群れがいきなりピンクレディの「UFO」を歌い出すなど、例によって悪い癖が…。
 ○余談だが、ソ連版の『黒き死の仮面』(共産圏であることを配慮して、黒澤がタイトルを赤から黒に変えていた)は1977年頃には中断していたと考えられます。その後、78年8月に市川崑監督の実写版『火の鳥』が公開されたんですが、これの本編には随所に手塚プロによるアニメーションが合成されていました。アニメ部分は見事な1~2コマ打ちのフルアニメーションで、原画を担当したのが「オバQの小池さん」ことスタジオ・ゼロの鈴木伸一氏。
 ○時期的に考えて、黒澤企画が流れた直後に、市川崑の企画が持ち上がった可能性が高い。俺が昔から疑っているのは、もしかすると『赤き死』のために手塚が集めていたスタッフが、そのまま『火の鳥』に流れたのではないかということ。鈴木伸一氏に聞けば、あるいはそのあたりの事情が判明するかもしれません。
何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって
←黒澤と宮崎、二人の相互ヨイショと、黒澤の果てることなき自慢話が楽しめる『何が映画か』
 ○ところで手塚先生の死後、黒澤明は今度は宮崎駿に急接近。「ボクはトトロが大好きでねえ」とリップ・サービスを始めただけでなく、遺作となった『まあだだよ』の予告編製作まで宮崎本人に依頼。宮崎さんも、昔のインタビューでは「『影武者』で黒澤さんは堕落した」と例によって毒づいていたわけですが、そんなことはケロっと忘れたかのように黒澤監督に協力。もしかすると…黒澤は『赤き死』をまだ撮るつもりでいて、手塚治虫なき後は宮崎駿にアニメパートを依頼するつもりだったのでは……と邪推。
 とまあ、こんなところなんですが、どなたか幻の黒澤映画『赤き死の仮面』について、もっと詳しい話がありましたら、お教えくだされば幸いです。
編集家・竹熊健太郎の雑感雑記&業務連絡
たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_bd61.html
以上今回手治虫と黒澤明のかかわりというアンケートに対して私が調べたものでしたが、たけくまメモにある通り、1990年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。の件(くだり)で
小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
とありました。灯台下暗し、苦労して調べたどり着いたのが友人である小林準治先生とは、何かとても大回りしたような気がして気が抜けてしまいました。かなりの長文となった。文章や資料でしたが、パソコンが自動でサービスパック2をインストールし始め、途中でインストールが停止いてしまいエラーのままになってしまいました。結局はリカバリーするしか方法がなくなり、リカバリー用に作っておいたDVD3枚も後でわかった原因はウィルス一つが削除できずにあったためで、ただの箱と変わってしまい、すべての資料が消失してしまいました。
何とか修復資料とする無駄な努力に何日も費やし、そのどさくさに無くさないようにとどこかにしまったアンケート用紙まで無くしてしまい三日ばかり探しても、もうあきらめていたものは出てきても、探し当てることができす、締め切りの17日が過ぎてしまいました。
コメント (2)
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7月15日  手塚治虫と黒澤明の関わり 1

2010年07月15日 23時44分26秒 | 手塚治虫
6821 位 / 1437674
昨日の歩数:4027歩
起床時間 :6時45分
血圧   :104    65
脈拍   :63
体温   :35.1℃
体重   :65.6kg
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10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさせていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。
10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさっていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。それが6月13日の事。
 その中に気になる文章があった。黒澤明と手塚治虫の関わりに付いて。
この件は、前に何かで読んで、少し勉強した。そこでこれを中心にしてアンケートに答えようと考えた。
 しかしそれは生半可のことではないと思いしる。まずはどこに書いてあったかである。
私の周りの本から調べる。老眼が気になりだしてから文章を読むのがかなり辛くなっている。その上右目と左目の見える角度が違うので2つの画面が見えてしまう。一昨年図書館で手塚治虫生誕80周年記念として東久留米図書館で貯蔵している図書をまとめて展示した。その時も何冊も借りている。家のほんだけでなく図書館も探さねばならぬ。
 私の,悪い癖で、直ぐに横道にそれてしまう。東久留米市の図書館にはビデオで黒澤明監督作品があったのである。凝り性の私は、黒澤明監督の作品を見もしないで書くのは失礼な事だと思った。そこで図書館に在る,黒澤明監督作品をまずは見てからアンケートを書くべきだと考えた。
そんな中,ラッキーなことが起きた。6月20日のことであった。2007年春モデルの富士通のパソコンFMVをとても安い値段で手に入れることが出来た。WindowsのVistaで Officeも2007が入っている。
不具合が出て前の持ち主が手放したらしいが、私の知識でも、何とかこれを修理して使えるようにできた。
すると使い勝手が良く、今まで調べたことを、ワードに書き込んでいった。
そしてエクセルで、私が持っている手塚治虫の関連本リストとあわせて東久留米図書館にある手塚治虫関連本のリストも作った。
その合間にも黒澤明作品を次々見た。
1943年つまり戦時中の作品「姿三四郎」
1944年女優さんを実際の工場に勤労奉仕をさせて作った作品「一番美しく」
1945年敗戦の年「續姿三四郎」「虎の尾を踏む男達」 3作品飛ばして
1948年の作品「醉いどれ天使」
1950年松竹での作「醜聞スキャンダル」 大映の「羅生門」
1951年松竹で「白痴」
1954年東宝で「七人の侍」
1955年「生きものの記録」
1957年「蜘蛛巣城」「どん底」
1961年黒澤プロ「用心棒」
1962年「椿三十郎」
1963年「天国と地獄」
オリンピックの年を挟んで
1965年「赤ひげ」
1970年四騎の会「どですかでん」
1980年黒澤プロ「影武者」
1985年ヘラルドの「乱」
1990年黒澤プロ「夢」
1993年「まあだだよ」
31作品中21作品を見だしたのであった。
そんな中、たくさんの手塚治虫,関係本の中から、やっと手塚治虫と黒澤明の関わりの文章を探し出すことが出来た。
6月29日の事、所蔵の中の一冊「一億人の手塚治虫」という本であった。
その393ページ「アニメの情熱③」の記事である。
{手塚  その黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で「デルス・ウザーラ」を作ったけれど、また今後、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事をすることに・・・。
ギラーミン(ジョン・ギラーミン映画監督) え?じゃ、黒澤さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。}

