貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

行田市: 照 岩 寺 和顔愛語と父母に会いたい芭蕉!

2024-02-19 10:37:08 | 日記
令和6年2月19日(月)
行田市: 照 岩 寺   
<山門>
      
 門前に
パンパスグラスが
築山のように咲いている。
<パンパスグラス>
<微笑み地蔵>

 芭蕉句碑の句は、
「父母の      
   しきりに恋し    
      雉の声」
<芭蕉句碑>


行田市: 長 光 寺 虚子の弟子の句碑多し、芭蕉の句碑は?

2024-02-18 10:35:11 | 日記
令和6年2月18日(日)
行田市: 長 光 寺              
 保育園のある本性寺に寄ったが、
句碑はなし。
 後でメモを見れば、
そこから東150m行った所の
須加家にあるよう。

<長光寺山門>
<長光寺本殿>

 虚子の弟子達の句碑が
幾多もあり。



 芭蕉の句碑はなし。

 サロン風に敷地外は整備され、
小さな自由貸し出し文庫も
設置されていた。


行田市: 大 長 寺  大仏と二地蔵と芭蕉句碑!

2024-02-17 10:02:06 | 日記
令和6年2月17日(土)
行田市: 大 長 寺              
 3時起床、3時25分出立。
 高坂SAで仮眠。7時半着。
<大長寺山門>

 左に「しあわせ地蔵」、
右に「ごくらく地蔵」を侍らし、
中央に、
「三界萬霊」と記載された大仏様が
鎮座している。 
<大仏と二地蔵>
     
 しばらくは、
慈悲深くおっとりの表情に、
我を忘れる。
 大仏への思い、願いは
説明板に表されている。
<大仏への願い>

 大長寺は、
京都知恩院第29世岌善上人が
元亀天正年間に諸国巡行中、
当地に滞留し創建。
 寛永16年(1639)より
文政 6年(1823)まで、
忍藩主を勤めた阿部豊後守家の
菩提寺となり、
享保年間には大仏を寄進される。
(現在の大仏は、平成8年に再建)。
<芭蕉句碑>
<その説明>

 芭蕉句碑の句は、
「古池や
    蛙飛こむ
      水の音」

 説明板には、
緑泥岩製で、
高さ174センチ、
幅74センチ、
厚さ5センチと
記されている。


蕉道: 更科逆(さかさ)紀行 (中山道の宿場)その2深い思いで!

2024-02-16 11:00:27 | 日記
令和6年2月16日(金)
蕉道: 更科逆(さかさ)紀行 
 (中山道の宿場)その2
 その後、大津、岐阜、名古屋等で
3ヶ月過ごし、
中山道を歩いて姨捨の月を見て、
江戸深川への帰路となる。
 紀行の地の文は約千字ほどで、
13句が詠まれている。
 そのうち、同行の弟子の越人
 (36歳)が2句を詠んでいる。
 弟子の名古屋の医師荷兮(かけい)が
従者を一人つけてくれ、
3人旅であったこともわかる。
 芭蕉は45歳となっている。
 さて、8月11日、
芭蕉達は、岐阜を出発し、
<岐阜長良川鵜飼船船着き場>

木曾街道に入り、
寝覚の床、木曽の桟、立峠、
猿ヶ馬場峠を経て、
更科に到着。
<鵜匠の像>

 姨捨から名月を観賞、
長野の善光寺を参拝し、
浅間山麓を通過して
江戸の芭蕉庵に戻る。
 私は、更科紀行の逆さ、
当時ではお上りさんとなる。
 中山道の宿場町を見つめ直す
よい機会となる。
 中山道は、教諭最後となった
○○小時代知り合い、
亡くなられるまで仲良くして
いただいた神山幸(さち)士(お)先生が、
退職後中山道を踏破。
 その都度記念のテレホンカード等を
いただく。
 当時流行っていた歩こう会
年締めの鎌倉の七つの切り通しを
ご夫妻一緒に走破したのも、
尊い思い出。
 亡くなられた後いただいたもので
わかったのだが、
先生は俳人でもあった。
 さて、中山道は、
「中山道六十九次」でもわかるように、
日本橋と三条大橋の間に
69の宿場が栄えていた。
 中野時代、
中山道板橋宿の近くに間借りして
いたのと家内の実家はすぐ傍でもある。
 道の広さと銭湯も懐かしい。
私にも深く係わる街道である。 



古希からのより道Ⅴ蕉道: 更科逆(さかさ)紀行①月を愛でる!

2024-02-15 11:59:25 | 日記
令和6年2月15日(木)
 古希からのより道Ⅴ 
蕉道: 更科逆(さかさ)紀行
 (中山道の宿場)
「更級(更科)蕎麦」
 蕎麦通でもない私でも記憶の
ある言葉。
 勿論食した事もある。
 最近はあまり目にとまらない
「更科(さらしな)」。
 思わず更科ってどの辺り?
 長野あたり?
 調べると、
千曲市の上山田から八幡にかけて
の地域名で、歌枕のひとつ。
 姥捨山・田毎の月等の名所で
昔から有名という。
「我が心 
   なぐさめかねつ 
        更級や 
     姥捨山に 
       照る月を見て」  
         (古今和歌集)
「さらしなの里、
おばすて山の月見んこと、
しきりにすゝむる秋風の、
心に吹きすさびて …」
と、
芭蕉は更科紀行の巻頭で
述べている。
 それからもわかるように、
この旅は更科の月を愛でることが
最大の目的。 
 今では、
月見は庶民の楽しみでは
なくなったが、
昭和の50年代頃までは、
月見の団子、ススキ
そして月を愛でることは、
秋の家庭行事の一つ。
 芭蕉の更科への月見出発は、
元禄元年(1688)8月11日。
 前年の8月14日には、
曾良と宗波を連れて
鹿島へ月見に出かけている。
<岐阜城より>

 杜国と旅した明石までの旅では、
 「月はあれど 
   留守のやう也 
     須磨の夏」
 「蛸壺や 
   はかなき夢を 
      夏の月」
と詠み、
秋の月を愛でたいという思いは
ひとしきり。
 笈の小文の旅は、秘密の紀行。
 その秘密の紀行も
4月の末に吉野、大和、紀伊を巡り,
大坂を経て須磨から明石でターン。
京に向かい杜国と別れる。
~つづく。