☆実はこの感想、一度書いたら、間違って消してしまったので、二稿目である^^
足早に書きたいと思う。
私は、エメリッヒ監督の『インディペンデンス・デイ』には興奮させられたタイプの者で、『GODZILLA』も、本当のゴジラこそ現われなかったけれど映画としての出来は良かったと思っている。
『デイ・アフター・トゥモロー』もまあまあ楽しかった。
しかし、今回の作品は、乗り切れなかった。
幾つか理由があるが、一つにタイトルである。
タイトルを「紀元前1万年」・・・、つまり、閲覧者のみんなにイメージを膨らませてもらうために書けば、「紀元前100世紀」なのだが、とてもとても、そんな時代に思えないのだった。
「幾らなんでも、紀元前1万年に、人間はこんな生活はしていないだろうよ…」との思いが、鑑賞中、ずーっと心をよぎっていて、また物語の展開上、その違和感は増大を続けていくのだった・・・。
「娯楽作なんだから、野暮なこというなよ」と言う方もいるかも知れないが、だったら、そんなタイトルは冠さないで欲しかった。
私はカンボジアによく行くのだが、1000年ほど前のカンボジアが、この物語と同じぐらいの状況だと思われますよ・・・^^;
◇ ◇
この物語は、アルプス風の雪山の峰、その集落に住んでいる若者が、愛する女を悪の集団にさらわれて、それを追って山脈を越え、いきなり熱帯っぽいジャングルに至り、アラビアっぽい荒地を突き進み、アフリカの民族っぽい多種多様の部族を仲間とし、砂漠に至る・・・、とても舞台がバラエティに富んでいる。
各地から連れて来た人々を奴隷とし、ピラミッドっぽい巨大建造物を構築するファラオっぽい独裁者を打倒! 故郷に戻るっぽい、という「行きて帰りし物語」っぽい作品であった。
かなり大味なのだが、私は途中から、ファンタジーだと思って見ることにしたら、斬新な点も多々あり、楽しめた^^v
◇ ◇
物語の最初に、主人公の集落の若者たちによるモンモス狩りが描かれる。
このマンモスのCGが、この映画の売りでもあるらしいのだが、私には、「毛の生えた象」にしか見えなかった^^;
ただ、その重量感の表現は、凄いものだった。
子マンモーもいて、可愛かった^^
村の若者たちは、大挙として行進しているマンモスの群れを追い立て、そのしんがりの一頭を仕留めるべく、大きな網の罠に仕掛けようとするのだ。
しかし、その網がズルズルとマンモスに引っ張られてしまった。
「みんな! 網を引き戻すんだ!」
と、みんなで引きずられていく網をワラワラと追いかけ、手を伸ばす。
しかし、爆進するマンモスパワーは凄まじく。
みんな、「ウワーッ!」と、そのまま引きずられていくのだった。
その様が、メチャ面白かった^^
私も連れも大笑いした。
こんなシュールなアクションシーンは、稀である^^
「ギャートルズ」みたいだった。
◇ ◇
このマンモス狩りで、マンモスを仕留めた者には、村のリーダーの栄光が与えられる。
くしくも、主人公がその権利を得た。
しかし、実際は、主人公が勇敢だったのではなく、主人公はうろたえていたのだが、運良くマンモスのほうが自滅してくれたのである。
そこの一連のエピソードだが、主人公は、けして、そんなちゃっかしした性格ではなく、普通の若者なのである。
そのマンモス狩りのエピソードで、そんな展開にする必要はないのである。
変である。
変であるが故に、私は、作品鑑賞中の序盤、物語に妙なリアリティを感じてしまった^^;
このマンモス狩りエピソードは、物語のクライマックスで、主人公がマンモスに果敢に挑むことや、エピローグでの、「主人公は村のシャーマンばあちゃんの予言した救世主ではなかったのか・・・」といった点の伏線になっているようなのだが、残念ながら効果を発揮していなかった。
◇ ◇
雪山やジャングル、草原に砂丘と、物語は大ロケーションを敢行していた。
それらの映像は、一枚絵のように物語に説得力を与えてくれていた。