というこの短い文章であった、
 週刊プレイ・ボーイ1976年の12月7日号の中「キングコングと鉄腕アトム、もし戦わば!?―日米異色ムービー対談」 手塚治虫 ジョン・ギラーミン に乗った記事でした。
この「一億人の手塚治虫」という本は1989年8月に発行されており、一億人の手塚治虫編集委員会というのが編集している。その委員会のスタッフは佐山哲郎,近藤十四郎、川崎ぶら、香川眞悟、竹熊健太郎、であった。
このうち竹熊健太郎の名前に見覚えがあった、前に手塚先生のことが書いてあるプログの中で{竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」}というのを見ていた。ここはまた後で調べることにして、「乱」がヘラルド配給ということが気になり,色々と検索を試みた。
すると千夜一夜物語でお世話になった、原正人氏が対談で手塚先生と黒澤明監督の幻の企画を語っているページを探し当てた。
日本ヘラルドという会社は1966年私がワンダースリーの制作が終了して、社長室勤務となった。社長室と言っても社長室長の島方部長が映画部のことが判らないということでそれを補佐するという意味合いがかなりの部分を占めていた。もちろん漫画部で手塚治虫先生がホテルなどへ缶詰になる時など泊りがけで側に付いてお世話をする仕事もある。芸術祭と,アニメーションフェスティバルに出品する実験映画を作るという企画に当然参加した。そして制作にあたっても人手不足になり制作経験ということで、睡眠時間を削って手助けした。
アニメーションフェスティバルが終わり見事、芸術祭の表彰を受け、大藤賞の授賞式にも島方室長と共に出席っする栄誉を得た。その後、そんな作品をそのままにしておくのはと、島方室長は作品のセールスに動きだした。
手塚治虫のマネージメントの仕事の合間を縫ってなので私が車を運転して付いて行った。
 そして松竹系三館渋谷のパンティオン、新宿ミラノ座、松竹セントラルでのロードショー封切が決まった。「天地創造」と一緒であった。
その収益があり、欲のない手塚治虫は虫プロ全社員に手塚治虫が是非見てもらいたい作品として再度封切られたデズニーの「ファンタジア」の切符を購入して社員に配ることになった。私が日本デズニーまで切符600枚を買いに行っている。それが直ぐに足りないことになり追加をしたのだが追加した枚数は覚えていないが当時すでに虫プロ関係者が600人以上いた事がうかがえるエピソードである。
その後全国館になったがその後も引き合いがあり、千代田区内幸町の日本ヘラルド映画株式会社に島方室長と行って当時の関東支社長の沖本忠治氏はじめ多くの役員の方々とお会いしている。
そのことが、きっかけとなったかどうかわからないが、日本ヘラルド映画で自主作品を作ろうと計画した時に漫画映画の話が出て、「展覧会の絵」を思い出さなかったとは私は思わない、現に私はそのあと35mmの「展覧会の絵」のフイルムを届けに行っているしその後16mmの「展覧会の絵」をお借りできないかということで、これも届けに行っているからである。
大人のための漫画映画を日本ヘラルドで企画決定して虫プロで「千夜一夜物語」に決まったが、その時原正人氏のお名前も存じていた。
その方がのちに黒澤明監督の「乱」と大いにかかわっておりその対談ページを見つけたのであった。
原正人氏は1975年「デルス・ウザーラ」の実現に協力し、1985年の「乱」ではプロデューサーを務めた、
黒澤作品2作を世に送った。年譜上、「デルス・ウザーラ」は黒澤監督が失意の底から抜け出す契機になった作と言われ、「乱」は、黒澤映画最後の超大作と言われている。
以下その内容。
司会と構成は谷口智彦明治大学国際日本学部客員教授です。

黒澤明監督(左)と原正人氏。1975年 映画『デルス・ウザーラ』の上映劇場前(写真・原正人氏提供)


浜野保樹氏
浜野保樹(はまの・やすき)
東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。
1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『偽りの民主主義』(角川書店)『模倣される日本』(祥伝社)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。現在、『大系 黒澤明』(講談社)全4巻シリーズが刊行中。(財)黒澤明文化振興財団理事、(財)徳間記念アニメーション文化財団評議員、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。


原正人氏
原正人(はら・まさと)
映画プロデューサー。
1931年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科中退。独立プロなどを経て、58年ヘラルド映画入社(61年日本ヘラルド映画に社名変更)。81年ヘラルド・エースを設立、映画製作に乗り出すと共に、ミニシアターブームの基礎を作る。95年角川書店と提携し、96年エース・ピクチャーズに社名変更。98年住友商事子会社のアスミックと合併、アスミック・エース エンタテインメントと社名変更、同社長就任。ほかに東京国際映画祭評議員など。主な受賞暦に日本アカデミー企画賞、日本映画テレビプロデューサー協会賞、藤本賞、淀川長治賞、日本映画ペンクラブ賞、フランスの芸術文化勲章オフィシェなど。
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浜野 原さんが初めて黒澤監督に会った経緯というのが面白い。映画の世界では黒澤明、そしてマンガとアニメの世界でだったら、手塚治虫でしょう、天空高くそびえる峰という意味では。原さんは、確かこの巨匠2人に、合作させられないかと思われたんでしたね。

原  シロウトの怖さ、でね。あれなどは。戦争終わったとき、わたしは14でした。みなそうだったと思うが、映画抜きでは青春時代を語れない、そういう世代でね。独立プロの現場を経て、27になる年でしたが昭和33(1958)年、「ヘラルド」という、洋画配給会社に入るんです。洋画の配給としちゃ後発の会社でした。

   でも後発だから物怖じしないところがあってね、手塚治虫さんに劇場用のアニメをつくってもらおうということになりました。「大人の鑑賞に堪える」初めてのアニメを、という意気込みで、69年のことです。

手塚アニメの大入り満員が発端


原   できたのが『千夜一夜物語』で、それは大盛況を取りました。大きな映画館が立ち見客で両脇、後ろの通路ともギュウギュウ詰め、扉が閉まりきらないから外の光が漏れて入るくらいというくらいの(今と違って総入替制でなく、映画館は切符を客席定員に構わず売った。客は上映中でも入って立ち見し、終わると空いた席に座って最初から見直すという、当時はそんな鑑賞スタイル)。

    それだけ当たりを取ったということと、かたっぽうでは、黒澤さんがしきりに「平家物語」をやりたいと言ってて、でも日本の技術やスケールじゃできないと、ぼやいてらっしゃるという話を聞いた。
そこで思ったのは、実写で無理なものも、アニメでだったらできるだろう、なんてね。これが勉強不足だったんだ。

    ただもうひとつは、その話にかこつけて、まだお会いしたことのなかった黒澤監督に会えるやと思って。なんといっても戦時中から戦後にかけて、『姿三四郎』(43年)や『素晴らしき日曜日』(47年)を見て育ったわけですからね。黒澤明シナリオ・演出、手塚治虫撮影・監督というのは面白いんじゃないか、と。
黒澤監督現れ、「そりゃあ素敵だよ」
原   会ったんです。赤坂プリンスホテルの旧館。黒澤プロの事務所がこう、階段上がって右んとこにありましてね。そこで、先方のプロデューサーをしていた松江陽一さんに話してたら、黒澤監督がひょっこり現れた。初対面です、それが。
「平家物語ができたら、そりゃあ素敵だよ」とかなんとか、監督はおっしゃいましたかな。
よし黒澤さんにも興味をもっていただけたのだからと、手塚さんのところへ勇んで話をしにいったら、「そんな、鎧(よろい)の直垂(ひたたれ)ひとつひとつ手で描くようなことできないよー、きみー」と怒られるような始末で。幻に終わるわけです、この企画は。
司会  いまの技術でだったら…
原   できただろうね、それは。
浜野  ただ、その企画、ゴーになってたとしても絶対どっかの段階で黒澤監督、介入して、「これは俺の思ってたのと違うんだ」なんて、その2人は大喧嘩になってたと思いますよ。

原   あはは(笑)。手塚さん自身も、もう、凝り屋だからね。千夜一夜物語の時も、結局誰にも任せきれなくて、1枚1枚セルを自分で描いてたくらいですから。
アニメってのはいくらでも直せますでしょ。実写だったらセットをバラして役者がいなくなったらそれでおしまいだけど、アニメはその気になればいくらでも、ね。だから大変だったですよ。訪ねていったら、手塚さんが、こーっ、机に向かってやってたなあ。
黒澤家の愛犬、名前の由来
浜野  黒澤監督って犬が大好きで、セントバーナードのでっかいのがいた。優秀な犬で、日本中のドッグショーを総なめしたっていう。これにつけてた名前が、実は「レオ」なんですよ。「ジャングル大帝」からとったんですね。これは、それくらい手塚治虫のことを買っていたという話です。

