☆小6の姪っ子と見てきました。
いや、面白かったですよ。
ただ、ヒロインを演じる武井咲が、確かに生真面目が過ぎる何事もマジな役柄ながらも、序盤、目の下にクマを作り、瞳が血走っていたので、なんか、その役作り・演出はちょっと筋が違うだろう…、などと思っていたら、最後までそのままだった。
つまり、彼女は、超売れっ子のハードスケジュールで、疲れが取れていない中での撮影の連続だっただけのようだ^^;
この作品、わりと画面を加工する特殊効果を多用していたので、武井咲の目だけは画面処理で直せなかったのだろうか。
だから、クライマックスで、いつしか恋に落ちた彼氏と一夜を過ごしたの時の表情だけが妙に、つかの間 癒された顔になっていた。
だが、また、次の映画かドラマの撮影がはじまるのだろう。
しかし、なんで、こうも、武井咲は売れているのだろうか?
映画の観客動員もドラマの視聴率もけして良いわけじゃないよね。
顔は正統派だが、なーんか、若い人向けの今風の顔とは言い難い。
たかもちげんの描くキャラクターのような「線の太さ」がある。
何よりも、声の質が、市原悦子っぽい。
そもそも、この少女マンガの映画化作品は、京汰(松坂桃李クン)と言う「イケメン」のクラスメイトが、
堅物のつばき(武井咲)に、からかい半分で手を出すことにはじまる(そもそも、「京汰」という名の「汰」のサンズイが気になってしょうがない^^;)。
乱れず崩さない制服姿、おさげ髪のつばきは、京汰に「昭和の女」とからかわれるのだが、武井咲と言うタレント自体が、「昭和の女」なんだよなぁ。
それがいつしか、京汰が、つばきの頑張り屋な姿に心を引かれ、つばきもまた、手当たり次第に女に手をつける京汰の「孤独」への放っておけない気持ち・興味が恋に変わっていく訳だ。
しかし、テンポ良く進む高校生活の中で、どうしても、ナンパ男に堕していた京汰が、つばきに真剣な気持ちを抱くに至ったかの、気持ちの変化が分からない・・・。
その転換点が、描かれていない。
物語の後半でセリフで語られるが、あまり説得力はない。
京汰は、色んな女と、かなりいい加減に経験しているわけだ。
その中で、なんで、つばきはスペシャルになり得たのか?
まあ、いいや・・・(いいんかいっ!^^;)。
もっと、私が気になるのは、この間の少女マンガの映画化『僕等がいた』二部作と言い、
最近の若い女の子は、自分が「恋をしたことのない処女(おとめ)」なのに、好きになる男が、過去に、自分の知らない女たちと経験しまくっていることにこだわりはないのかな・・・、などと考えてしまうのだ。
私は、「ヴァージン・キラー」だが、つきあった女の子は、かなり、私の過去を気にしたものだ。
男が「経験が初めての女の子」であって欲しいと考えるように、女も彼氏が「幸い、深く異性とつきあうのは初めての掘り出し物の男」であって欲しいと考えているのではないのか?
ただ、私の場合はいい歳なので、私に対し、そんなことを考えている女はいないだろうが(私の歳で誰ともつきあったことない人がいたら、ちょいと悲しいだろう…)、交際した娘たちは、その過去は気になるようだ。
追求された時、私は、
「この歳で、過去に真剣なつきあいをしたことのない男はいないよ。過去には君がいなかったしね。だが、今はいる。僕等がいた。今日、恋をはじめます」
みたいなことを言うことにしている^^;
で、話を戻すけど、保守派の私としては、少女マンガに夢中になるような娘さんたちが、この作品や『僕等がいた』などを読んだり観たりして、京汰のようなナンパ男とつきあうのが普通だと考えるのは、あまりよろしくないと思うのだ。
作中、京汰は、いい面も見せていくのだが、そもそもはいい加減である。
ハッピーエンド良ければ、全て良し、って訳にもいくまいぞ。
高校生の恋なのに、あまりにも「ヤクザの情婦」のような達観に至り過ぎやしないかね?
話が濃厚過ぎる・・・^^;
てゆーか、オヤジ(私)の、こんな話はウザいですね、失ッ礼しやした~!!
