☆実は、この映画、一週間前に観た。
しかし、先週の初頭、東京は西多摩地区を襲った集中豪雨…、その激しい雷雨による停電で、私の家のインターネット環境が崩壊し、四日間、ネットを使えなかったので、今となっては、感想を書く新鮮さが失われているのだが、とりあえず、頑張って書く。
◇ ◇
先日観た『インクレディブル・ハルク』と同じく、二時間弱と言うあまり長くない上映時間で、切れ味良くアクションを堪能できる快作であった。
ただ、『…ハルク』が、妙に人間ドラマを指向していて、でも、それが描けておらず不満が残ったのに対し、
『カンフー・パンダ』は、アニメと言う利点もあり、そこら辺の鑑賞者の厳しいチェックは免れるだろう・・・。
・・・と、書いては見たけれど、なんとも、登場人物のドラマの積み重ねに不満も残るのだ。
主人公のポーは、いろいろあって、カンフー寺で、カンフーマスターとしての修行を行なう。
そこには、5人のカンフーマスターが既にいるのだが、その個性的であらねばならない5人の個性がいまいち描かれていない。
予告編で見た時など、私は、それがこの物語の肝なのだと思っていたので、
5人一緒くたの描き方に、非常に勿体無さを感じた。
その5人の個性を均等に紹介していくようなカタログ的な手もあったと思うのだが、そこには、わかり易きアニメ的作劇性が放棄され、妙にリアルなアンバランスが発揮されていたりする^^;
まあ、ジャンプのバトルマンガでも、主人公がメチャ強くて、その他の仲間が何の足しにもならない、そんな「逆孤立感」がたまに見られるものだ。
それを打破するのが、主人公のライバルの存在である。
ライバル・タイランの強さは、充分に物語を引き締めてくれていた。
◇ ◇
物語的には、やや淡白さを感じたが、そのアクションシーンは、素晴らしかった。
実によく動き、その動きの意味するところが、こちらに良く伝わった。
特に、タイランの脱獄シーンなど、立体的で複雑な舞台設定だったのに、
タイランが、何のために飛び、何のために走るのかが、アクション上の意味づけとして良くわかった。
タイランは、白土三平「サスケ」張りの<岩石なだれ渡りの術>みたいのを披露するのだが、その重力無視の荒唐無稽であるアクションを、こちらに納得させるだけの描写をちゃんと行ない得ているのだ。
う~ん、うまく説明できないなあ。
例えば、昨日、『スカイ・クロラ』と言う駄作を観たのだが、この作品のクライマックスに「戦闘機による空中戦」がある。
精巧なCGで描かれている戦闘機の、美しい画像の旋回シーンなどがあるのだが、
そこにおいて、「何で、その戦闘機は旋回するのか?」「敵がどこにいるから、そこで旋回するのか?」などの描写が欠落しているので、戦闘機の旋回が全く意味を為していないのだ。
・・・その点、『カンフー・パンダ』においては、動きの意味が完璧に提示されており、鑑賞者が置いてきぼりをくらうようなことはなかった。
複雑なアクションを、『ドラゴンボール』並みの高揚感をもって、鑑賞することが出来た。
◇ ◇
惜しむらくは、人間ドラマの描き込みの希薄さかなあ。
どうしても、あらすじの整合性をもたせるだけの足早さが感じられた。
クライマックスに、見ているこちらの情動を爆発させるのは、もっと登場人物たちの心に食い入ることが出来るような、それだけの時間をかけた描写が必要だと思うのだ。
ポーと親父さんの関係の謎・・・、
ポーを「ドラゴン戦士」に指名したカメ仙人の退場の唐突さ・・・、
やや、手垢に塗れたアイディアの「巻物白紙の意味」・・・、
師匠とタイランの関係、そのバトルの呆気なさ・・・、
ポーと<マスター5>が仲間となっていく過程・・・、
師匠が、ポーの才能が発揮される「状況」を見い出す描写・・・、
それら、物語の筋道をつけるためだけのような淡白さだった。
◇ ◇
戦いの前に、ポーのお尻が引き締まることに代表されるような、細かい「演技」は見事だった。
しかし、タイランとの最終決戦におけるポーの勝因だが、
それと同じシチュエーション、『北斗の拳』でのハート様に対してのケンシロウが、既に打ち破っているよね^^;