原   2人はそのあと、会う機会あったんだと思うけどなあ。僕はそういう機会を用意できなかったんだ。

浜野  『デルス・ウザーラ』つくったあと、次の作品考えているとき、一部分アニメを使おうかという話があって、これは手塚先生に頼もうってことになったんでしょう、黒澤・手塚は一度中華料理屋で会合もったらしいんです。そのとき今の手塚プロ社長の松谷孝征さんが同行しててね。
それは面白い、今度の本(『大系・黒澤明』)にぜひ載せるから、写真くださいって言いました。そしたら松谷さんが言うのに、「みんな緊張していて、監督の言うことをただじーっと聞いてたから、写真なんか撮れなかったんだよ」って。

司会  セントバーナードとはまた、当時非常に珍しい犬種だったでしょうね。

浜野  世田谷区の松原っていうところに、400坪からある豪邸を構えていた時期があるんですよ。その頃のことのようです。

原   ぼくはその豪邸知らないんだよね、監督を知ったのは(家屋敷を)手放したあとだから。
ぼくが知った頃は代官山にツインタワーがあって、そのマンションに居られました。(一人娘の)和子さんが確か、大学生くらい。

「富裕を描く」ためには…
原   昼食を出して下さるんだけど、これが近くの小川軒から取り寄せたもんなんです、老舗の洋風レストランだよね、小川軒っていったら。
当時ぼくは貧乏してたから、すげえもんだな、て思った。黒澤さんもけして楽ではなかったはずなんだけども、たとえ貧乏してても、いつも一流でなきゃだめだって主義だから、ね。
司会  それは衣食住すべてで…?
原   衣食住すべて一流。
浜野  着るものについても若い人に言ってたのは、「創造とは記憶だから」と。貧乏は、日本人みんな貧乏だからよく知ってて、演出ができる。
でも富裕ということは、やってみなければその感じがつかめない。贅沢を描く映画が撮れないじゃないかといって、「借金してでもいいものを着ろ」って言ってましたねえ。そりゃ無理というもので、20代の若者に借金して贅沢しろといっても…。そんなふうでした。
司会  監督自身は若い頃からそんなだったんでしょうか。
乗っていた外国製セダンは
原   若い頃から一流主義だったんじゃないですか。というのは、当時の監督、昭和の20年代後半から30年代にかけてですよね、映画スタジオの全盛期。その頃の監督は、ギャラが良かった。名実ともエリートですよ、当時はね。経済力があったみたいです。
浜野  『用心棒』(61年)とか『椿三十郎』(62年)を撮っていた頃ですよね。当時黒澤監督はジャガーのセダンを買って、しかも運転手つきだったといいますから。
原   いまの映画監督には考えられない。
浜野  とてもとても…。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/755
以上上記ページ参考させていただきました。
コメント (1)
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7月14日

2010年07月14日 23時35分35秒 | Weblog
9011 位 / 1437045
昨日の歩数:3595歩
起床時間 :5時50分
血圧   :116    78
脈拍   :59
体温   :35.7℃
体重   :66.2kg
----------------------- 一時
7月14日 水曜日 天気雨のち曇 夕方から晴れ
5時50分目を覚ます。テレビで時間を確認、そのまま布団に入って目をつぶっている。
長男は今日は代休をとって免許の書き換えに行くと言っていた。8時半開始なので8時には行くために、6時には起きようと、昨晩は張り切っていたのだが。
 7時過ぎ体温と血圧を測る。7時半からテレビを見ている。
8時下に降りて,歯みがきと洗顔、そして階段を上がり,体重を計っていないことに気が付き、再度下に降りて,体重を計り,歩行計にデーターを入れる。
朝食を食べておく、8枚切り1枚を使ってのもとの朝食。そして牛乳。
妻が出かける頃の8時半過ぎには雨は上がっている。
部屋に戻っている。8時55分長男お部屋から目覚ましの音が鳴る。少し長めで停めたようだ。9時過ぎて長男が降りていく。結局いつもどおり。
9時40分長男を送っていくことになり家を出る。小金井街道で、調布の運転免許試験場には10時丁度に着く。長男を降ろし一度家に戻ることにする。
 PCデポに寄る。FMVのリカバリーの件で店員と話をする。今のタイプは、リカバリーディスクが付かなくなっているという、定価表にわざわざリカバリーディスクなし、と書いてあるのは,そのような意味で、買ったら直ぐに自分でリカバリーディスクを作らなければならないのだが,私を始め殆どの人はその事を知っているのであろうか?
最近のパソコンでリカバリーにDVDを10枚近く使うのもあるとのことで、驚かされた。
1台中古でFMVディスクパワーのLXシリーズがあったがこれならリカバリーが作れそうなのだが7万近くするので、「手が出ないや」と店員さんと笑う。店員さんも昔と違って,今はわたしにカネがないことをよく存じているのだ。
店を出ると隣の薬局で,卵の安売りをしている。昨日長男を送ったので替えなかったが卵の残りが5個ぐらいになっている。駐車場を出てまた直ぐに隣の薬局の駐車場に入れる。熱いので開けた窓はそのままにする。
 前に一度着ているので卵売り場はよく知っている真っ直ぐその場所に行く。レジの近くに半額になったものが置いてある。食パン8枚切りがあった。そして団子も三点を買って250円とは安い。とまあ、こんな書き方をすると、開けっ放しの窓のことが気になると呼んでる人は思うのが、こちらのいたずら、何事もない。新青梅街道を左折してハードオフに寄る。
 姪の東芝のHDDつきDVDをレコーダーが壊れたのは前に書いたが、内科よさそうなのはないかと思ったのと,やはりFNVのスケベ根性があったから。しかし期待は裏切られるもの。そう言えば前にドラえもんの講演会をするのでOHPを此処で買った、しかし明るいとまったく投影出来ず返品したが1万円取られたっけ。その一万円で今はもっとよさそうなOHPがあったのには時代の流れか。
 新青梅街道は左折だけ、そのまま行けば、滝山交番の信号まで右折できない。ガードマンが出口にいて信号が変わって車の流れがなくなるまで出してくれなかった。それが良かった。中央ラインよりに車を進め、前からの車が無いので、マルカワの横の道に右折できた。
11時10分家に戻る。
10時17分パソコンの電源を入れる。
メールなどのチェックや体重表、アマゾンランキング12時11分長男から電話が来る「そろそろ貰えそう(免許証が)」迎えに行く。12時30分正門のかなり手前まで歩いてきている長男を乗せ、手前でUターンして13時前には家に戻る。
 黒澤明監督の「白痴」を見ている。
13時24分柴山先生から電話が入る、山浦さんの訃報、FMVのことを愚痴る、19日集合など。
14時妻が帰宅する。20分声がかかって冷やし中華で昼食。
妻は昨日買った傘が開いてみたら壊れていたので返しに行くという。部屋に戻り領収書を取ってきて妻に渡す。
パソコンの電源を入れ「白痴」を見たりしている。
15時中央図書館へ行く。畑の咲いているひまわりがまた増えている。岡野さんと会う。ポスターをチラシに使うにあたって、コピーは白黒になるという。間に合えば、作り直すと答えた。黒澤明の「どん底」と「どですかでん」どれに、小説CDで借りた「夫婦善哉」のビデオがあった。森繁久彌出演であったのでそれも借りる。CDの予約も2点あった。久石さんに偶然お会いする「こんなところで」というといつも東部地域センターでひらいている、碁の会が会場が借りられなくて図書館の会議室で行われているとの事。忘れっぽくなった話で8月8日が母の命日で、その日に行われる東久留米市民が「戦争体験を語る」で動いていがその日は出れないことを忘れていた、などの話から,ひばりヶ丘に映写会を開催している、話があり、その事なら前に知って気にかけていたというと、映写などが必要なときには紹介してくれるという事を言ってもらった。
15時35分家に戻る。パソコンの電源を入れる。
妻がおらず、次男に尋ねると「傘を返しに行った」という。
チラシ用の作業を始める。
水を飲みにおりていく。
「あの傘お父さんがお金を払わされたのだが、返金してもらってきたら、請求していいのかな」というと「いいんじゃない」。「でもわざわざ行ったからかわいそうかな」
などと言っていると、妻が帰ってきた。「どうした」と尋ねると「奥にまだいっぱい同じのがあって、変えてくれた」との事。いらぬ心配をしていたわけであった。
16時10分妻次男を連れて,コインランドリーへ行く。
LX40Uも入れる。昨日windows製品の適性をたづねられ,ソフトをインストールした。
それのせいなのかSP3のインストールが始まった。
その間LX40Uは使えない。
14時27分チラシ原稿を岡野さん宛メールで送る。続いて久保木さんにも事後承諾メールを。
下に行くと妻たち帰ってきていた。茹でてくれたとうもろこしを食べる。
コインランドリーはお休みだった、とも。
白痴を見ているが居眠りばかりで、どこまで見たか探してばかり。
19時メールを見る。迷惑メールを消そうとして,なんとなく内容をチェックすると、その中に甥の名前そっくりな差出人がある。
 開いてみると、迷惑メールどころか重要な内容で甥から。
8月20日の往復航空券3人分を送ってくれたのだ。
危ないところであった。
 早速昨日買ったプリンターで,プリントアウトする設定。
20時夕飯だと妻が呼びに来る。メールを見せる。
プリントアウト出来てそれを持って下に行き夕食。
妻は私に言ったというが、どうなっていたかは知らなかったので驚く。
長男は仕事の関係で決められないのだというが、私は妻が言っていた長男のお休みに合わせるといったのしか覚えていなかった。映画をテレビで見ていたと長男は20時40分ぐらいに食事に来る、あれ以来やっと顔を見る。
21時部屋に戻る。22時長男が出たよと階段を登りながら声をかける。
 一段落させ風呂に行く。伸びたヒゲを剃る。カミソリがあまり良く切れない。確か前にダイソーで6個入りを買った,母が亡くなる前だったからもう1年以上前だ、それがまだ1個残っているのだから、安いと馬鹿にしたもんじゃない。
22時20分部屋に戻りパソコンブログを今度は消えないようにワードで書いている。
23時30分今日の分だけしかできないが前の文はまたということで。
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7月13日