(2012/12/09)
☆寝るくせに、スッカリ落語好きの母親がチケットを手配してくれ、母親の友人を伴ない、羽村の多目的文化会館「ゆとろぎホール」に寄席を聴きに行った。
礼儀正しい係員さんにチケットをもぎってもらい、通路を進むと、何枚かチラシが置かれていて、なんか懐かしい感じがする顔が目についたと思ったら、鬼丸師匠じゃあないですか! 青梅の寄席に来るそうだ^^
ババァと予約する。
落語と言うのは、老若男女楽しめるのがいいね。
私は、自分が楽しむのと、ババァ孝行と「一石(一席)二鳥」だ^^
◇
会場の入りは七割から八割くらい、盛況だ^^
先ずは、前座の雷門音助さんの「子ほめ」だ。
この人、威勢のいい名前だが、なんか優しそうな優男だ。
でも、噺はうまかった。
楽しんだ^^
とは言え、私が思うに、前座さんには、なんか苦言を語ったほうがよろしいんですよね。
では。
この「子ほめ」という噺は、口の悪いおっちょこちょいの男が、ご隠居さんに、人にお世辞を言うことを習って町で実践しようとして起こるドタバタ物語だ。
この噺のキモは、私は前半にあると考える。
前半のご隠居さんの語る、長い「お世辞の模範例」、それがはっきりと記憶に残ることが、後半の「お世辞の模範例」の変格での連続する笑いを生むと思う。
その、前半の、こちらへの語りによる記憶付けが、いまいちだったかも知れない。
だから、後半で、どこが面白いのかを簡単に説明しなくちゃいけない状況があるように思う・・・。
続いて、三笑亭可龍さん。
この方、母親の知り合いの息子さんなのだそうだ。
まくらが、現代っ子の落語の聴き方を語ったのだが、その今風な語りが、面白いけど、私の好みではなかった。
それは、私が桂春蝶さんの「地獄八景亡者戯」を聴いたときの、その、あまりにも現代的な味つけに鼻白んだのと似ているかも。
時事問題を絡めたり、流行の口調を真似たりするのは、時に「やり過ぎ」の時がある。
スパイス程度がよろしいかと。
さて、演目は『七段目』と言う、おそらく、なかなか難しい噺だと思う。
芝居好きの男が、実生活の節々に芝居のセリフを織り交ぜていく物語。
瞬間瞬間に、色んな芝居パターンを披露する可龍さんの見せ所の実力^^
とても面白い。
が、私自身に芝居の知識がないので、充分に楽しめなかったのが残念でした。
・・・中入り。
<コント D51>の二人の出番だ。
これはもう、年配の二人の、何千回と演じられているだろう、老婆と先生のコント。
おそらく、私も、テレビで何度も見たことあるのだろうが、はっきりと記憶にはない。
あって当然のものとして見ていたと思う。
しかし、ライブは、こちらが能動的に参加する。
メチャクチャ面白くて、メチャクチャ笑わせられた^^
母親も、母親の友人も、私の隣りの、コント上の「客いじり」の刑に処せられたおじさんもギャハギャハ笑った^^
コントの作中舞台の場所は、営業の地名でちょくちょく変わるのだろう。
羽村を「サクラ」とトチって言った箇所もあり、おそらく、最近、「佐倉」で公演したのかも。
そんな好意的な解釈をしてしまうほどの空気感を一気に形成してしまう「いぶし銀」のコントだ。
どちらがけんじさんで、どちらがまさしさんか分からないんだけど、コントをリードする老婆役の方が、ときおり、わざとに客席の一人一人を凝視するのだが、それがなかなかたまらない。
落語家というのは、その辺をさりげなくしかしないのだが、コント屋の老婆は、ねめるように視る!
それが、たまらない、ゾクゾクと興奮させられる^^
年配なので、十年一日のマンネリ芸と思えて、そのマンネリが、かなり鋭くて、面白いのだ。
必ずあるのが「老婆の千鳥足」なのだろうが、これは、何度見ても面白いだろうアクション芸で、見ていて安心して爆笑できる^^
名人芸を楽しみました^^
さて、トリは、桂南なんさんだ。
爆笑芸の後に、さて・・・、と思ったが、そのゆっくりとした語り口で、一気に、客席を落語体勢に引き戻した。
爆笑から、クスクス笑いへ・・・。
この方、顔が曲がっている^^
また、禿げ上がった頭の奥の分け具合も、その曲がりに沿っているので、丸顔なのに、客には「くの字」に見えるという不思議な「トリックアート」のような容貌だった。
ゆっくりとした語り口と、「騙し絵」幻惑効果が、私を噺に誘った。
演目は、「阿武松」だ。
名横綱の、若き日の挫折と、才能を見出されるに至る物語・・・、っちゅうても、この話の時点では、ただの常軌を逸した食いしん坊でしかない^^;
かような実在の人物の、なんちゅうか伝記的な噺は、先代の三遊亭圓楽の『助六伝』や、歌丸さんの『ねずみ』での左甚五郎が、私の浅い落語拝聴経験では記憶に残っているのだが、
こういった噺は、思わず、聞き込んでしまう。
南なんさんの演じ分けは、かなり自然で、トリックアートで引き込まれ、それがいつしか本題で引き込まれるという面白さがあった^^