(2008/08/09)
しかし、先週の初頭、東京は西多摩地区を襲った集中豪雨…、その激しい雷雨による停電で、私の家のインターネット環境が崩壊し、四日間、ネットを使えなかったので、今となっては、感想を書く新鮮さが失われているのだが、とりあえず、頑張って書く。
◇ ◇
先日観た『インクレディブル・ハルク』と同じく、二時間弱と言うあまり長くない上映時間で、切れ味良くアクションを堪能できる快作であった。
ただ、『…ハルク』が、妙に人間ドラマを指向していて、でも、それが描けておらず不満が残ったのに対し、
『カンフー・パンダ』は、アニメと言う利点もあり、そこら辺の鑑賞者の厳しいチェックは免れるだろう・・・。
・・・と、書いては見たけれど、なんとも、登場人物のドラマの積み重ねに不満も残るのだ。
主人公のポーは、いろいろあって、カンフー寺で、カンフーマスターとしての修行を行なう。
そこには、5人のカンフーマスターが既にいるのだが、その個性的であらねばならない5人の個性がいまいち描かれていない。
予告編で見た時など、私は、それがこの物語の肝なのだと思っていたので、
5人一緒くたの描き方に、非常に勿体無さを感じた。
その5人の個性を均等に紹介していくようなカタログ的な手もあったと思うのだが、そこには、わかり易きアニメ的作劇性が放棄され、妙にリアルなアンバランスが発揮されていたりする^^;
まあ、ジャンプのバトルマンガでも、主人公がメチャ強くて、その他の仲間が何の足しにもならない、そんな「逆孤立感」がたまに見られるものだ。
それを打破するのが、主人公のライバルの存在である。
ライバル・タイランの強さは、充分に物語を引き締めてくれていた。
◇ ◇
物語的には、やや淡白さを感じたが、そのアクションシーンは、素晴らしかった。
実によく動き、その動きの意味するところが、こちらに良く伝わった。
特に、タイランの脱獄シーンなど、立体的で複雑な舞台設定だったのに、
タイランが、何のために飛び、何のために走るのかが、アクション上の意味づけとして良くわかった。
タイランは、白土三平「サスケ」張りの<岩石なだれ渡りの術>みたいのを披露するのだが、その重力無視の荒唐無稽であるアクションを、こちらに納得させるだけの描写をちゃんと行ない得ているのだ。
う~ん、うまく説明できないなあ。
例えば、昨日、『スカイ・クロラ』と言う駄作を観たのだが、この作品のクライマックスに「戦闘機による空中戦」がある。
精巧なCGで描かれている戦闘機の、美しい画像の旋回シーンなどがあるのだが、
そこにおいて、「何で、その戦闘機は旋回するのか?」「敵がどこにいるから、そこで旋回するのか?」などの描写が欠落しているので、戦闘機の旋回が全く意味を為していないのだ。
・・・その点、『カンフー・パンダ』においては、動きの意味が完璧に提示されており、鑑賞者が置いてきぼりをくらうようなことはなかった。
複雑なアクションを、『ドラゴンボール』並みの高揚感をもって、鑑賞することが出来た。
◇ ◇
惜しむらくは、人間ドラマの描き込みの希薄さかなあ。
どうしても、あらすじの整合性をもたせるだけの足早さが感じられた。
クライマックスに、見ているこちらの情動を爆発させるのは、もっと登場人物たちの心に食い入ることが出来るような、それだけの時間をかけた描写が必要だと思うのだ。
ポーと親父さんの関係の謎・・・、
ポーを「ドラゴン戦士」に指名したカメ仙人の退場の唐突さ・・・、
やや、手垢に塗れたアイディアの「巻物白紙の意味」・・・、
師匠とタイランの関係、そのバトルの呆気なさ・・・、
ポーと<マスター5>が仲間となっていく過程・・・、
師匠が、ポーの才能が発揮される「状況」を見い出す描写・・・、
それら、物語の筋道をつけるためだけのような淡白さだった。
◇ ◇
戦いの前に、ポーのお尻が引き締まることに代表されるような、細かい「演技」は見事だった。
しかし、タイランとの最終決戦におけるポーの勝因だが、
それと同じシチュエーション、『北斗の拳』でのハート様に対してのケンシロウが、既に打ち破っているよね^^;
(2008/08/09)