懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

鉄道 水島臨海鉄道

2012年04月03日 | 鉄道
倉敷駅と水島を結ぶ鉄道に水島臨海鉄道がある。

昭和18年に三菱重工水島航空機製作所の専用鉄道として誕生
昭和27年に倉敷市交通局に譲渡
昭和45年に水島臨海鉄道となる。貨物輸送と乗客輸送をしている。

乗客輸送は11.2km、11の駅がある。列車本数は41便ありローカル鉄道にしては多い。

地元の人は臨海鉄道の事をピーポーと呼んでいる。ピーポーに乗っていくで通じる。
ピーポーは擬音語化している。チンすると同じ使い方である。

私は水島コンビナートに働きに行っていたので毎日臨海鉄道の踏切を渡った、40年間一万回は渡ったであろう。

土曜日に出勤していたら工場地帯でディゼル機関車の写真を撮っている人を見かけた事がある。

臨海鉄道の倉敷市駅は国鉄の倉敷駅の少し西にある。
駅舎と構内の写真を投稿します。



宗谷本線  芦川駅(廃止)

2012年03月23日 | 鉄道



宗谷本線 芦川駅 2001年7月1日駅が人口減少で廃止された。

芦川駅はサロベツ原野にあり開拓農家が明治以降入植したが厳しい気象状況、作物も米は作れず離村する人が増え、1986年に駅は無人化され住む人も少なくなり乗降客もおらず駅が廃止された。
私が宗谷本線で稚内から旭川に移動する途中、芦川駅の駅員さんを撮影した。
何か映画のポッポ屋のワンシーンのようでもある。
各駅で駅の風景を撮影しておくと今となると面白かったと思うが冬は停車時間でレンズの曇りがとれず撮影は難しい。
それと貧乏撮影旅行のため車内泊が多く睡眠不足で移動中はひたすら寝ていた。

ここまで北辺にくると米は作れない。旭川周辺は広い水田が広がっている。
どの農家も十町歩から二十町歩の広さである。米の北限は遠別と言われている。
芦川駅より50kmほど南であろうか

芦川駅の次の抜海駅は宗谷本線の蒸気機関車の撮影場所だった。天気が良ければ利尻富士を入れて撮影できる。
抜海駅は最北の無人駅で夏場、自分探しの旅で若者がこの駅に降りる。
「何もないからよい」の言葉に若者は駅に降り時間をつぶす。
ニートの若者、仕事のない若者、みんなの思いを書いた旅ノートに自分を探そうとしている。
2010年8月26日に放送されたNHKにっぽん紀行を見ながら宗谷本線に乗った頃の私と同じと思った。
若い頃は自信が持てず詰らない事でくよくよしている。
北海道の冬の旅を通して厳寒の地で逞しく生きる人々を見て私も逞しく生きようと思ったものだ。

井笠鉄道

2012年03月20日 | 鉄道
岡山県に笠岡と井原を結ぶ鉄道があった。
鉄道なので急な登りは避けて山のないコースを走っていたいた。
明治44年7月1日に開業した井笠軽便鉄道である。昭和46年4月1日に廃止となっている。
路線は東は矢掛、西は広島県神辺町まで伸びていたが本線以外は昭和42年に廃線になっていた。

軽便は在来線の軌道より狭いものをさす、井笠鉄道の場合は762mmで通称ナローゲージと呼ばれている。

廃止されることを知って何度が撮影に出かけた。
今回の写真は笠岡市の籤場(くじば)駅の風景です。
籤場駅がどのあたりにあったか地図を見ても痕跡が残っていないのでわからない。
消えたものを再び訪れる事はしたくない。
行って幻滅するより 42年前の記憶のままのほうがよい。

大正時代の木造客車がギコギコ軋ませながら走ったのが懐かしい。
貨物用の木造貨車も味がある。
鉄道ばかり撮るのでなく駅の周辺や沿線の風景も撮るべきであつた。

ホームページを検索すると日本国中の軽便を撮影している人がいる。
世の中には凄い人がいるものだ。昭和30年代から軽便は廃止されているので中学生、高校生の頃から興味を持って行動して撮影しているが素晴らしい。
私はカメラに興味も無かったし買ってもらえる状況でもなかった。