(2012/12/09)
礼儀正しい係員さんにチケットをもぎってもらい、通路を進むと、何枚かチラシが置かれていて、なんか懐かしい感じがする顔が目についたと思ったら、鬼丸師匠じゃあないですか! 青梅の寄席に来るそうだ^^
ババァと予約する。
落語と言うのは、老若男女楽しめるのがいいね。
私は、自分が楽しむのと、ババァ孝行と「一石(一席)二鳥」だ^^
◇
会場の入りは七割から八割くらい、盛況だ^^
先ずは、前座の雷門音助さんの「子ほめ」だ。
この人、威勢のいい名前だが、なんか優しそうな優男だ。
でも、噺はうまかった。
楽しんだ^^
とは言え、私が思うに、前座さんには、なんか苦言を語ったほうがよろしいんですよね。
では。
この「子ほめ」という噺は、口の悪いおっちょこちょいの男が、ご隠居さんに、人にお世辞を言うことを習って町で実践しようとして起こるドタバタ物語だ。
この噺のキモは、私は前半にあると考える。
前半のご隠居さんの語る、長い「お世辞の模範例」、それがはっきりと記憶に残ることが、後半の「お世辞の模範例」の変格での連続する笑いを生むと思う。
その、前半の、こちらへの語りによる記憶付けが、いまいちだったかも知れない。
だから、後半で、どこが面白いのかを簡単に説明しなくちゃいけない状況があるように思う・・・。
続いて、三笑亭可龍さん。
この方、母親の知り合いの息子さんなのだそうだ。
まくらが、現代っ子の落語の聴き方を語ったのだが、その今風な語りが、面白いけど、私の好みではなかった。
それは、私が桂春蝶さんの「地獄八景亡者戯」を聴いたときの、その、あまりにも現代的な味つけに鼻白んだのと似ているかも。
時事問題を絡めたり、流行の口調を真似たりするのは、時に「やり過ぎ」の時がある。
スパイス程度がよろしいかと。
さて、演目は『七段目』と言う、おそらく、なかなか難しい噺だと思う。
芝居好きの男が、実生活の節々に芝居のセリフを織り交ぜていく物語。
瞬間瞬間に、色んな芝居パターンを披露する可龍さんの見せ所の実力^^
とても面白い。
が、私自身に芝居の知識がないので、充分に楽しめなかったのが残念でした。
・・・中入り。
<コント D51>の二人の出番だ。
これはもう、年配の二人の、何千回と演じられているだろう、老婆と先生のコント。
おそらく、私も、テレビで何度も見たことあるのだろうが、はっきりと記憶にはない。
あって当然のものとして見ていたと思う。
しかし、ライブは、こちらが能動的に参加する。
メチャクチャ面白くて、メチャクチャ笑わせられた^^
母親も、母親の友人も、私の隣りの、コント上の「客いじり」の刑に処せられたおじさんもギャハギャハ笑った^^
コントの作中舞台の場所は、営業の地名でちょくちょく変わるのだろう。
羽村を「サクラ」とトチって言った箇所もあり、おそらく、最近、「佐倉」で公演したのかも。
そんな好意的な解釈をしてしまうほどの空気感を一気に形成してしまう「いぶし銀」のコントだ。
どちらがけんじさんで、どちらがまさしさんか分からないんだけど、コントをリードする老婆役の方が、ときおり、わざとに客席の一人一人を凝視するのだが、それがなかなかたまらない。
落語家というのは、その辺をさりげなくしかしないのだが、コント屋の老婆は、ねめるように視る!
それが、たまらない、ゾクゾクと興奮させられる^^
年配なので、十年一日のマンネリ芸と思えて、そのマンネリが、かなり鋭くて、面白いのだ。
必ずあるのが「老婆の千鳥足」なのだろうが、これは、何度見ても面白いだろうアクション芸で、見ていて安心して爆笑できる^^
名人芸を楽しみました^^
さて、トリは、桂南なんさんだ。
爆笑芸の後に、さて・・・、と思ったが、そのゆっくりとした語り口で、一気に、客席を落語体勢に引き戻した。
爆笑から、クスクス笑いへ・・・。
この方、顔が曲がっている^^
また、禿げ上がった頭の奥の分け具合も、その曲がりに沿っているので、丸顔なのに、客には「くの字」に見えるという不思議な「トリックアート」のような容貌だった。
ゆっくりとした語り口と、「騙し絵」幻惑効果が、私を噺に誘った。
演目は、「阿武松」だ。
名横綱の、若き日の挫折と、才能を見出されるに至る物語・・・、っちゅうても、この話の時点では、ただの常軌を逸した食いしん坊でしかない^^;
かような実在の人物の、なんちゅうか伝記的な噺は、先代の三遊亭圓楽の『助六伝』や、歌丸さんの『ねずみ』での左甚五郎が、私の浅い落語拝聴経験では記憶に残っているのだが、
こういった噺は、思わず、聞き込んでしまう。
南なんさんの演じ分けは、かなり自然で、トリックアートで引き込まれ、それがいつしか本題で引き込まれるという面白さがあった^^
(2012/12/09)