しかし、それが、映画としての動体となると、その展開の継ぎ目に粗さが目立った。
このようなビッグプロジェクトの作品には多く見られる状況だ。
その場その場のユニットは最高の仕事をしているのだが、その間をつなぐ、コミュニケーションと言うか、グランドデザインに欠けていた。
手触りとして、ゲーム『ファイナル・ファンタジー7』見たいな感じだ。
◇ ◇
どうやら、この作品は、もしかして、『アポカリプト』(←クリック!)を意識して作られたのかも知れない。
似た点が多々ある。
だが、『アポカリプト』と異なり、悪の集団は、主人公の村を襲いはするが、村を壊滅させることはなかった。
主人公が旅先で知り合う他の部族も、悪の集団に襲われつつも、部族として生きながらえてる。
手ぬるい悪党どもであるが、しかし、悪党のほうも「金づる」を根絶やしにしたら後に続かないのであるからして、私はそこにも、いちお、リアリティを感じるのだ。
だが、物語上のリアリティは、ここで、「ほぼ皆殺し」という選択肢の方が説得力があるのかも知れない。
この『紀元1万年』は、娯楽作としては必要のない、妙なリアリティがそこかしこに見られる。
・・・いや、リアリティ重視じゃなくて、虐殺描写で、レーティングが厳しくなるのを避けたんだろうけどね・・・^^;
◇ ◇
村のシャーマンばあちゃんは、この作品のオリジナリティの最たるものだった。
村にいたままに、苛酷な旅を続ける若者たちの経験を感受し、同調を続けるのだ。
故に、若者たちの旅が描かれていきつつも、時おり、「その頃、シャーマンばあちゃんは・・・」と、ばあちゃんの姿が描かれ、一本道の物語を複合的に見せてくれていた。
しかし、このばあちゃん、物語の最後に、その能力の物理的な影響を示してくれるが、物語進行中は、ただの「旅のシンクロナイザー」に過ぎないので、あまり意味がなかった。
このような伏線設定が、ちゃんと活かされてない状況も多々見られた。
例えば、悪の一味のリーダーがいるのだが、強そうなのだが、あまり強さを示さない。
ヒロインに惚れているようなのだが、ヒロインに対しての求愛行動がぎこちない。
そこにリアリティを見ようと思ったが、私は、そこで「ああ、これは演出が下手なのだな」とやっと理解した。
『インディペンデンス・デイ』に感動した私は、エメリッヒに過剰な要求をし過ぎているのだろうか?
また、この敵のリーダーだが、最後に主人公と一騎打ちするようなこともなかった。
ただ、ヒロインへのひたすらのこだわりがあるようなのだが、見ているこちらには、その「奴隷を愛する」という悪のリーダーの屈折心理は伝わってこない。
自分のものにならないなら死ねとばかりに、悪のリーダーは女に矢を射るのだが、その、一味違った屈折心理もまた、見ている私達には「悪のリーダーの執念」とさえも伝わってこない。
◇ ◇
ひょんなことから、草原の王者サーベルタイガーを助け、後にその恩返しをされて、主人公の「牙と話す男」としての救世主伝説が始まる。
しかし、サーベルタイガーは、その1エピソードだけの登場で、後の物語には絡んでこない。
それはそれで良いのだが、設定が勿体無い気もする。
◇ ◇
主人公の父親は、かつて村を捨てた男であった。
実際は、村の未来を考えての行為であったのだが、その後、父親は、主人公が知り合う人の思い出の中には出てくるのだが、それ程に伝説的な活躍していたわけでもなく、これまた設定が勿体無かった・・・^^;
◇ ◇
ファラオの居城には、大きな船が内蔵されている。
ちょっとした軍艦のイメージだ。
ファラオの強さの象徴の一つだ(もう一つはピラミッド)。
だが、最後の戦において、その船は、主人公の前に現われることはない。
ただ、燃やされ、解放された奴隷がその前で快哉を叫ぶだけだ。
イメージ的に、『インディペンデンス・デイ』の巨大UFOが落ちて、その前で地球人が喜んでいる風にしたいのだろうが、なにぶん、その船が悪虐の象徴のような活躍をしてないので、こちらの感情も高ぶらない。