2010年07月13日 23時51分50秒 | Weblog
7,243位 / 1,436,440
昨日の歩数:385歩
起床時間 :5時55分
血圧   :106    65
脈拍   :63
体温   :35.6℃
体重   :66.0kg
-----------------------  
7時30分テレビをみる
体温血圧を計り,体重を計りに8時過ぎ下に行く。
8枚切り1枚で朝食。
妻を8時34分窓から見送る。雨が少し強くなり一寸心配。
9時30分長男を乗せて家を出る谷戸で給油。領収書の担当者の名前イニシャルDの主人公。
10時5分長男を送る。
10時30分帰宅する
パソコン
11時32分岡部先生から連絡をもらう。アトムの少し大きめの人形誰か持っていない?
電話を切って手塚プロの森室長に電話をしてみようと。携帯で電話を入れふと時間を見ると12時丁度。食事に出ているはずなので切る。(そしてすっかり忘れている(14日23時50分現在)下に行くと珍しく次男が「あとで買い物に連れてって」と。わけを聞くと怪我をして特別のバンドエードを買いたいのだという。
釣りに行って来て足でも切ったのだろうと思った。
14時15分妻が帰ってきていて「お昼」と呼ぶ。
最近は一人での食事。妻は先に洗い物などをしている。妻が来てテレビを付ける。次男がいつ行く,と妻に尋ねている。前に決めていたのだろう。

14時45分買い物にいくことにして家を出る。
私もついでにプリンターのインクを買うつもり。
小金井街道の薬局へ行く、上のダイソーデインクを探すが、換えのインクしか無い。
社外品のインクでも良いと思っている。
思ったのか高すぎたのでドイトまで行ってみることにする。帰りにハードオフへ寄ろうという私の希望。ドイトで買い物を済ませる。インク社外品はあったが約900円これなら純正品なら1000円で買えるのでそっちがよさそう。でも6000円か。次は夕飯の買い物先に滝山の商店街に行くことにする。雨がひどくなる。マンゴが安いので一山で買う。(これがクセモノだった,家に帰って裏を見るとまがグリーン後2~3日ん日寝かせてから食べてと言われたらしい)次男はすっかり足を怪我していると思っていた雨の中つらそうに歩いていた。
 ハードオフ行きをやめることにした。妻が不平を言う。隣の島忠で草花を見たかったらしい。まだどこか行きたそうなので新所沢街道白山公園手前信号のなを手前のディスカウントショップへ行くかと尋ねた。今は賛成,次男も行てもいいよ。行く。
釣具は小さなものしか無く次男は期待はずれ。2階へ行く。電気製品。そこで目を引いたのがプリンター、なにせジェットが詰まっているのでインクを買っても良くなるという保証はない。2007年モデルパソコンのLX40Uと同じなのが曰くがありそうな気が否縁だろう、私に買ってもらうため待っていたのだ。エプソンPM-A830十分でしょう。
 こんな時決まって妻も何か買ってもらおうと思うらしい。出費で苦しいのに昔からそうであった。
 近くにあったゴミ箱を取り,これも一緒に払っておいてという。お店の人がサービスでくれた。どこかへ行っていた妻が戻ってきてこれもとかsを突き出す。それらを買って家に戻る。3ヶ月の保証をつけてくれた。何かあったら返金してくれるという。
早速置き場を考える。なんとか市を換え場所を確保する。LX40Uの隣。そして専用にする、インストールなど準備をする。
17時50分松井さんから16時54分着信履歴。電話をしてみるがすでに退社か。
20時になり夕食に呼ばれる。
20時40分部屋に戻る
21時15分インストール再開。
21時30分再起動
たくさんのソフトもインストールしてどうにか使えそう。
21時51分長男から迎依頼。直ぐに家を出る。
22時20分長男を乗せ帰路に着く。22時45分家に戻る。
長男のあと、23時10分風呂に入る。妻たちすでに入っていて電源切ってある。
風呂から出て電源を切る。部屋に戻る。
1時最終メールチェック。メールが着ていて画像の文字が読みづらくなんとかならないかと。
画像なので難しいと返事を出す。しかしホトショップで修正して見たり。文字を太くしてからワードからHtmlにして画像に変換する作業。
文字の位置が微妙にずれるので何回も仕上げてからの修正上書きを繰り返す3時半やっと納得いく画像に仕上げる。くるくるに変更依頼しようとするが変更できず今のを消去新たに依頼。文章を新たに文字で書き込む4時を過ぎてしまうもう寝なくては明日が(今日)ある。
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7月12日八波一起のご意見番

2010年07月12日 01時03分34秒 | 街ネタワイド
昨日の歩数:1279歩
起床時間 :7時30分
血圧   :121    67
脈拍   :63
体温   :35.7℃
体重   :66.2kg

9時35分家を出て長男を送っていく
10時02分社について10時30分家に戻る。
パソコン
11時05分河井先輩から電話があり18分までおしゃべり。

16時30分街ネタワイドリハーサル。
お題が決まる。
パソコン3代の電源を入れそれぞれで小田いのヒントなど調ベル。
お名前など間違えない様にメモをとる。
チャプチャーをつなぎパソコンに録画する準備をする。
18時八波一起の街ネタワイドが始まる
10分ニュースのあとご意見番
一起さんが電柱に激突した話題
今日のお題は
民主大敗 過半数割れ
スペインが初優勝 延長1-0でオランダ破る
女性旅客機長、初フライト