山陽新幹線 岡山開業四十周年

2012年03月13日 | 鉄道
三月十五日で山陽新幹線岡山開業が四十周年を迎える。

山陽新幹線岡山開業の日、私は東京駅で始発列車のテープカットを撮影していた。
東北の米坂線を撮影して夜行で早朝に東京駅に着き新幹線ホームでテープカットをまった。

出発ホームは報道陣が大勢いたので向かいのホームから撮影した。
鉄道ファンが10名ほど待っていた。
三月十五日の東京の日の出は五時五十二分だった。
まだ薄暗く三脚にカメラをセットして撮影した。

岡山は開業駅ため始発ホームは東京より人手がはるかに多く一般の見学者は乗降ホームから締め出されていた。
岡山の日の出は六時十五分で東京より二十三分遅い。
まだ暗く写真を見るとフラッシュをたいている。

私は始発列車を撮影してそのあとの列車で岡山に帰った。開業日だったので乗車客には記念絵ハガキが配られた。これをもらうために初日の列車に乗り込んだ。後楽園や岡山城の絵ハガキだった。

新幹線はすべて0系で新幹線を撮影する人も少なかった。
(0系は1964年から1986年まで3216両造られた)
新幹線が出来て間が無かった事で骨董価値がなかった。あの当時のフィルムはフィルム感度が低く新幹線の走行をブレずに撮るのは難しかった。
蒸気機関車など骨董価値のある鉄道風景が沢山あり新幹線は人気がなかった。

しかし、人間不思議なものでなくなるとなると異常な人気になるものだ。
0系新幹線しかりブルトレ、あれだけ走っていた気動車しかりである。
情報手段が発達して情報に左右される人が増えた。人気のある情報が正しいのだと判断する人が増える傾向がある。一杯走っていた頃には将来なくなる事が想定できないものだ。

テープカット


鉄道ファン

鉄道 伯備線 特急おき

2012年02月27日 | 鉄道
特急おきは伯備線に初めて走った特急だった。
それまで山陰線で急行とし走っていた「おき」が特急に昇格した。

従来、地名は急行名であったが特急の増加で地名を付けた特急が増加したのもこの時期だった。
特急は鳥の名や色彩や気象用語などが多かった。夜行寝台は天体に関する名が付いた。
「おき」が登場したのは昭和46年4月だった。これは昭和47年3月15日の山陽新幹線岡山開業に合わせて姿を消して特急「やくも」に変更となる。
新幹線岡山開業に合わせての増便できるかの試行ではなかったと思われる。


「おき」はキハ82系のディゼル特急だった。やくもになりキハ181系が投入される。
伯備線にもまだ腕木式の信号機が残っていた。

鉄道 電気機関車EF58形

2012年01月24日 | 鉄道
撮影場所 岡山県山陽本線高梁川鉄橋 特急寝台 「あかつき」


EF58形電気機関車 172両製造
誕生は1946年、戦後まもなくして製造された。
1952年に大改造が行われ性能アップしている。
直流電気機関車として東海道線や山陽線で活躍
関西地区、岡山県や広島県はなじみの機関車だった。
客車の牽引が多かったが貨物も牽引していた。
山陽線では機関車が客車を引くのはブルトレか団体列車しかなかった。最終的には1985年まで運用されていた。

ゴハチの愛称で呼ばれ根強いファンがいた。
ブルートレインも牽引していたので夏場の早朝に高梁川の鉄橋に何回か撮影に行った。




撮影場所 倉敷駅 EF58牽引の団体列車

鉄道 山陽線庭瀬駅

2012年01月21日 | 鉄道


山陽本線 庭瀬駅(岡山県)の古い木造駅舎を撮る。
大きな駅以外はどこも木造のくすんだ駅舎だった。
岡山駅の次の駅だったが田舎の駅である。
若い女性が一人立って乗降の人を待つ。
家族を待つのか、恋人を待つのか、友達を待つのか
恋人を待つ女性の姿としたいがいかがであったのか
こんな写真を撮った事も忘れている。
Discover Japanのポスターが貼られている。Discover Japanは昭和45年から始まった国鉄のキャンペーン。古い物は壊されていった時代、日本の古き良き時代の再発見にもなった。