◇ ◇
また、戦の前には、多くの部族が集まり、リーダーが、やはり『インディペンデンス・デイ』の大統領の<独立宣言>のように一演説ぶち上げるのだが、それまでの旅が、そこまで追いつめられたような気配がないので、やはり、こちらの心を打たない・・・。
◇ ◇
元ファラオの側近で、今は追放された賢者が、奴隷小屋の地下に、昇降式寝台でかくまわれているなんて設定もあって、そういった箇所には、「おお、いいぞ^^」などと興味が湧いた。
◇ ◇
娯楽映画は、アイディアの結晶体である。
そんなアイディアを活かすには、相応の「間(ま=編集)」が必要である。
だが、この作品においては、その統合が欠けていた様な気がする。
「北極星」の伏線も、「救世主の印」の答えも、見ているこちらに驚きのカタルシスを与えてくれることはない。
◇ ◇
神である「ファラオ」は、主人公に簡単に殺される。
「神などといっても、所詮は人間! 俺に簡単に殺される」
そう主人公は叫ぶのだが、それまでのファラオの超常能力みたいなものが全く描かれていないので、見ているこちらは、「そりゃそうだろうよ」などと思ってしまうのだ^^;
よっぽど、主人公の集落の小さなシャーマンばあちゃんの方が偉大な能力を持っていた。
◇ ◇
ただ、巨大ダチョウ(モア?)との戦いのスピード感や、明らかに現在も存在するかの如き(^^;)アフリカの部族たちが続々と集ってくるシーンなどは良かった。
莫大な制作費は、こちらが払う鑑賞料金程度には楽しませてくれよう・・・。
(2008/04/27)
足早に書きたいと思う。
私は、エメリッヒ監督の『インディペンデンス・デイ』には興奮させられたタイプの者で、『GODZILLA』も、本当のゴジラこそ現われなかったけれど映画としての出来は良かったと思っている。
『デイ・アフター・トゥモロー』もまあまあ楽しかった。
しかし、今回の作品は、乗り切れなかった。
幾つか理由があるが、一つにタイトルである。
タイトルを「紀元前1万年」・・・、つまり、閲覧者のみんなにイメージを膨らませてもらうために書けば、「紀元前100世紀」なのだが、とてもとても、そんな時代に思えないのだった。
「幾らなんでも、紀元前1万年に、人間はこんな生活はしていないだろうよ…」との思いが、鑑賞中、ずーっと心をよぎっていて、また物語の展開上、その違和感は増大を続けていくのだった・・・。
「娯楽作なんだから、野暮なこというなよ」と言う方もいるかも知れないが、だったら、そんなタイトルは冠さないで欲しかった。
私はカンボジアによく行くのだが、1000年ほど前のカンボジアが、この物語と同じぐらいの状況だと思われますよ・・・^^;
◇ ◇
この物語は、アルプス風の雪山の峰、その集落に住んでいる若者が、愛する女を悪の集団にさらわれて、それを追って山脈を越え、いきなり熱帯っぽいジャングルに至り、アラビアっぽい荒地を突き進み、アフリカの民族っぽい多種多様の部族を仲間とし、砂漠に至る・・・、とても舞台がバラエティに富んでいる。
各地から連れて来た人々を奴隷とし、ピラミッドっぽい巨大建造物を構築するファラオっぽい独裁者を打倒! 故郷に戻るっぽい、という「行きて帰りし物語」っぽい作品であった。
かなり大味なのだが、私は途中から、ファンタジーだと思って見ることにしたら、斬新な点も多々あり、楽しめた^^v
◇ ◇
物語の最初に、主人公の集落の若者たちによるモンモス狩りが描かれる。
このマンモスのCGが、この映画の売りでもあるらしいのだが、私には、「毛の生えた象」にしか見えなかった^^;
ただ、その重量感の表現は、凄いものだった。
子マンモーもいて、可愛かった^^
村の若者たちは、大挙として行進しているマンモスの群れを追い立て、そのしんがりの一頭を仕留めるべく、大きな網の罠に仕掛けようとするのだ。