20時夕食
21時30分風呂に入っておく。
ブログを書き始める。かなりの長文になってしまう。
22時03分長男から迎依頼の電話、すぐに迎えに行き23時家に戻る。

(折角何時間もかけて書いたのに変なリンクをしてしまい急いで戻してもすでに手遅れみんな消えている。
ワードか,メモに書くようにしていたが、急いでやろうとしたのが悪かった。
なんとまた懲りないことか、そしてまたやる気を無くす。)
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7月11日

2010年07月11日 11時59分22秒 | Weblog
8012 位 / 1435524
昨日の歩数:853歩
起床時間 :8時00分
血圧   :113    70
脈拍   :64
体温   :35.7℃
体重   :66.0kg
-----------------------   
1時30分東部地域センターにて「市民が語る戦争体験」打ち合わせ
アマゾン「誰も知らない手塚治虫」順位を見ると上がっていた。

そしていよいよ在庫がなくなり通常1~4週間以内に発送します。と変っていた。
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10日

2010年07月10日 11時57分20秒 | Weblog
昨日の歩数:568歩
起床時間 :6時50分
血圧   :117    73
脈拍   :62
体温   :35.7℃
体重   :65.9kg
-----------------------   
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9日

2010年07月09日 11時52分20秒 | Weblog
6916 位 / 1434786ブログ
昨日の歩数:3960歩
起床時間 :7時55分
血圧   :117    73
脈拍   :62
体温   :35.7℃
体重   :65.5kg
-----------------------   
小平図書館友の会訪問報告書作り
市民が語る戦争体験ポスター作り
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8日

2010年07月08日 09時18分37秒 | Weblog
7,621位 / 1,434,298
昨日の歩数:2087歩
起床時間 :8時05分
血圧   :103    70
脈拍   :68
体温   :35.7℃
体重   :65.8kg
-----------------------  
目を覚ましてテレビを付ける。8時5分あわててキャンネルを変える。
アナログの時には直ぐに変わったが、デジタルにしたらチャンネルが替わる時間が長くなっていらつく。便利になった所以の不便。
テレビを見ながら体温と血圧を計っておく。
昨日岡部先生から電話を戴いていた、別にこれといった用事もしていない時間、
パソコンデスクの上の充電ホルダーに置いてあるから築くはずだが、トイレにでも行っていた時だったのであろうか。
 そこで上着のポケットに電話を入れ下に行き歯みがき洗顔をする。体重を測ろうとして,歩行計を持ってきていないことに気がつく、ポケットに携帯を入れていたので勘違いしていたのだ、取りに行き戻ると妻は出かけて行っていた。
体重を計り、食パンを切らしたので水餅で朝食とする。水餅は少しふやけてきていた。水を変えておく。前に買っておいた韓国のりが出てきたので餅に少し醤油を垂らしのりを巻いて、牛乳を温め新聞に目を通して朝食とする。
 イチローはどうしたかなと気になるが,あれほど騒いだのに今ではメジャーリーグはメモ以下の扱い、ただまたヒットを打ったことだけが分かる。
 部屋に戻りパソコンの電源を入れる。メールのチェックや、歩行系からのデーター取り、体重表への記入、アマゾン「誰も知らない手塚治虫」のチェックと一覧表への記入など、
。迷惑メール、ほとんどが私宛のメールアドレスではない、これも仕組みが判らない。
 9時8分になっても長男が起きた様子がない,起こしに行く。やっと起きられ10分下に行く
9時40分長男が出かけて行くのを窓から見送る。
 11時過ぎぐらいにサンライズに行き岡部先生と待ち合わせの予定、すっかりと晴れたので,バイクで行こうかなと思っている。
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7月7日雨の七夕

2010年07月07日 23時14分08秒 | Weblog
8711 位 / 1433775
昨日の歩数:3896歩
起床時間 :7時10分
血圧   :106    65
脈拍   :60
体温   :36.0℃
体重   :66.0kg
-----------------------
アマゾンランキング、今日は2冊も売れている、だからとうとう残り一点。
「1点在庫あり。ご注文はお早めに。 」の表示に変っていた。

妻が出かけるときは少し雨が降っていた。
心配していたが9時頃一度は太陽が照らすほど天気は回復。曇である。
 昨夜3時帰宅の長男は9時を回っても起きれない、部屋に行って声をかける。「少し遅れて行く」との返事がある。「小平図書館へ行ってくるよ」と言って9時45分バイクで家を出る。
図書館には9時53分ぐらいに着く。すでに開場へ行ったようである。その場所を書いた神をパソコンデスクの上に置き忘れてきた。すっかり思い出せない。仕方なく図書館の受付に行って聞く。それが図書館以外で、裏に回る様に言われた。集会できいる場所らしいのですがどこでしょうかという無理な聞き方。ベテランの職員ではないらしい若い彼女ではにが重すぎた。そこへベテランの職員がやってきた。その人に尋ねてくれている。直ぐに館外奉仕室ですかと言ってくれる「そう、それ、館外奉仕室ありがとう、それは合やっていけばよいのですか、裏に回るように言われているのですが」と尋ねる。この裏で中庸口を入るとすぐです、と言ってくれた。駆け足で裏に回る。それらしい看板屋案内が見えない一回りしたが判らない、公民館の建物に入る。受付は図書館の隣で裏から入っただけ。植え付けの人は知らなかった。やはりまだ入って間もない人たちらしい。ことらもベテランらしき奥に座っている人に尋ねる。すgに分かる何度か前までさがしていたときに行った建物、入るとなるほど通用口。右手ドアに館外奉仕室。そして東久留米図書館友の会様と書いてある。ノックをして入室。すでに書い意義は始まっていたがお詫びを述べて参加する。
 小平市、図書館友の会の人たち7人ほどお見えでこちらは私を含めて3人。行って良かった。少しは足しになったであろう。
 長い歴史がある小平さんであった。この経験など貴重な話をそれぞれの担当者から資料など交えてお聞きする。目的の古本市のノウハウをも、丁寧に語ってもらった。
終わったのは13時近かった。それほど熱心におはなしいただけた。公民館のロビーで3人で打ち合わせをして13時半図書館を後にした。13時50分家に戻る。12時37分岡部先生からメールを戴いていた。明日のサンライズ行きの件。
14時冷やし中華での昼食
14時19分岡部先生から電話を頂く「メール見て」メールを見ると12時47分に最後追伸を頂いていた。
15時28分岡部先生から。
パソコン
今日は黒澤明の「生きものの記録」「虎の尾を踏む男たち」「醜聞スキャンダル」の3本を見る予定
20時夕食
22時風呂に入る。
ブログがたまったので書き始める。明日こそ早く起きようと思っていたのに1時を過ぎている、気がつけば長男の帰っていた。
3時13分これを書き終わる。もう寝ておかないと明日が心配。
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7月6日

