貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

留別吟から・・・死の世界への行程を!

2022-02-18 14:43:23 | 日記
令和4年2月18日(金)
 師匠は、この当時の留別吟から、
最後の句とされている
「旅に病んで」までを追究される。
 私も師匠に準じて整理してみることに。
 芭蕉最後の年には、
秀句、名句が目白押し。
 師は、この試みで知ってほしいことを、
「ふと別れた人と二度と会えない状況に
なりながら、生きた世界から死
の世界に滑り込んでいく
不思議な俳句の表現の一列を味わうこと」
と強調される。
 先ず、第一句。
麦の穂を 
 便(たより)につかむ 
   別(わかれ)かな
            (元禄七年五月十一日)
つづく。

旅と病と終焉

2022-02-17 15:54:32 | 日記
令和4年2月17日(木)
 これから、少し
「旅と病と終焉」と題し、
芭蕉の集大成を試みることに・・・!
『おくのほそ道』の旅は、
元禄二年(1689)の三月から九月、
四十六歳の時に行われたのだが、
その旅日記を完成させるための
慎重な推敲は、
芭蕉の元禄七年(1694)十月十二日、
五十一歳の終焉まで行われ、
世に発表されたのは没後。
 つまり、晩年の「かるみ」の主張と
時期が重なっている。
 そこで、過去の旅を見詰める重厚な俳諧と
現在の主張である「かるみ」の作とが
重なっている。
 こういう一見矛盾した手法を、
芭蕉は同時に見事に仕分けたようだ。
 芭蕉が晩年、健康を害したのは、
元禄六年(1693)七月中旬から
八月中旬にかけてである。
 急に体力が衰え、
持病に冒されて、
ひと月の間、
庵を閉じて人に面会するすることも避けて
いたと記録にある。
 さて、この持病とは何か?
 不明だという。
 翌元禄七年(1694)、
つまり、没年の五月十一日、
庵を出て、故郷の伊賀に向けて
江戸を発つ。
 その後、二度と江戸に戻ることは
なかった。
 つづく。

恵まれし大津の弟子達に!

2022-02-16 16:30:01 | 日記
令和4年2月16日(水)
 そして、その後の芭蕉の足跡。
8月15日、膳所義仲寺の無名庵に在庵。
      月見の句会を持つ。
9月13日、後の月見のため、
     堅田に行くが、
     風邪を引いて滞在となる。
9月25日、堅田より、無名庵に戻る。
     その後、伊賀上野へ。
 12月末日、大津に来て、
乙州の新宅に滞在し、越年する。
元禄四年(1691)1月上旬、
  江戸に行く乙州のための餞別俳席。
  伊賀上野へ。
6月10日、京都の凡兆宅より乙州宅へ。
  13日、京都の凡兆宅へ戻る。
  25日、京都から大津に移り、
      無名庵に滞在。
7月3日、『猿蓑』
    (『幻住庵記』収集)出版。
8月15日、新築された無名庵で、
    月見の俳席 
  16日、堅田の成秀宅で、
    月見の会。
9月中旬、京都へ出る。
  23日、無名庵へ帰る。
  26日、桃隣とともに、
     江戸に向かう。
元禄七年(1694)5月17日、
  伊賀上野を経て、
  大津乙州宅に一泊する。
5月18日、膳所へ移り、
  21日まで曲水宅に滞在。
  22日 膳所をたち、
    京都嵯峨野の落柿舎へ。
6月15日 用途から、無名庵へ。
    7月5日まで滞在。
10月12日 大坂、南御堂前の
  花屋仁右衛門の貸座敷で死去。
  遺骸は舟に乗せて、
  その夜のうちに淀川を伏見まで運ぶ。
10月13日、昼過ぎ頃、
膳所の義仲寺に入り、

翌日夜に、境内にある木曾義仲公の塚の
      隣に埋葬。
芭蕉の墓

木曾義仲公の塚
 逝去の日まで、本当に精力的に歩き、
大津を中心に京都等往復、月見の宴や
俳句会と弟子達と過ごしている。
 弟子にも恵まれたなあ、というのが実感!

「幻住庵記」初稿完成までの大津での芭蕉の足跡

2022-02-15 15:47:24 | 日記
令和4年2月15日(火)
 ここで、大津での芭蕉の足跡を
整理。
 取り敢えず幻住庵記の初稿まで。
 貞享二年(1685)3月中旬、伊賀上野から大津へ。
  千那宅・尚白宅に宿泊。
        のち江戸へ帰る。
貞享五年(1688)6月5日、
  大津奇香宅にて俳諧。
  この頃瀬田にて蛍見。
         江戸へ帰る。
元禄二年(1689)12月、
  大津智光宅で俳諧。
  膳所で越年。
元禄三年(1690)1月3日、
     伊賀上野に帰郷。
  3月中旬、
   膳所義仲寺の無名庵に滞在。
  4月1日、
   石山寺に参詣し、
  「源氏の間」を見る。
    6日、国分山の幻住庵に入庵。
  6月上旬、
   京都に出て、凡兆宅に滞在。
  6月19日、
   幻住庵に帰る。
   その後、数日を膳所酒堂宅に宿泊。
    25日、
     幻住庵に帰庵。
    28日、酒堂を伴って、
     唐崎明神に参詣。
     堅田本福寺に千那を訪問。
  7月23日、
    幻住庵を出て、大津に移る。
 こののち、しばらくして、
  『幻住庵記』の初稿が完成する。



我が生涯・・仮の世の仮の姿として聖諦!?

2022-02-14 16:34:04 | 日記
令和4年2月14日(月)
⑤の口語訳
 こう言ったからといって、
ただいちずに閑寂な生活を好み、
山野に隠れ世間から姿を
くらまそうというのではない。
 いささか病身で、
人との付き合いが煩わしく、
そのため世捨て人のように見える
のである。
 つくづくこれまで生きてきた歳月の、
拙い我が身の過ちを振り返ってみると、
ある時は武士の境涯を羨み、
一度は仏門に入ろうとしたが、
とりとめもない風や雲の動きに
身を苦しめ、
花や鳥の美しさに心を悩まして、
俳諧が仮の世の営みとして
生計を立てるための仕事とも成ったので、
とうとう世に立つ上の有用な才芸を
一切身につけることなく、
只は異界の道一筋に繋ぎ止められて
今日に及んでいる。
 白楽天は試作のために五臓の心気を
損傷し、
杜甫は試作のために痩せた。
 白楽天や杜甫が賢く華やかな才能に
恵まれているのに対し、
私は愚かで平凡といったぐあいに、
資質が同じではないが、
どちらにしても人の生涯という物は、
仮の世の仮の栖にすぎないのではないかと
思いあきらめて横になった。
先づ頼む 
  椎の木も有り 
       夏木立