貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

名古屋市: 笠覆寺:(笠寺観音)その1名古屋七福神の霊場まで隆盛!

2023-10-25 10:51:43 | 日記
令和5年10月25日(水)
名古屋市: 笠覆寺:(笠寺観音)        
 天平5年(733)、
僧善光(または禅光)が
浜辺に打ち上げられた流木を以て
十一面観音像を彫り、
現在の南区粕畠町にその像を祀る。
<本殿>

 天林山小松寺を建立したのが始まり。
 その後、堂宇は朽ち、
観音像は雨露にさらされるがままに。
 ある時、旅の途中で通りかかった
藤原兼平(藤原基経の子、875 - 935年)                     が、雨の日にこの観音像を
笠で覆った娘を見初め、
都へ連れ帰り玉照姫と名付け、
妻とする。
<山門前太鼓橋>
<阿吽仁王像>

 この縁で兼平と姫により
現在の場所に観音像を祀る寺が
建立され、笠で覆う寺、
即ち「笠覆寺」と名付けられたという。
笠寺の通称・地名等もこの寺院名に
由来する。
 鎌倉時代には塔頭寺院が派生し、
僧阿願によって境内には鐘楼が造られ、
尾張三名鐘に数えられる梵鐘が
鋳造される。
<王伝説伝説>


 この鐘は
建長3年(1251)の銘があり、
愛知県の有形文化財に指定されている。
 大晦日には除夜の鐘として
参拝者も撞くことができる。
 明治時代初期の廃仏毀釈
その他の影響で一時期荒廃が進むが、
昭和時代に住職らの努力で
隆盛を取り戻し、現在に至っている。
 厄よけや藤原兼平と姫の故事に
ちなんで、
縁結びを祈る参拝者も多いという。
 尾張三十三観音、
名古屋二十一大師の札所。
 また昭和30年頃には
名古屋市観光協会の後援により
大名古屋十二支恵当寺で
巳年の護り、
本尊の普賢菩薩の霊場になる。
 昭和62年には
「なごや七福神の恵比寿の霊場」になる。 
 二回目の参拝!
 千鳥塚へ。
~つづく。


名古屋市: 妙案寺(澤の観音)一句不明?芭蕉句碑2基!

2023-10-24 10:24:47 | 日記
令和5年10月24日(火)
名古屋市: 妙案寺(澤の観音)         
 寛文9年(1669)
織田正直が再興し、開山。
 熱田神宮四観音の一つとされ、
「澤の観音」として有名。
<本堂か聖観音堂か>

 芭蕉句碑は、
ウミガメかな?
 大亀の背上にあり。
 四面に刻印されている貴重な物。
<句碑群>
<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑の句は、
 「此うみに 
   草鞋すてん 
     笠しくれ」
「旅亭 桐葉のぬし       
 こゝろさし 浅からせりけれは   
 しはしとゝまらんとせしほどに」
と前書きあり。
<芭蕉句碑の背面と側面>

 もう一句あるということだったが、
見当たらず。
 あれば、
「海暮れて 
   鴨の聲 
    ほのかに白し」
 刻字判読不能とのことだが・・・。


名古屋市:法持寺その2「何とはなしに」から「山路来て」に!

2023-10-23 10:05:09 | 日記
令和5年10月23日(月)
名古屋市:法持寺その2
<本殿>

 法持寺には多くの俳人が立ち寄り、
松尾芭蕉や林桐葉、
若山牧水が句会を開く。
 芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』には、
同寺で芭蕉、桐葉、若原叩端を
連衆として,
三吟歌仙を催した事が記されている。
<芭蕉句碑>

 句碑の句は、           
「何とはなしに
   なにやら床し
      菫草」

 芭蕉が
門人林 桐葉の娘佐与の死を
悼んで詠んだ句。
 これが発案で、後に
「山路来て 
  何やらゆかし 
    すみれ草」 
と改める。


名古屋市: 法 持 寺 相撲の鉄砲柱と横綱北の湖の挨拶碑そして・・・!