2010年07月06日 00時46分18秒 | Weblog
昨日の歩数:189歩
起床時間 :8時23分
血圧   :115    70
脈拍   :68
体温   :35.7℃
体重   :65.9kg
-----------------------  / 
昨夜も寝たのが5時を廻っていた。コメントに気がついたのが運のつき、2時から書き始め、覚えていることが出来ないので、そのたびパソコンの中をあちこち引っ掻き回しては、難しい横文字なんかを捜し回るものだから時間ばかり食ってしまうのだ、
だからまたまた起きられなかった。まあ、午後7時30分という手もあるか。
(でも結局は気がついたのが7時50分、まだ大丈夫の気で居たが、45分までだよ)
雨模様が続き、むしむしと蒸し暑い日が続く。非妻は扇風機だけで過ごすのだが夜ねるときばかりはエアコンを入れ、扇風機をかけ、どちらも1時間と2時間のタイマーを入れて寝ようとしている。
しかし寝付かれず、夜が明けてしまう。
 せっかくのLX40U このままではただの、不用品のゴミ、なんとか活かしたいと、ない頭で考えを巡らす。どうせならXPのホームではなくプロの方をインストールしたい。しかしアップグレードではインストールが出来ない。
 そこで考えたのが同じ富士通の2004年モデル。FMV CD620 のリカバリーディスク。
同じメーカーならインストール出来るだろうという、乱暴な考え。
 長男を送っていかなくて済んだので、パソコンの電源を入れた。
10時我復元を試見也。リカバリーディスクのCD3枚を準備する。手順はFMV-C620 CX620取り扱い説明書の リカバリー概要 手順にしたがって試みる。
 約30分との表示。その間別のパソコンで黒澤明の「一番美しく」を見る。
月刊広場のアンケートの為也。ト言ウノガ私自身ヘノ言ヒ訳。
約90分也。この映画は黒澤明第2作と言われている。1944年作品だから戦時中の作品。
討ち手し止まぬの時代、鬼畜英米なのである。今の北朝鮮を彷彿させる。また少し前の中華人民共和国然りである。
出演の女優達は実際に女子挺身隊員として光学工場に入所、実生産に従事し寮生活を送りながら撮影したという。
 そんな戦前の映画、戦後直ぐの生まれの私では見ていないはず、しかし姿三四郎と言いこの作品といい、見覚えのある場面、鼓笛隊のシーン等うる覚えている場面があった。
 母が映画好きであった。物心ついた小学生時代上映が替わるたび(一週間ごと)映画に連れていかれた。今考えるとションベンくさい映画館で多分空気も悪くなり、酸素不足のため頭が痛くなるのであまり映画館は好きではなかった。それでもお菓子など買ってもらえるので着いて行ったんだと思う。
 浦和には映画館が幾つかあった。浦和劇場と、浦和パレス座、月の宮劇場などであった。浦和東映が出来て、浦和劇場が大映、パレス座が日活、月宮劇場が東方、新東宝、となり一週間剛体で3本立てであったと思う。あれ!パレス座って洋画専門の方だっけ?高校生の頃駅の側に洋画館ができその頃から日本映画を見なくなった。
 家の母は策士である、映画を見るため、親戚の子を送り込んだ、切符売り場にである、だから私も石原裕次郎の映画など見るときにはお金を払う必要がなかった。映画はお金を払ってみるものだとは考えていなかった。高校時代は洋画となったがこれも近所の家が毎回映画のポスターを張っていた。すると招待券が貰えるのであるが、それが回って私のところに来る運命になっていた。だからお金を払って映画を観るようになったのは高校を卒業して、虫プロに入り給料をもらってからだったと思う。しかし、みんなは知らなかったが、映画代は虫プロでは教養費として請求すれば貰えたのであった。
横道にそれた。
 だから多分田舎だから1947年の放映ではなくその後あとに放映されていたのだと思う。
そうであれば5、6歳の時なので少しはお覚えていてもおかしくないと思う。
 手塚治虫先生が宝塚にお母さんに連れられて同じ年頃に行っている、出し物のことを書いている。ある人が、手塚先生が見たと言っている出し物は、まだ小さすぎる頃のものなので覚えているのがおかしいとの指摘があったが、私もその様に心が動かされていたが、今回の事で、やはり手塚先生が見たというのはほうとうだったと思うようになった。それに思い出話としてお母様から何度か聞かされていれば、想像力の豊かな手塚幼児なら覚えていても不思議はないように思える。

WindousXPをインストールしました。多分支障は出るとは思いますが、粗大ごみとして捨てなくても済みそうである。
11時15分終了ス。

この日長男3時帰り。やはり眠れずにいた。もう今日は小平へ行かねばならぬ。雨が降らなければよいが。
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7月5日 アニメファンさんにコメントを頂く

2010年07月05日 23時44分14秒 | Weblog
昨日の歩数:4680歩
起床時間 :8時35分
血圧   :119    75
脈拍   :63
体温   :35.8℃
体重   :65.5kg
----------------------- /
 どうせなら最悪8時には起きたかった。
眠りについたのは朝の6時、頭痛がするほどの寝不足である。
 妻が上がってきて、「雨が降っている」と起こしに来たのである。
そのまま妻は出かけていく。
 急いで体温と血圧を計り、下に行って歯みがき洗顔、体重を計り、食パン8枚切り1枚での朝食をすませる。
 55分長男の部屋からめざまし。少し遅れて長男が起き下に行く。
送るつもりになっていたが、雨は上がってしまった。
9時40分長男はバイクで出かけていく。それを外で見送った。
13時アマゾンランキングをチェック。
そうそうは売れるはず無いので今は1日1回しか見ていない

すると驚いたことにナタランキングが上がっており、3点の在庫あり、ご注文はお早めにの表示確実にお買い上げ戴いているのだ。

アニメファンさんからコメントを2010-07-05 01:35:01
頂いた
日替変わってすでに七月六日四時近くなっている。お答えは長文になりそうなので、ことらに書いておこうと思う。

Operating System Not Found.これはBIOSの設定で、起動デバイスの
リストにCD/DVDを入れて、起動の順番をCD/DVDにしていますか?もっとも3枚の
リカバリCDを作り損ねているのかもしれません。そもそも、CD/DVDドライブは故障しておらずに、CD/DVDを正常に読める
など正常動作していたのでしょうか?

私が今まで使っていたパソコンとは違い、このFMV-DESKPOWER LX40Uはとても判りやすくなっておりまっす。
まずBIOSですが、昔はこれが悩みの種で英語の判らない私は辞書を片手に苦労しました。
 しかし立ち上がり時にキーボードのF2ボタンを押すとBIOSが表示され、手順通りにすれば簡単に出荷時の状態にのどせるので
CD,DVDを一番に指定する必要がないのです。

そして手順では
「リカバリ&ユーティリティディスク」を使ってできること
1パソコンの電源が入っていたら、電源を切ります
2キーボードのF12 の位置を確認し、押せるように準備しておきます。
3パソコンの電源を入れ、FUJITSUのロゴ画面が表示されたら、すぐに F12を押します。
4「リカバリ&ユーティリティディスク」をセットします。
  認識されるまで 10 秒ほど待ってから、次の手順に進んでください。
5 表示されたメニューで を押して CD/DVD ドライブに該当する項目を選択し、↓を押します。
6 そのまましばらくお待ちください。
  この間、画面が真っ暗になったり、画面に変化がなかったりすることがありますが、故障ではありません。
電源を切らずに、そのままお待ちください。

MC DOSVみたいな文字化変化し(てもちろんCD,DVDドライブも読み込んでおります)
Operating System Not Found.で停まってしまう。つまり作ったディスクが壊れていた。というわけです。
 
こんな 年寄りでもパソコンが判らなくてもなんとかなるという至れり尽くせりのパソコンなんです。

(だからこの後の作業ができなかったのです。)
{FUJITSU ロゴ画面が表示されないときは
(スタート)→ の →「再起動」の順にクリックし、パソコンを再起動して FUJITSU ロゴ画面を表示させてください。