しかし、その網がズルズルとマンモスに引っ張られてしまった。
「みんな! 網を引き戻すんだ!」
と、みんなで引きずられていく網をワラワラと追いかけ、手を伸ばす。
しかし、爆進するマンモスパワーは凄まじく。
みんな、「ウワーッ!」と、そのまま引きずられていくのだった。
その様が、メチャ面白かった^^
私も連れも大笑いした。
こんなシュールなアクションシーンは、稀である^^
「ギャートルズ」みたいだった。
◇ ◇
このマンモス狩りで、マンモスを仕留めた者には、村のリーダーの栄光が与えられる。
くしくも、主人公がその権利を得た。
しかし、実際は、主人公が勇敢だったのではなく、主人公はうろたえていたのだが、運良くマンモスのほうが自滅してくれたのである。
そこの一連のエピソードだが、主人公は、けして、そんなちゃっかしした性格ではなく、普通の若者なのである。
そのマンモス狩りのエピソードで、そんな展開にする必要はないのである。
変である。
変であるが故に、私は、作品鑑賞中の序盤、物語に妙なリアリティを感じてしまった^^;
このマンモス狩りエピソードは、物語のクライマックスで、主人公がマンモスに果敢に挑むことや、エピローグでの、「主人公は村のシャーマンばあちゃんの予言した救世主ではなかったのか・・・」といった点の伏線になっているようなのだが、残念ながら効果を発揮していなかった。
◇ ◇
雪山やジャングル、草原に砂丘と、物語は大ロケーションを敢行していた。
それらの映像は、一枚絵のように物語に説得力を与えてくれていた。
しかし、それが、映画としての動体となると、その展開の継ぎ目に粗さが目立った。
このようなビッグプロジェクトの作品には多く見られる状況だ。
その場その場のユニットは最高の仕事をしているのだが、その間をつなぐ、コミュニケーションと言うか、グランドデザインに欠けていた。
手触りとして、ゲーム『ファイナル・ファンタジー7』見たいな感じだ。
◇ ◇
どうやら、この作品は、もしかして、『アポカリプト』(←クリック!)を意識して作られたのかも知れない。
似た点が多々ある。
だが、『アポカリプト』と異なり、悪の集団は、主人公の村を襲いはするが、村を壊滅させることはなかった。
主人公が旅先で知り合う他の部族も、悪の集団に襲われつつも、部族として生きながらえてる。
手ぬるい悪党どもであるが、しかし、悪党のほうも「金づる」を根絶やしにしたら後に続かないのであるからして、私はそこにも、いちお、リアリティを感じるのだ。
だが、物語上のリアリティは、ここで、「ほぼ皆殺し」という選択肢の方が説得力があるのかも知れない。
この『紀元1万年』は、娯楽作としては必要のない、妙なリアリティがそこかしこに見られる。
・・・いや、リアリティ重視じゃなくて、虐殺描写で、レーティングが厳しくなるのを避けたんだろうけどね・・・^^;
◇ ◇
村のシャーマンばあちゃんは、この作品のオリジナリティの最たるものだった。
村にいたままに、苛酷な旅を続ける若者たちの経験を感受し、同調を続けるのだ。
故に、若者たちの旅が描かれていきつつも、時おり、「その頃、シャーマンばあちゃんは・・・」と、ばあちゃんの姿が描かれ、一本道の物語を複合的に見せてくれていた。
しかし、このばあちゃん、物語の最後に、その能力の物理的な影響を示してくれるが、物語進行中は、ただの「旅のシンクロナイザー」に過ぎないので、あまり意味がなかった。
このような伏線設定が、ちゃんと活かされてない状況も多々見られた。
例えば、悪の一味のリーダーがいるのだが、強そうなのだが、あまり強さを示さない。
ヒロインに惚れているようなのだが、ヒロインに対しての求愛行動がぎこちない。
そこにリアリティを見ようと思ったが、私は、そこで「ああ、これは演出が下手なのだな」とやっと理解した。
『インディペンデンス・デイ』に感動した私は、エメリッヒに過剰な要求をし過ぎているのだろうか?
