今、エロ小説を書いているので、この一週間は「再掲」週間となっております・・・。
以下は、2009/05/08 に投稿したものです。
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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第六十九回】
▼《ノモンハン戦車戦 ②》
ノモンハン事件関連の書籍で、おそらく一、二を争うであろう高価な資料を買った。
『ノモンハン戦場日記(ノモンハン会=編 新人物往来社)』
十三年前の刊行で、定価は1900円なのだが、プレミアがついて一万二千円だった^^;
どなたか、「神田の古書店で三千円で売っていたぞ」とか報告してください。
私、泣きますから・・・^^;
だが、事件中の現場の資料としては一級品の代物だと思います。
これから、たびたび、引用すると思います。
▼「六十七回」で、『ノモンハン事件の真相と戦果』から、こんな一文を転載した。
《日本軍はソ連戦車を破壊し続けた。
「一千米以内に入れば日本軍の速射砲は百発百中だった」
(軍曹 前田義夫氏「ノモンハン戦」御田重宝著)。
高射砲では一千五百米でもソ連戦車を破壊した。 》
『ノモンハン戦場日記』をパラパラと紐解いていたら、ちょっと相応しい手記が発見されたので転載したい。
この手記の書き手は、高射砲の砲兵であり、上記の速射砲とは、異なるものであるのだが、
旧陸軍で言うところの「速射砲」とは、「連発能力」ではなく、敵戦車の装甲を貫通させるに足る速度について「速射」と言っていたのだそうだ。
故に、これから紹介する手記の高射砲も、対戦車なので、意味的に対応させたいのである。
ちょっと長いが、全文掲載するにしては短いので、転載する。
ここでの日付は、ノモンハン事件での一番苛酷なるソ連による大侵攻の時期である。
また、舞台となるノロ高地も、最激戦地の一つである。
▼ 『高射砲の対戦車戦闘』
第十三野戦高射砲隊(鈴木隊) 中村 吉太郎
ノロ高地は草原で、丘陵からは敵陣地が見え、木の遮蔽物も無いので凹地に陣地を構築し、高射砲の高低が五度から十度の範囲の稜線に敵戦車が現れたら、零距離射撃で対戦出来る好条件の陣地であった。
頼みとするは、裏山での森田部隊(注、歩71)の歩兵が、我が陣地を援護してくれる事であった。
八月二十一日
日没に、左側面の稜線に戦車が進撃してきた。初めての水平射撃であり一分隊は死角で、三分隊、四分隊のみで必死の射撃、方向高低の眼鏡に戦車の先端をとらえ、修正なしで距離は一五〇〇メートル、信管は零位置で一斉に発射された。砲弾は草を薙ぎ倒し火の弾道を描き乍ら、戦車のエンジンに命中、パッとライターの火の如く燃え上がる。次々と発射する弾丸は後続戦車にも命中、その中の一台は火を吹き乍ら我が陣地に突撃してくる。五、六十メートルの所で無我夢中で撃った弾が命中、擱坐せしめた。その戦車の天蓋を開けて逃げる敵兵を十数名で追いかけた。小生の後から来た歩兵上等兵が、敵兵を銃剣で突き刺した。その時のソ聯兵の凄じい形相は、忘れられない。
八月二十二日
深夜、自動車の音が近づき、●(手偏に庵)体の五、六メートル前で止った。友軍の車か段列の車だと思っていると、降りて来た兵士が「ウラー 〃」と叫ぶと同時に、手榴弾を投げ込んで来た。宮野君の腕に当り何か知らず、●(手偏に庵)体の外に投げ返した。敵と確認すると眼の前の車輛を射撃、運転台の配線を貫き敵兵は暗闇を逃げる。その車は給養車で、食料が積込んであった。
八月二十三日
昼間、陣地の裏の稜線から監視すると、左前方五、六キロの一本松がある周辺に、黒ゴマを蒔いた様に、戦車の大群が終結しているのを発見し、身の毛がよだつような感じ、この戦車攻撃を受けたら玉砕だと覚悟している晩のこと、射撃態勢を整え待機していると、案に違わず稜線上に浮かび上がったのは、続々と連なる戦車群である。其の時も第一分隊は死角にあり、三、四分隊のみ視界が有効で、二門の火砲しか間に合わず、隊長の号令で一番先頭戦車に向け射撃を開始、次々と砲弾が命中して五台の戦車が火を吹き、さしもの大群も我が鈴木隊の火力に恐れて退却した。
それまで占領されていた隘路(注、旧工兵橋か)を通り後方へ退る事が出来、我々の通過後間もなく再び占領されたとかで、神の助けだと感謝した。
▼・・・この頃、ノロ高地は、ソ連軍に包囲されつつあったと思われる。
文中の「一本松」が、ノモンハン地図上の有名な幾つかの松の木のどれかは分からない。
だが、おそらく、この時期は、鈴木隊の敵への向きは西ではなく、南向きだと思われる(文中の第一分隊は、高射砲隊の右翼・西側に陣取っていたのだろう)。
本来、敵は国境である西側にいるはずだったが、この頃、ジューコフ将軍による大攻勢がはじまっていた。
戦場は、大物量を誇るソ連軍に大きく包囲されつつあった。
と考えると、「一本松」は、完全なる満州領である東側にあった、通称「ニゲーソリモトの一本松」であったかもしれない。
撤退経路となった「旧工兵橋」も、ノロ高地の東北東にある。
完全に、背後を取られていたのである。
上記の手記は、包囲されていたノロ高地からの脱出劇であった・・・。
しかし、個人の兵士の手記と言うものからは、なかなか、その大きな状況は読み取れない。
兵士たちは、目の前の敵と懸命に戦っていただけだ。
そして、ソ連の大包囲作戦に対し、日本軍上層部も状況を把握できていたのか?
目の前の敵と戦うことさえも出来ていないのに・・・。
ノロ高地には、二十三日に赤旗が立てられた・・・。
(2007/09/01)