7 「トラブル解決ナビ」で、「ユーティリティ」タブをクリックします。
8 「かんたんバックアップレスキュー」をクリックし、「実行」をクリックし
ます。
9 「かんたんバックアップレスキューのワンポイント」ウィンドウの内容を
確認し、「閉じる」をクリックします。
10 「項目を選択して保存を実行」をクリックします。
11 「保存するユーザー プロファイル フォルダを選択してください」ウィンド
ウで、データを保存したい[ユーザー プロファイル フォルダ]をクリッ
クし、「OK」をクリックします。
12 「保存する内容」の一覧から、バックアップしたい項目の をクリックして
にします。
すでに になっている場合は、クリックする必要はありません。}


DVDドライブ指定は電源を入れF12をクリックすることで簡単に指定できますのでCD,DVDに指定しています。
試しにWindows XPをインストール出来ますのでドライブは正常です。

今回の不幸な出来事は、Windows のアップデートを自動にしてありました。
始終アップデートを促されその都度、アップデートが失敗しましたの表示に気になり始め、履歴を見てみましたら、
2009年8月頃からアップデートが出来ておらす、かなりの量の修正プログラムが、アップデート失敗になっておりました。

その、量が多いせいかどうか、すでに自動ではアップデート出来ない状態でした。
4っついっぺんにインストールすると、インストールが失敗しましたの表示になってしまいます。
試しに一番古い日にちから一つ選んで試したらインストール出来たので、2日がかりで、
一つづつインストールしていきました。

するとまた、自動でアップデートのインストールが出来るようになったのです。
 システムでSP1は正常にインストール出来ているのも何度か確認しております。

今回、その日はSP2のインストールでした。

数日前に富士通のソフト「マイリカバリ」でDVD3枚のリカバリーを作成しました。
だから自動でSP22のインストールが始まったとき、使えなくなるソフトが在るかもと心配でしたが、まあ良いかと安心してそのままインストールをしました。

ファイルがインストールされセットアップが始まり、ドライバー関係のインストールが始まりました。
!!0Xc0000034!! 142/51219 (program_files_windows_calender_49985597510...)
という表示でインストールが停まっておりました。英語がわからないので12時間以上そのままにしておきましたが
これは異常だと気がついたわけです。
 そこでSPがインストールされる前の状態に戻そうとしましたが、なにせWindowsが対上がりません、
セフティーモードにして、復元をしてみても
!!0Xc0000034!! 142/51219 (program_files_windows_calender_49985597510...)
で停まってしまい。
前回の正常な時にを設定してもやはり
!!0Xc0000034!! 142/51219 (program_files_windows_calender_49985597510...)
で停まってしまいました。
 検索してみるとSP2は途中ではアンインストールできないようで、修復は諦めてリカバリーするしか無いとのことでした。
そこで、リカバリーディスクを作っておいてよかったと喜んでいたのですが、どうしてもOperating System Not Found.になってしまうのです。
 
腹がたつのはWindowsです。パソコンが判らないものに取ってあまりにも不親切です。危険だからアップデートしろとさんざ脅かされ、自動でのインストールが
お勧めと宣伝され、もう何度騙されたか、インターメットが重くなり、ツールのインターネット・オープションから履歴を消去することが当たり前だと言われ、
殿様商売の売りっぱなしの商人には年寄りとして頭にくるし腹も立てている。
 富士通はSP2の問題ですのでMSに尋ねてくださいという。言われてみればその通りで、非はない訳だから。
そこへ行くと悪徳商人めわびすらしないで、コチトラが悪い言い方。なかなか電話がつながらず、継っても人の心の通わないガイダンスとやらにしたがって。
そして相談すら有料と来た日にゃ、誰か無料でWindowsに替わるソフトを配布してくれ。
 とまあ、口もこのぐらい書いておけば少しは気が休ます。
Windows 3.1から95、98、Me Netなんだかんだとずいぶん金を使わされた。その上まだ不良品を使わせられている。
車だって、リコールばかりなら人気がなくなる。独占だと、いい気になっていると、NECパソコンの二の前。

DVDメディアについても月百枚単位で使っているので、最近のはバグがほんとに少なくなって安心しております。

セキュリティ関係のソフト、はNTT西日本のものがインストールされていて、やっとの思い出アンインストール出来たところでした。
クリア出来ましたので問題は無いと思います。。

SP1がインストールされてないとSP2のインストールが出来ないということも知っておりました。
 問題はドライバーのインストール途中!!0Xc0000034!! 142/51219 (program_files_windows_calender_49985597510...)のままでWindowsが立ち上がらない
結果、なにもできないということです。
 普通ならゴミにしかならないので、せっかくのソフトがなくなってしまうのが残念ですが、お金は掛けたくないので最後はXPをインストールするつもりです。
コメント (1)
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7月4日

2010年07月04日 23時01分28秒 | Weblog
8203 位 / 1432593
昨日の歩数:2886歩
起床時間 :8時50分
血圧   :105    64
脈拍   :58
体温   :35.8℃
体重   :65.9kg
-----------------------
いつもの日曜日、体温と血圧を計りながら、テレビを見ている。
9時過ぎ体重を計りに下に行く。お持ちで朝食にしようとしていると妻が起きてくる。
電子レンジでお持ちを温め、一寸醤油でのりを巻き、ミスマッチの牛乳を温め、それで朝食をすませる。
 その後部屋に戻る。パソコンの電源を入れいつものチェック、
アマゾンランキング。

また上がっている、それもかなり。昨日売れているのに同じ5点の在庫ありだったので仕入れているのだと思う。本日はもこり4点となっている。何か本当になるのかな。出版して1年目になったのだ。
12時までゴロゴロ、テレビ等見たりしている。
それではいけないとやっと起きて着替をし、12時25分家を出る。
神明橋、落合川が旧河川とわかれるあたりで一人の男が草刈り機で水辺の草を買っていた。機械の刃の部分が回転し、水をはじくので、全身前だけが跳ね返りで泥まみれになっていた。大変だがそれでも楽しそうに見えた。
 図書館では返却をした。予約してあるもので準備が出来たものがなかったので、まだ借りてなさそうな、小説CDを探し、新しく入ったらしいもの4枚を借りる。
隣の生涯学習センター入り口に「歌謡祭2010」の看板が出ていた。そこで中に入る。
 無料ということで、覗いてみるのも一興かとも思ったが、二時までとのことで、やめる。ロビーには、着飾った、出演者、らしい市民、それも年配の型たちがたくさん居らっしゃった。館を出ようと入口に向かうと、何か気配を感じた、見るとそこには手塚治虫先生のシルエットがあった。雰囲気がよく似ている人でベレー帽をかぶっているので、なおその様に見えた。隠し撮りで携帯で撮る。
 ディスカウントショップへ寄る、仲の良い農家の夫婦が居る店は、日曜はお休みらしい。
13時20分家に戻る。すでに昼食の用意が出来ており、お昼と成る。
 長男は友人と出かけていったとのことで、駐車場に車が無かった。
朝食が住むと妻は直ぐに洗い物を始める。部屋に戻っていると妻が「出かけてくるね」と言う、次男と一緒らしい。ということは、一人ぼっち。「雨が降ったら洗濯物お願いね」この一言で、私は家から出れなくなる。実は、長男の誕生日なので、せめてケーキでも買ってこようと思っていたのだ。
pソコン見るのもやだけど、作業を始める。
17時過ぎ次男が先に帰ってくる、帰るなり「ポツポツ、来ているよ」という。直ぐにベランダへ飛んで行き、洗濯物を取り込み始める、次男も来て手伝う。雨がひどくなる。それが小ぶりになって妻ももどってくる。
 急いで戻ったのでお使いが出来なかったらしいが、それはそう、というと私にやな顔をされるのではと思ったのか「ケーキまだ買っていないでしょう、一緒に買いについていこうかしら」とは、うまく考えたものだ。
出かけようとしていると長男が友人を連れて戻ってくる。
 マルフジで買い物をする。良いこと(お使いに車で連れて行く)すると運河よく朝市ならぬ夕方市と称して、卵がお一人様一パック98円、2パック買えたので、少しの間気にしなくて済む。買い物を終え、近くのシャトレーゼで、ケーキとアイスを買う。
18時30分家に戻る。
 妻がケーキが冷蔵庫に入らないという。雨が降ったし気温が高いしで蒸し暑い。
なにも食事が終わったあとでいつものように食べるほうが間違っている、いつもは長男が帰りが遅く、やもうえず、食事のあとにしているだけ、直ぐに食べればいいんじゃない、という。
 部屋に戻っていると呼ばれる。いつもは4人少し余った分は次の日の楽しみ、蘇化子今日は一人増えて調度良い。
 20時部屋に戻っていると夕食だと呼ばれる。
風呂も入り今日こそ早めに寝ようとする。
しかし結局は6次になっても眠れず。あまが降ったら送っていくのでそのまま起きていた。
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7月3日