また、この敵のリーダーだが、最後に主人公と一騎打ちするようなこともなかった。
ただ、ヒロインへのひたすらのこだわりがあるようなのだが、見ているこちらには、その「奴隷を愛する」という悪のリーダーの屈折心理は伝わってこない。
自分のものにならないなら死ねとばかりに、悪のリーダーは女に矢を射るのだが、その、一味違った屈折心理もまた、見ている私達には「悪のリーダーの執念」とさえも伝わってこない。
◇ ◇
ひょんなことから、草原の王者サーベルタイガーを助け、後にその恩返しをされて、主人公の「牙と話す男」としての救世主伝説が始まる。
しかし、サーベルタイガーは、その1エピソードだけの登場で、後の物語には絡んでこない。
それはそれで良いのだが、設定が勿体無い気もする。
◇ ◇
主人公の父親は、かつて村を捨てた男であった。
実際は、村の未来を考えての行為であったのだが、その後、父親は、主人公が知り合う人の思い出の中には出てくるのだが、それ程に伝説的な活躍していたわけでもなく、これまた設定が勿体無かった・・・^^;
◇ ◇
ファラオの居城には、大きな船が内蔵されている。
ちょっとした軍艦のイメージだ。
ファラオの強さの象徴の一つだ(もう一つはピラミッド)。
だが、最後の戦において、その船は、主人公の前に現われることはない。
ただ、燃やされ、解放された奴隷がその前で快哉を叫ぶだけだ。
イメージ的に、『インディペンデンス・デイ』の巨大UFOが落ちて、その前で地球人が喜んでいる風にしたいのだろうが、なにぶん、その船が悪虐の象徴のような活躍をしてないので、こちらの感情も高ぶらない。
◇ ◇
また、戦の前には、多くの部族が集まり、リーダーが、やはり『インディペンデンス・デイ』の大統領の<独立宣言>のように一演説ぶち上げるのだが、それまでの旅が、そこまで追いつめられたような気配がないので、やはり、こちらの心を打たない・・・。
◇ ◇
元ファラオの側近で、今は追放された賢者が、奴隷小屋の地下に、昇降式寝台でかくまわれているなんて設定もあって、そういった箇所には、「おお、いいぞ^^」などと興味が湧いた。
◇ ◇
娯楽映画は、アイディアの結晶体である。
そんなアイディアを活かすには、相応の「間(ま=編集)」が必要である。
だが、この作品においては、その統合が欠けていた様な気がする。
「北極星」の伏線も、「救世主の印」の答えも、見ているこちらに驚きのカタルシスを与えてくれることはない。
◇ ◇
神である「ファラオ」は、主人公に簡単に殺される。
「神などといっても、所詮は人間! 俺に簡単に殺される」
そう主人公は叫ぶのだが、それまでのファラオの超常能力みたいなものが全く描かれていないので、見ているこちらは、「そりゃそうだろうよ」などと思ってしまうのだ^^;
よっぽど、主人公の集落の小さなシャーマンばあちゃんの方が偉大な能力を持っていた。
◇ ◇
ただ、巨大ダチョウ(モア?)との戦いのスピード感や、明らかに現在も存在するかの如き(^^;)アフリカの部族たちが続々と集ってくるシーンなどは良かった。
莫大な制作費は、こちらが払う鑑賞料金程度には楽しませてくれよう・・・。
(2008/04/27)