2023-10-22 10:18:40 | 日記
令和5年10月22日(日)
名古屋市: 法 持 寺     
<山門> 
 
 天長年間、
空海が熱田神宮に参籠した際に
日本武尊を敬い、
延命地蔵菩薩像を彫って
小祠を建立したのが始まり。
 白鳥陵の宝物を護持する寺
である事から草創期は
「宝持寺」と称している。
 宝徳元年(1449)、
あるいは文明年間(1469 - 1486年)に
圓通寺2世明谷義光によって
曹洞宗の寺院として再興され、
承応年間(1652 - 1654年)に
現在の寺号である法持寺に改称。
<本殿>

 古くは熱田神宮大宮司・
千秋氏の菩提所でもあったと伝わる。
 戦国時代、
織田信長が桶狭間の戦いに向かう
途中立ち寄り、必勝祈願をして
いる。
  宝暦7年 (1757) の大火で
寺院の建物全てを焼失するも復興。
 その繁栄の様子は
『尾張名所図会』にも描かれている。
 かつては塔頭10ヶ院を数えたが、
後に3ヶ院を残して廃絶。
 残った3ヶ院は末寺となる。  
 現在、末寺は先の3院を
含めて23ヶ寺。 
<由緒>

 大相撲との関わりは、
昭和32年(1957)から30年間、
名古屋場所の際の三保ヶ関部屋
の宿舎として使用されたことによる。
<山門のすりこぎ>
<すりこぎ(相撲の鉄砲柱)の説明>

 境内には
横綱北の湖の石碑や土俵の跡
などが残っている。
<北の湖が横綱になった時、母親へ!>
<横綱北の湖の挨拶碑と横綱像>


 また、
日本相撲協会第9代理事長に、
48歳で就任したその記念の挨拶が
碑文として残してある。

 私が、一所を任されたのも、48歳。
 法持寺には多くの俳人が立ち寄り
句会が催されたようだ。
~つづく。

名古屋市: 千句塚公園  芭蕉存命中唯一の塚碑「千鳥塚」

2023-10-21 10:39:41 | 日記
令和5年10月21日(土)
名古屋市: 千句塚公園                    
     公園は住宅街のある高台にあり。
 芭蕉が自ら築いた句碑がある
中規模の公園。
 千句塚公園には、
「星崎の 
  闇を見よとや 
     啼く千鳥」
と発句とする芭蕉が、
この地で催されたことを記念する
「千鳥塚」がある公園。
<千鳥塚>

 滑り台や、アスレティックス
などの遊具があるポイントと、
小さなグラウンドの横付近の
2ヶ所から夜景が楽しめる処がある。
 芭蕉の星崎を詠んだ有名な句が、
公園名称碑に刻印されている。
 東海道の鳴海の近くの干潟に
星崎という地名がある。
 その地名から夜の星が連想され、
星崎は夜や闇や月に関係する
歌枕として、
メジャーな鳴海の傍らで
細々と命脈を保っていた。
 ところが、
芭蕉が目を見張るような
星崎の句を詠んだことから
一躍有名銘柄の仲間入り。
 と同時に、
句の中の千鳥にも注目が集まり、
星崎周辺は千鳥の名所となる。
<千鳥塚の説明>

 千鳥が闇夜に鳴くかは
さておいて、千鳥の群れが
飛び交う干潟は
星崎のイメージとなり、
干潟を見下ろすことができる
高台に千鳥塚の碑が建てられる。
<芭蕉存命中唯一の塚碑>

「星崎の 
  闇を見よやと 
    啼く千鳥」 
       芭蕉 (笈の小文)
「千鳥塚碑」は、
「貞享4年(1687)冬11月、
寺島安信宅での歌仙
「星崎の 
  闇を見よやと
     啼く千鳥」
の巻が満尾した記念に建立。 
<芭蕉塚碑:背面は「千句塚」と刻印>

 文字は芭蕉の筆、
 側面に興行の年月を刻印。
 これは芭蕉存命中に建てられた
唯一の翁塚。」
 貴重な塚碑である。