2010年07月03日 14時36分34秒 | Weblog
7,728位 / 1,432,240
昨日の歩数:957歩
起床時間 :7時35分
血圧   :105    70
脈拍   :54
体温   :35.7℃
体重   :65.9kg
-----------------------
テレビの電源を入れる、8時までテレビをみる。
オリンピック、何していたっけ、10月10日
前日雨だっけ?
その1週間以上前から、原宿駅 選手村ゲートへ電車で通っていたっけ。
 柔道のヘンシング、そして友達となったネパールの選手団。
陽気なメキシコの選手、顔なじみになって「アミゴ・デラ・ハポン」など叫んで抱きしめられたりしたっけ。
ネパース選手のガイドをしたり、明治神宮ではネパール人の真似をしたっけ。
防犯の婦人警官とも仲良くなり、閉会式にはねパース選手の招待で選手村の中でテレビで見ていたっけ。すでにカラーテレビだった気がする。
 10月10日の、あの日抜けるような真っ青な空に、自衛隊機が描く五輪の輪を、なんか歪だなと、おもいながらも感動していたっけ、あとで聞いたらとても難しい技術だったと聞いた。
そんなとりとめのないことを思い出している。
 ホームページの更新にとても役に立つと喜んでいたFMV こんなことになり、ただのごみになりそう。
昨日は思い悩んだ上に、リカバリーディスクをなんとか手に入れることができないかと、恥も外聞もなく、知り合いの少ない私は自分の掲示板やブログに助けを求めるカキコにをしてしまった。後悔などもあってなたのが4時近く。寝不足なのか起きられず、水餅で朝食を済ませたあと横になって、見るではないテレビをつけたまま目をつぶっていた。
 「お昼食べよう」と階段の途中まで登ってきた妻が声をかける。いつの間にか眠っていたのか、その声で目を覚ました。テレビの時間は12時10分になっていた。
 そーめんで昼食。1時東久留米の天気をテレビで確認する部屋に戻りパソコンの電源を入れる。
アマゾンランキング

 順位が上がっている まだ買っていただいているのだ。ありがとうございます。

メールなどチェックをする。
迷惑メールが多すぎて、Yahooのアドレスをことごとく変更していた、比較的迷惑メールが少なくまだ変更せずにいるアドレス宛にメールが届いていた。虫プロの穴見常務についてのご質問であったが、それを読んでいかに、穴見薫の事を知らないでいたのかを、痛感する。
 お墓参りなどしていないからお墓がどこなのかも知らないし、前身も「特攻隊堕れ」という言葉でしか、聞いていないのである。虫プロにすでに訪ねて判らないという、わこさん
ならとは思うが、わこさんシンパの友人の小林先生から年賀状すら途絶えているような事で電話もできない状態と聞き及んでいる。
 なべこさん当たりが帰国すれば、必ずあいに行くだろうから、消息が聞けるのだが、それもいつに成るか判らない。もと虫プロ社長の川畑さんも健康を壊して入院しているという話を聞いたばかりである。穴見さんが倒れたあの日、社超室長だった島方産を乗せて自宅を尋ねたはずだかその場所すら思い出せずに居る。私には荷が重い質問である。
 妻たち出かけていく、雨が降るかも知れないというと、「もし降ったら取り込んでおいてね」のシバリの一言、その一言で、また外出出来なくなった。
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7月2日 SOS!!

2010年07月02日 23時19分55秒 | Weblog
7,406位 / 1,431,885
昨日の歩数:6148歩
起床時間 :6時40分
血圧   :121    68
脈拍   :60
体温   :35.7℃
体重   :65.5kg
-----------------------
7時30分テレビを見る。
8時下に行く、水餅で朝食
9時10分長男に声をかける。15分長男起きる、45分出かけて行く。
パソコン ページ修正など
14時妻が帰宅、インスタントカレーで昼食。釣具屋へ行っていた次男が戻る。
妻の自転車を見ていて、チェーンがたるんでぶつかるのは直せないと妻に行っている。
「あとはお父さんに直してもらって」と言っている。
自動車整備と自転車は違う、やはりそこは専門家、なんとなくは分かっているが、部屋にそっと戻り検索で、「自転車チェーン緩み調整方法」見て確認しておく。
 下に降りていき外に出て妻の自転車を逆さにして、後輪のナットを緩める。
工具な無い、インチのスパナを探すため、物置から工具箱を3つもとり出すが、そこには入っていない、
変速機のついている方のナットがどうしても緩まない。
 CRCをつけて、ドライバーを利用してハンマーでショックを与える、そして細めのモンキースパナで挟んで、その柄をハンマーセショックを与える。やっと緩む。あとは調整して、後輪を回して真っ直ぐ回るよう調整し。ナットを締めて終了。油を差しておく。ブレーキも調整する。前輪がブレーキゴムのカスで真っ黒、その原因がブレーキラバーが少しはみ出しているからラバー取り付けナットを
 緩めぴったりと会うようにプレーキレバーを握った状態でナットを締める。ついでに真っ黒になったリムをきれいにする。手は真っ黒クレンザーで汚れを落とす。部屋に戻りパソコンの電源を入れ続き。
16時遠雷。10分雷が鳴り出す。25分パソコンの電源を切る。下に行くと妻が居ない、次男に尋ねると「おお使いに自転車で行ったよ」「どこ」「ヨーカドーに行くと言っていた」降られなければ良いのだが、土砂降りなら電話をくれるだろう、携帯を側に置く。
17時30分雨はひどくならず妻ももどっていた。
18時窓の下を見ると雨はすでに止んでいて、雷鳴もしていない。
18時10分パソコンの電源を入れる。

SOS!!
Windowsの更新を、自動にしておいたらService Pack 2 のインストールがされました。
 しかしWindows Vistaのファイルがおかしくなっていたらしく、途中でインストール出来なくなってしまいました

いざという時のために内蔵ソフトの「マイリカバリ」で3枚のDVDを作っておきました。
しかし、こちらも、operating system not found (オペレーティングシステムノットファウンド )でそのDVDが使えません
 どなたか同じパソコンをお持ちでしたら、
「マイリカバリ」デスクをコピーして頂けないでしょうか
母の喪が開けるので、それまでに私のページの更新を済ませようと、張り切っていた矢先のトラブルで困っております!!。

型名 FMVLX40U
品名 富士通 FMV-DESKPOWER LX40U
2007年春モデル
どうかよろしくお願い致します。
コメント (2)
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