現代ならば若い女性はどんな格好で恋人を待つのだろうか
まず携帯の画面を見ながらパチパチやっている事であろう。
あの姿には情感も哀愁も漂ってこない。
駅は人の出会いと別れの場でもあり生活の場でもある。
今、思うともっと駅でどんな人が行き交ったかを撮影しておくと面白かったと思う。

蒸気機関車 雪の給水

2011年12月24日 | 鉄道



宗谷本線 名寄機関区ての蒸気機関車への給水風景

蒸気機関車はC55形、普通列車を牽引して旭川から稚内を走行する。
蒸気機関車は給水と給炭のため機関区に立ち寄る必要がある。
このため停車時間が20分以上はとってある。
機関区は80kmから100kmごとに設置されている。
給水の間にブレーキに付いた圧雪などを突き棒で除去する。
除雪も含め雪国の鉄路を維持するには大変金がかかる。

雪の降りしきる中、働く人々に敬服せざるを得ない。
自分も同じ環境に身をおき厳しさを体験することが人間には必要と思う。
もっと寄って撮らなかったのか、これでは厳しさが感じられないぞ。


蒸気機関車  山陽本線庭瀬鉄橋

2011年12月22日 | 鉄道
岡山市庭瀬の足守川にかかる鉄橋がある。
山陽本線に伯備線の列車が乗り入れるのでいろいろな機関車、電車が見られる。
蒸気機関車ありEF60.EF61.EF58.EF65.EF66の電気機関車、たまにEF15も走っていた。
電車もゲタ電といわれる旧型電車、80系が普通電車のほとんどだった。
特急電車も山陽新幹線が開業しておらず「つばめ」「はと」など色々走っていた。
特急電車はボンネット形の485系、寝台特急の583系、伯備線、九州からのディゼル特急など多彩であった。
少し高くなっているところから撮影できる。
根性をだして一日どれだけどんな車種が走るか全部撮影し記録をしておくと面白かったかもしれない。上り下りだと大変な数であったと思う。
目的の写真を撮影すればさっさと帰ったのでは発見や体験できない物もある。
私はモノクロで撮影していたので電車は色が判らないと撮影しても意味がないと撮影する気がもともとなかったようにおもう。

蒸気機関車 三重連回送列車 ほぼ毎日走っていた。


EF60牽引の貨物列車



D51とDF50 蒸気機関車とディゼル機関車の重連 DF50は山陰線に回送されていたのか



EF61牽引の貨物列車



旧型電車

蒸気機関車 新見機関区

2011年12月12日 | 鉄道
新見機関区に蒸気機関車が沢山いた頃の扇形機関庫の写真です。
新見機関区の場所が正確にどこにあったか思い出せない。
新見美術館に行った時に上から眺めるがはっきりしない。
新見機関区には伯備線、姫新線、芸備線の機関車が立ち寄るので蒸気機関車は機関庫や周辺に沢山いた。

機関庫がまた注目を浴びている。津山機関庫にも見学者が訪れている。
ほとんどの機関庫はSL全廃後に撤去されたが少しは残ったのもある。
大分県の大分道、玖珠I/C近くに森機関庫が廃墟のように建っている。
ガラス窓は子供が石を投げて割ったのであろう。草は生え放題の廃墟
それが最近見直され整備されマニアのスポットになっている。
機関庫などが見直される背景には1990年代に近代化遺産や有形文化財の制定された事もある。
それと廃墟ブームであるうか。廃墟ビル、廃坑、廃線にマニアがカメラを持って出かけた。

蒸気機関車が活躍していたころに機関庫や木造駅舎にスポットライトが浴びるとは想像しなかった。
未来を想像するのは難しい事である。